web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

3.11を心に刻んで

今野晴貴〈3.11を心に刻んで〉

理想社会を構築するための白紙状態への希求──(中略)世界をゼロから創造する神のごとき力をわがものにしたいというこの欲望こそ、自由市場イデオロギーが危機や災害に心惹かれる理由にほかならない。
(ナオミ・クライン『ショック・ドクトリン——惨事便乗型資本主義の正体を暴く』岩波書店

*  *


 災害は私たちの日常を物理的に破壊するだけではない。それにさらされた者の精神を「白紙状態」に置く。ハリケーン・カトリーナや、あるいはリーマンショック期には、人々の「白紙状態」を利用して、通常では受け入れられないような制度が次々に成立していった。
 大規模災害を希求する勢力が存在するとは、いささか強烈な指摘である。だが、私が3・11を回想するこの短いエッセイでこの言葉を選んだのは、その後に建設された大防潮堤のような「開発」を直接批判したいがためだけではない。
 何よりも、私自身がこの震災で「白紙状態」を味わったからだ。私の家族は仙台市に居住している。今回の震災では祖母宅が全壊・取り壊しとなった。母に聞いた話では、被災直後、祖母宅にむかおうとする間、停電の暗闇の中を人々がぞろぞろと、避難所の学校の校庭へと歩いてきたという。見慣れた風景の、あまりにも異様な描写。
 4月には私自身も、友人の住む多賀城にがれきの処理を手伝いに向かった。市内からバスは通っていたが、次第に国道に砂が混じり始める。すると突如、分離帯の上に車が積み上げられる風景が現われた。その横には、「いつもの」交通量。多賀城では、いまだに地面が燃えているところがあったが、立ち入り禁止の表示があるだけで、実際には通行可能だった。
 「白紙状態」に日常が混じりこむ感覚。非日常と日常が区別できなくなるような体験であった。
 この、「白紙状態」と日常の交錯は、今や私たちの社会の多くに存在すると言えるかもしれない。3・11後、私が取り組んできたブラック企業問題でも、入社と同時に明かりのない山小屋に宿泊させ、寝させないなどの「洗脳研修」が行われる例がある。そして、死ぬほどの長時間労働とパワーハラスメントで「心神喪失状態(白紙状態)」に置かれた労働者たちが、異常な労働を耐え忍んでいた。また、究極の貧困状態に置かれた者は、権利を主張することさえ思いつかないだろう。
 日常の意図された「白紙化」は、すでにさまざまな場面で権力のテクノロジーと化しているのかもしれない。そして、だからこそ、それが最大級に発揮される「災害」を待ち望む者さえ現われるのだろう。
 大規模災害は、これからも避けられない。私たちが震災から学んだことは、「白紙状態」が現に、いつでも起こるということではないだろうか。その自覚と教訓は、これからも重要であり続けると思う。

(こんの はるき・NPO法人POSSE代表)

バックナンバー

閉じる