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【文庫解説】カント最晩年の大著──『人倫の形而上学』より

『人倫の形而上学』は、カント(1724-1804)が約30年間その執筆を追求し続けた、最晩年の大著です。『人倫の形而上学』の原型をなす構想が生まれたのは、『純粋理性批判』を構想するよりも前のことでした。長きに及んでカントを執筆に駆り立てた、本書の構想とはどのようなものだったのでしょうか。以下は「第二部 徳論の形而上学的原理」の訳者・宮村悠介先生による「訳者解説」の冒頭を、本書より抜粋したものです。(最初に引かれているのは、カント自身が本書の構想に触れている手紙です。)


はじめに

 そういうわけですから、私たちがはなればなれになって以来、私は多くの部分において他者の洞察に席を譲ってきました。そして、私の注意をとりわけ人間の能力と傾向性の本来の使命と制限を知ることに差し向けた結果、人倫(die Sitten)にかんすることがらについては、ついにかなりの成功を収めることができたと私は考えています。それで私は今、『人倫の形而上学』(eine Metaphysik der Sitten)に従事しています。そこでは、明白で実り豊かな原則であるとか、この種の認識において世間で非常に広くおこなわれてはいるけれども、大部分は実りのすくないさまざまな努力を役に立つようにしたいならば、したがわなければならない方法であるとかを提示できるものとうぬぼれています。私のいつも不安定な健康が私を邪魔することさえなければ、私は今年中に完成できるものと期待しています。

 カントの『人倫の形而上学』は、一七九七年の一月に第一部の『法論の形而上学的原理』(以下、『法論』とも略)が、同年の八月に第二部の『徳論の形而上学的原理』(以下、『徳論』とも略)が、それぞれ刊行されるというかたちで、一七九七年に出版された。右に引用したカントの書簡は、カントが著作として『人倫の形而上学』を出版する意向を示した、もっとも早い時期の書簡である。この書簡はいつごろ書かれたものだろうか。健康さえ許せば「今年中に完成できる」と述べているところからして、一七九七年の出版直前のものだろうか。いや、『純粋理性批判』を出版するのにいわゆる「沈黙の十年」を要したカントのことだから、十年ほど前のものであろうか。実はこの書簡は、カントの教え子であった時期のあるJ・G・ヘルダーに宛てた、一七六八年五月九日付の書簡なのである。著作としての『人倫の形而上学』の構想は、実際の出版のおおよそ三十年前にまで遡ることになる。
 このあとこの「訳者解説」で概観するように、カントはその三十年のあいだ、『人倫の形而上学』を出版する意向をくりかえし述べており、おそらくカントが『人倫の形而上学』の出版を断念したことは、一度もない。『人倫の形而上学』の出版は、カントの四十代半ばから七十代半ばの三十年をかけて、いわば「模索の三十年」をつうじて追求された、一大プロジェクトであったのである。
 カントの哲学は一般的に、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』の三批判書を中心として考えられることが多い。こうした、三批判書を中心とするカント理解は、その後の哲学史におけるカントの受容のされかたからして、おそらく今後も動かないであろう。とはいえ、すくなくともカントの個人史においては、『人倫の形而上学』の構想と模索という観点から、三批判書中心史観を相対化することもできるように思われる。『人倫の形而上学』の構想は一七六八年、あるいはその原型をなす構想としては一七六五年にまで遡ることができ、これは『純粋理性批判』の構想より古い。『実践理性批判』と『判断力批判』にいたっては、その独立した著作としての明確な構想は、実際の刊行の直前までしかたどることができず、『人倫の形而上学』の構想とその古さを比べるまでもない。『人倫の形而上学』のための「模索の三十年」は、『純粋理性批判』の出版に向けた一七七〇年代の「沈黙の十年」と、三批判書が立てつづけに刊行された一七八一―九〇年の十年間をすっぽりと覆い、なおその前後に十年の幅を有するのである。そしてカントは一七九〇年の『判断力批判』をもって、ある程度の時間と余力を残した状態で、理性批判という課題を「卒業」することができた。これに対し、『人倫の形而上学』はカントの著作活動の最終盤に位置づけられる、晩年の著作である。三十年もの長い期間にわたり、そして著作家としての最晩年にいたるまで、この作品を出版しなければならないという圧力によってカントに執拗に迫りつづけ、最終的にカントのほぼ最後の精力を吸い尽くしたのが、『人倫の形而上学』という作品の構想だったのである。
 カントのこの作品は、理想社と岩波書店のカント全集に収録された邦訳があるほか、より一般読者向けの邦訳書としては、『徳論』の部分を『道徳哲学』と題して訳した、旧岩波文庫版の白井成允・小倉貞秀訳があるとともに、中央公論社の「世界の名著」および「中公バックス」のカントの巻には、『プロレゴーメナ』および『人倫の形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』とも略)とともに、『人倫の形而上学』の『法論』と『徳論』の双方の邦訳が収録されていた。このシリーズが「中公クラシックス」に移行するにともない、『人倫の形而上学』の邦訳は収録されなくなったが、かつて坂部恵はその「中公クラシックス」のカントの巻の刊行にあたり、「できれば『基礎づけ』を『人倫の形而上学』とあわせて読むことが望ましい」のであり、「その点、この〈中公クラシックス〉のもととなった〈世界の名著〉シリーズの『カント』が、ここに採られた『プロレゴーメナ』『人倫の形而上学の基礎づけ』とならんで『人倫の形而上学』のテキストを含んでいたことは、編者である野田又夫の見識を示す適切な選択である」と指摘していた(坂部恵「二〇一年目のカント」、『中公クラシックス カント』に所収)。その『人倫の形而上学』の邦訳のテキストが、『法論』の訳者である熊野純彦の発案により、ここにはじめて『法論』と『徳論』からなる完全なかたちで、岩波文庫として刊行されることになった。

(続きは、本書『人倫の形而上学 第二部』をお読みください)

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