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3.11を心に刻んで

羽田貴史〈3.11を心に刻んで〉

若者をシティズンシップ教育と批判的思考によって現代世界に立ち向かえるよう教育しないのは、彼らを「サメがうようよしている海へ準備なしで」放り込むようなものだ〔略〕ましてや人間としての社会性を欠いたまま、他人を食い物にするサメに喜び勇んでなるような一部の学校卒業生などは論外である。
(R・ホガートを引用して、B・クリック『シティズンシップ教育論――政治哲学と市民』法政大学出版局

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 あの日、私は京都におり、東広島市の妻からの電話で地震を知った。翌日、東京まで戻ったが、単身赴任先の東北大学には帰れず、東京で10日間、帰宅困難学生のケアにあたった。妻の実家は、江戸時代から南相馬市小高地区(原発から15キロ)で農業を営み、義父母、義妹夫婦一家が住んでいた。津波で実家は壊れ、義父母は原発が壊れたとの知らせで着の身着のまま県内を転々とした。4日たっても事故は収まらず、私は一族7人を2回に分け、飛行機で伊丹空港に脱出する手配をした。東広島市の自宅にたどり着いた皆は、ぼろ雑巾のようだったという。義妹夫婦は地元の好意で公営住宅に入り、甥姪は地元の小学校に転校した。
 義妹は南相馬市職員で、自ら被災者ながら被災者支援のために戻らなければならない。放射能汚染の不安を抱えながら、1年余りで義妹一家は戻り、義父母は東広島市で生気を取り戻していった。私の単身赴任解消のため、妻は2年後、仙台に移り、義父母だけの生活が続くが、すでに70歳代後半で荒れ果てた家を再建することは難しく、苦渋の結果、家を放棄し、賠償金を受け取る選択をした。やってきた東電の担当者は、わかりにくい書類を片手に適用除外であると老夫婦を説得しようとした。困惑した義父母の連絡で、被災支援に従事する義妹が交渉の前面に立つと、担当者は手のひらを返し、たちまち話が進んだ。80歳近い2人だけの生活も心配であり、家族は相談し、南相馬市に戻って仮設住宅に入ることにした。しかし、住みなれた地域はすでになく、人々は離散していた。「学校への行き帰りに近所の子どもが挨拶してくれた。ああいう生活は戻らないのか」「悪夢を見ているようだ」。仮設住宅を出て義妹一家と隣り合わせの家に住んでも8年たっても、義父母は現実に納得できない。若者は未来に生き、老人は過去の思い出に生きると言われるが、その思い出すら奪われたのである。
 小高地区には、かつて「子孫に美しい自然を残そう」というスローガンで、原発建設反対運動があり、原発を作らせなかった。私は14年半福島大学に勤め、同僚に連れられて原発労働者の被曝調査に参加したこともある。当時の県・東電・国は、原発のリスクを説明せず、事故の報告もおざなりで、安全対策より経済性を重視した。その結果が、このざまである。日本の大学は遅れていると政府関係者・財界人は論難する。日本の大学が失敗したのは明らかだ。優秀な大学で学び、難しい試験を突破しながら、他人を食い物にし、人々の夢をつぶしながら、それを恥とも思わないサメのような人間たちを育てたのだからだ。

(はた たかし・教育史研究者)

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