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赤坂憲雄 性食の詩学へ

第一章 指、または恥知らずな冒険 3〈性食の詩学へ〉

1 神秘の森で小指が切り落とされる③

 
 くりかえすが、この指の章においては、主人公はやはり小指なのである。小指の謎は、いや、業は深いといってもいい。さらに左手の小指に堆積する記憶は、いっそう深く、混沌(カオス)にいだかれている。
 だから、思いきって問いかけてみなければならない。なぜ、子どもらは約束のシルシとして小指をからませ、「ゆびきり、げんまん、ウソついたら、ハリセンボン呑ます」と指切りげんまんをするのか、と。針千本に怯えた。幼い頃には、この指切りの瞬間、数も知れぬ縫い針を次々と呑まされる情景が浮かんで、からだが痺れるように硬くなった。その視覚的なイメージには、なにか人間にまつわる根源の風景がからみついている気がしてならない。
 ここで、青来有一の『小指が燃える』(文藝春秋)という小説を思いださずにはいられない。そこではまさに、小指が「約束の指」として主役を演じている、あたかも「ゆびきりげんまんの起源」へと遡行するかのように。作中で書き継がれているらしい小説の一節を引いてみる。 
わたしの小指のさきで蛍が点滅をはじめたとき、ふところにいれていた四本の小指がだんだんと熱くなります。わたしはかれらの名を呼び、ふところからかれらをくるんだ布をとりだして、地面にひろげてみました。小指はどれも白く、ふくよかで青い炎につつまれ、わたしの小指から飛び立った蛍はその炎のなかに飛びこみ、燃え尽きることなく光を発します。わたしはなんとはなしに蛍にうながされるようにして、切断した小指にわたしの小指をかさねてゆびきりげんまんをしました。連れて帰るよ、きっと生きて国に帰る、きみたちといっしょに。わたしは死の覚悟ではなく生を誓い、約束したのです。青い炎はたちまち蛍となってどこかに飛んでいきました。
 南洋の戦場が舞台である。無惨に死んでいった戦友たちから切り取った四本の小指が、青い炎に包まれて、燃える。約束の指だ。それから、その指たちは、大きなガジュマルの木の根元の祠のような隙間に隠される。かならずむかえにくる、まっていてくれ、やくそくする、忘れはしない、ほらっ、ゆびきりげんまんだ……、うそついたら、はりせんぼん、のます……。
背中の方から草いきれとともにむっとするほどの人いきれが押し寄せてきたのは立ち上がったときで、ふりかえってわたしはおののきました。朝の光になかばすきとおった兵士たちの亡霊が、ジャングルの奥から次々にあらわれてきて、ひしめきあい、押しあいながら群れて長い列をつくっていきます。メダマがないもの、耳がないもの、鼻がないもの、首がないもの、包帯を長くたらしたもの、ぼうだいなかずの敗残兵たちが、左手の小指をたててまえに突きだし、わたしににじりよってくるのです。ゆびきりを求めて……
 青く燃える左手の小指を立てて、押し寄せてくる兵士たちの亡霊のイメージは、かぎりなく鮮やかなものだ。わたしもまた、「ゆびきりげんまんの起源」へと遡行するために、ささやかな試行錯誤をはじめなければならない。
 すぐれた導きの書に出会った。鯨井千佐登の『境界紀行』(勁草書房)である。その第一章は「子どもの誓言(せいごん)としぐさ」と題され、指切りのフォークロアを論じて秀逸である。指切りには多種多様な呼称があることが、まず押さえられる。わたしたちに馴染み深い「ユビキリ」という呼称は、歴史的にもっとも新しく、古くからの地域ごとにあった多彩な呼び方を駆逐し、全国的に定着していったものらしい。賭け事や掛けるしぐさを意味した、「カケ」や「カギ」といった系統の呼称こそが、かつてはもっと広い地域に分布していた「古い時代の呼称の名残」であった、そう、鯨井は推測している。
 指切りのときに唱えられる誓言もまた、多種多様であり、「ゆびきり、げんまん、ウソついたら、ハリセンボン呑ます」という馴れ親しんだ文句の背後には、もはや失われた誓言が数も知れずあって、そこにも歴史的な変遷があったのだ、という。約束を破れば、さまざまな罰が待ち受けている。誓言はかならず、地獄へ堕ちる、盲目になる、針の穴を通る、倉・金銭・牛馬・木綿などの財物の供出がもとめられる、あるいは、指や手や乳から下などが腐る、といった処罰の言葉で締めくくられるのである。
 指切りのしぐさについては、近世の文献や後代の回想などを渉猟したうえで、かつては「仲直りの約束をするときの一つの作法」と見なされていた、という。とりわけ関心を惹かれるのは、遊郭という囲われた世界のことではあるが、「変わらぬ愛を誓うときの一つの作法」と見なされていたことだ。遊客と遊女とが、指切りをしながら、誓約の証人となるべき神や仏のことまでくだくだしく言い立て、しまいに「地獄の釜へ放(ほ)つたり」と唱え、ねんごろに行く末を契ったらしい。むろん、遊郭という非日常の場における戯れごとであった。それにしても、それがもとは「心をかよわせ、融和し、関係を固めるときの作法」であったことまで、否定するのはむずかしい。
 鯨井によれば、民俗社会においては、鉤状のものに神を招き寄せる呪力が見いだされてきた。指切りのしぐさをカギヒキと呼ぶ地方があり、そこでは曲げた指が鉤と見なされていた。たとえば、『遠野物語拾遺』八六話には、ベロベロの鉤の遊びについての記述がある。一人の子どもが車座のなかにすわって、萱や萩の茎を折り曲げて鉤にしたものをもち、両手で揉みながら文句を唱え、その終わりに鉤の先が向いていた者が、放屁の責任を負わされるのだ、という。鉤形のものに神霊を認め、「その神判を得ていた時代の名残」であったのか。指切りのときの鉤形の指は、「神のよりつく依代(よりしろ)」であったのか。
 いかにも民俗学らしいと笑われても、そこにはかならず文化的な根っこがあったはずだ。念のために、こうした鉤のフォークロアについては、小林茂の「「木の股」民具考」(『秩父 山の民俗考古』言叢社、所収)がもっとも深くすぐれた研究である。小林はその終わりに、「これらの形態と構造がひじょうに古層の人類史的な伝承をもち、子どもの遊びのうちにこの伝承が反復されて生きてきた」という言葉を残している。
 それにしても、鯨井が取りあげている、鉤状のものを男女二神に見立てた神事には関心をそそられる。千葉徳爾の著書からの引用がなされているが、その原典は小野重朗の『南九州の柴祭・打植祭の研究』(春陽堂書店)と題された報告である。鹿児島県鹿屋市高隈町の中津神社では、旧暦二月初卯または中卯(いまは新暦二月十五日)にカギヒキ祭がおこなわれている。カンガリという狩猟始めの行事のあとに、以下のような神事が続く。
 数人の部落の青年が、カギヒキの足場を作るために、木のカギクワで境内を耕す。その日の朝、高隈の上下の二つの部落の青年がメカギ(雌鉤)とオカギ(雄鉤)を伐りにゆく。深い山に入り、エノキ・サクラ・ケヤキなどの落葉樹を根元から伐って、神社まで運んだ。そして、「サヨンドシ」というかけ声とともに、境内の地面に根元の切り口を落とした。
カギヒキはカギクワで打った地上に、オカギをおき、メカギの叉をそれに上から掛けて、高隈が上下の部落に分かれて青年を中心に部落総出で引きあう。神官が太鼓・笛・摺り鉦を奏する中でカギを小刻みに上下にゆすり、そして大きく引き合う。一間ほど引いた方が勝で、カギが裂けたら裂けた方が敗け。勝った方の部落がその年は豊作になるといい、カギを引けば身がサカシイとも言う。カギヒキはカシキ(田にまく緑肥)を取り合う意味があるので、だからカギヒキの木はカシキに用いるエノキ・サクラ・ケヤキなどの落葉樹を用いるし、勝った方がカシキが多いので豊作になるのだと言っている。(小野重朗『増補 農耕儀礼の研究』第一書房、による)
 これについて、千葉徳爾は『狩猟伝承研究』(風間書房)のなかで、「作物が生育するように耕地の上で男女が結合する様子をシンボライズしたもの」と解釈し、一種の年占と見なしている。たしかに、カギクワで耕した地面にオカギをおき、その叉にメカギの叉を上から掛けて引きあうが、神官によって楽が奏されるなか、「カギを小刻みに上下にゆすり、そして大きく引き合う」といったあたりには、男女が交わる姿が象徴的に表わされているといっていい。そして、そこに田の緑肥となる木々の枝や葉を取りあう意味合いがあったとすれば、それはたしかに、男女の性交儀礼が農耕の豊穣祈願に重ねられていると考えられる。
 さて、鯨井による指切りのフォークロアの解釈は、これらを受けながら、以下のような興味深い着地点を見いだしている。
おそらく「ゆびきり」のしぐさは、男女二神の結婚=神婚を表現していたと思われる。つまり小指の雄鉤と雌鉤を絡め、男女二神の交合を演じるしぐさだったということである。〔略〕したがって「ゆびきり」のしぐさは、男女二神を招き寄せ、神々に変わらぬ愛を誓い、神婚を演じることによって、神の加護を得ようとするものであったといえよう。すなわち、互いに自己の偽りのない意思を神に示し、それを神慮にかなうものとして、保証してもらうという意味が込められていたのである。だから虚偽を述べたり、違約した場合は、神の審判をあおがなければならなかったのであろう。こうした「ゆびきり」のしぐさが、愛の誓いのときだけでなく、やがて仲直りのときの作法へと展開していったのではなかろうか。
 鯨井はこうして、カギの習俗やカギヒキという呼称を仲立ちとして、男神と女神の結婚を主題化した農耕儀礼から、遊客と遊女の愛の誓い、仲直りの作法へ、さらには、子どもらが交わす約束のしぐさへと繫がれてゆく、見えない文化史の連環を浮き彫りにしてみせた。わたしはこうした鯨井の仮説的な了解にたいして、ある深い共感を隠そうとは思わない。
 ところで、鯨井が取りあげていた、もうひとつの指切りの習俗にも触れておきたいと思う。それは、ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの『ヨーロッパ文化と日本文化』(岡田章雄訳注、岩波文庫)の第四章に見えていた、「ヨーロッパでは主人(セニョール)が死ぬと従僕らは泣きながら墓まで送って行く。日本ではある者は腹を裂き、多数の者が指先を切りとって屍を焼く火の中に投げ込む」という記述にかかわるものだ。これについて、岡田章雄は以下のような注釈を施している。
主君が死んだ時、家臣従者等が殉死(追腹という)をすることは当時の慣習であった。また小指の先を切りとって火葬の火の中に投ずることもおこなわれていた。平戸のイギリス商館長リチャード・コックスの日記(一六二一年九月二十四日の条)に、松浦信実の葬儀の際の模様を記して、「多くの友人はその小指の先の関節を二節だけ切り取ってこれを死体と共に焼くため火中に投げ入れた。これは彼らが自ら大なる名誉であると考え、また彼に対するせめてもの奉仕だと考えているのである。」とある。
 主君の葬儀において、家臣や従者が名誉や奉仕として、切腹のほかに、みずからの小指の先を切り取って、火葬される死体のかたわらに投げ入れる習俗があったということか。ここでも、切り取られた小指は焼かれている。よっぽど縁があるのか、小指には火難の相がまとわりつくようだ。
 あらためて、遊女の指切りをめぐって。これについて、鯨井は『色道大鏡』(一六七八年)という書物の「心中の部」「切指の編」から、「指をきりて男に報ずるは、傾城(けいせい)の心中の奥儀とす」云々という記述を引いたうえで、こう述べている。すなわち、「切った指は身体の代用的シンボルにほかならず、永遠の忠誠や愛を誓うために、自らの偽りのない誠意のあかしとして誓約の相手に贈ったのである」と。約束のしぐさとしての指切りから、誓約のために相手に贈与される切り落とされた指へ。いや、それならば、角田光代の『曾根崎心中』(リトルモア)には、遊女の風習として、「起請文で愛を誓い、それで足りず髪を切って愛を誓い、それで足りず爪を剝がして愛を誓い、それで足りず指を切って愛を誓い、それで足りず入れ墨をして愛を誓う」ことが語られていた。その先にはもはや、「愛する人といっしょに来世に向かって旅立つこと」、つまり心中しか残されていない。
 こうした悪所に囲いこまれた江戸の遊女たちの、いわば心中立ての作法としての指切りと、主君の火葬の火のなかに小指を投げ入れる、葬送の作法としての切指(きりゆび)とは、いかなる関係にあったのか。ともあれ、鯨井の指摘するように、切り落とされた小指はいずれも、永遠の忠誠や愛を証したてるための「身体の代用的シンボル」ではあったにちがいない。そのあたりに、ヤクザの小指を詰める作法のルーツが見え隠れしているのかもしれない。

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著者略歴

  1. 赤坂 憲雄

    民俗学・日本文化論.学習院大学教授.福島県立博物館館長.東京大学文学部卒業.東北芸術工科大学教授として東北文化研究センターを設立し,『東北学』を創刊.2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞受賞,同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞.『異人論序説』『排除の現象学』(ちくま学芸文庫),『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫),『東西/南北考』(岩波新書)など著書多数.

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