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3.11を心に刻んで

ヤマザキマリ〈3.11を心に刻んで〉

「この世は通過するだけのものだから、あまりきばる必要ないよ」
(水木しげる 『カランコロン漂泊記 ゲゲゲの先生大いに語る』 小学館)
 
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 水木しげる氏は “死” というものと常に向き合いながら生き続けてきた表現者のひとりである。戦時中ラバウルのジャングルでは目の前で仲間や敵が次々と倒れいき、本人も何度も生死の間を彷徨ってきた、その経験はどうやったって真似のできるものではない。この人は “死” というものを不必要に大袈裟なものとして捉えたり、悲しみという情動的な装飾で盛る事も無く、その表現はどことなく諦観し、飄々としている。
 むかし熱心に読み耽った『河童の三平』を、私は今でもたまに本棚から引っ張り出すことがあるが、この作品の何に惹かれるかといえば、それはきっとこの物語全体から放出されている極めて自然な死生観だ。
 主人公の三平少年はまだ小学生だが、彼の日常は死の気配に包まれている。なぜなら彼の家には “死神” がしょっちゅうやってくるからだ。しかし、三平は死を別段恐怖と捉えているふうでもなく、当然のこととして向き合って生きている。一緒に暮らしていたおじいさんも、久しぶりに出会えた父親も、話の途中であっけなく死神に連れていかれてしまうが、三平は寂しさを感じながらも、たったひとりで田舎の家で暮らし続けるのである。
 クライマックスで三平は突然思いがけない死を迎えることになるが、そこでこの子供は「ぼくはとりかえしのつかないことをしてしまった」と自分の亡骸の前で俯いて動揺する。初めてこの漫画を読んだ時、私はこの「とりかえしのつかないことをしてしまった」という三平の一言が印象的で、ずっと胸の底に滞っていた。自分が死んでしまった時に感じるかもしれない激しい動揺と、命を思う様に管理できなかった自責の意識に気付かされた。大事な人々を悲しませるだけではない。もう肉体を操作することもできなければ、誰とも喋ることも、触れ合うこともできない。自分の死と向き合うことは誰かの死と向き合うよりも、もしかしたら辛い事かもしれない、という暗示が込められているようなシーンである。でも三平は、その後この世に強い未練を残すこともなく、死神と一緒に “遠いところ” へ行ってしまう。
 死を恐れではなく、与えられた命の一部分として寛大に、そして優しく捉えている人でなければ、あのような漫画を描くことはできないだろうと思う。
 きばる必要はない。樹々も虫も動物も、生死に対してきばってなどいない。自然に生まれて自然にこの世を去って行く。大事な人を失ってしまった人にも、そして自分自身を失ってしまった人にも届いてほしいそんな地球からのメッセージを、水木さんがかわりに残してくれたような気がしてならない。

(やまざき まり・漫画家、随筆家)

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