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3.11を心に刻んで

笠井千晶

伝え、報道することで社会を変えることができる、私はそれを信じています。
(山本美香『山本美香最終講義 ザ・ミッション 戦場からの問い』
早稲田大学出版部

*  *


 2011年。戦場ジャーナリストとして世界を歩いてきた山本美香さんは、東日本大震災の現場にいた。被災地を前に、日本にも「戦場」があったと表現したという。福島県浪江町では、原発事故で故郷を追われた母と娘の姿を、終の住処を見つけるまで取材すると約束していた。しかし、翌年にシリアを取材中、銃弾に倒れ、志半ばで帰らぬ人となった。
 7年前の夏。テレビ局の記者だった私も福島にいた。組織の中では、原発事故の被災地に自由に足を運べない、そんなもどかしさを感じ、休日に一人ビデオカメラを手に南相馬市を訪ねたのだ。「福島といえば原発事故」。当時そう思っていた私の目を、開かせてくれる出会いがあった。上野敬幸さん。両親と2人の子どもを津波で亡くしていた。

 「福島で、津波のこと言う人は誰もいない。放射能のことしか言わない。ずーっと置いてきぼりだ、ここは」

 静かに淡々と語る上野さん。どうせ誰もわかってくれない、そう言っているようだった。その言葉に初めて、津波で失われた命に目が向けられなかったという事実を知った。
 福島県沿岸部では1800人余りが津波の犠牲になった。だが原発事故が起きると市民は一斉に避難を始めた。震災後1ヶ月以上、自衛隊も捜索に来なかった。上野さんは避難を拒み自力で捜索を続け、瓦礫から見つけた8歳の長女・永吏可(えりか)ちゃんを自分の手で安置所へ運んだ。そして3歳の長男・倖太郎くんは今も行方不明のまま。
 以来毎月、福島に通う。カメラは持っていくけれど、「上野さんが、自分から話してくれるまで待とう」、そう決めていた。さりげなく足を運び、同じ時間を過ごす。すると次第に、様々な想いを打ち明けられるようになった。
 震災から3年後の冬、上野さんが精神的に追い込まれた時期があった。大雪の中、訪ねていった私に、こう話してくれた。「みんなには当たり前に家族がいて、“普通の” 生活をしてる。でも失った自分にとっては、それを見るのも辛くて」と。その苛立ちから、生き残ってくれた家族にさえも、声を荒げてしまう自分が不甲斐ないとも。その頃から、妻・貴保さんや震災後に生まれた次女・倖吏生(さりい)ちゃんの言葉にも、直接耳を傾けることを始めた。亡くなった家族に対して、それぞれの想いがあることに気づいた。
 上野さん一家の歩みを記録しながらフリーとなり、6年かけてドキュメンタリー映画「Life 生きてゆく」を完成した。全国各地で上映を始めると、上野さんがやって来て、登壇してくれるようになった。「命より大事なものがありますか?」そう会場に向かって語りかける。失われた命を伝えることが、せめてこれから起きる災害では、命を守る「教訓」になればと願う。

(かさい ちあき・映像ディレクター)

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