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赤坂憲雄 性食の詩学へ

第一章 指、または恥知らずな冒険 7〈性食の詩学へ〉

2 抵抗のフェティシズムのゆくえ③

 
   さて、わたしはいま、佐伯順子の「谷崎文学におけるフェティシズム」(田中雅一編『侵犯する身体 フェティシズム研究3』所収)を取りあげようとしている。谷崎を論じて、たいへん周到にして示唆に富んだ論考であった。副題には「フロイトとマゾッホを超えて」とある。谷崎文学の秘め隠された位相が鮮やかに浮き彫りにされている。「足フェチとマゾヒズムはまったく切り離し難いものである」(ジャン・ストレフ『フェティシズム全書』)といった見方は、そのままに谷崎文学が論じられる場面にも通説のように覆いかぶさっているが、佐伯はそこに楔を打ちこんでいる。
 佐伯によれば、谷崎の足への執着は二つの要因に由来する。ひとつは、女の足がもつ造形的な美しさであり、いまひとつは、女の足が〈男を蹂躙する〉行為の主体となっていることである。そうした〈男を蹂躙する女性像〉の理想化は、たとえば「刺青」では、男の屍骸(むくろ)を踏みつける女の足に凝縮されている。あるいはそれは、『瘋癲老人日記』では、老人がひざまずいて颯子の足を舐り、三本の指を頬張る姿において描かれていた。そうした行為は、「顔への接吻にも等しい、いやそれ以上に陶酔的な経験」として描かれていた。足へのキスはたんなる接吻ではなく、「女性に蹂躙されることの歓び」へと繫がっている。
 ふと、テォフィル・ゴーチエの『サバチエ夫人への手紙』を思いだす。そこには、恋文の末尾に置かれる決め台詞として、「あなたの踝と腋の下に接吻します」という言葉が見いだされる。作家はこのとき、恋する女性に向けて絶対服従を誓っている。汗や汚れにまみれた踝と腋の下に、それにもかかわらず困難を乗り越えて接吻することで、最大限の誠意を示す、ということであったか。ゴーチエは書いている、「あなたの足を舐めます。あなたの足元にひれ伏して……。くるぶしに口づけをし……。あなたが歩く道に私の額が敷石となって踏まれるよう……。足の下に私を……。あなたの靴下の前に私はひれ伏します。あなたの歩む道ばたの塵芥となって……」(『フェティシズム全書』)と。また、同じ書物には、ポール・ヴェルレーヌのこんな詩の一節が引かれている。すなわち、「握りしめ、香りを嗅ぎ、口づけし、舐め回す、/足の裏から指にまで/巡りの悪い血管の網の目まで」と。相手は娼婦であったか。その娼婦たちが、かれら作家たちの恋愛について、「頭でっかち」で「心根が乏しい」と、ひそかに眺めていたことも忘れるべきではない。ともあれ、谷崎がどこまで気づいていたかは知らず、海の向こうには、足フェチという嗜好をともにする名だたる拝物教徒の文学者たちがいた。とりあえず確認しておけば足りる。
 ところで、わたしはこれまで、フェティシズムとはなにか、という問いにはあえて触れずに来た。たとえば、佐伯が引いている『現代セクソロジー辞典』によれば、フェティッシュとは「性的でない物体あるいは身体の一部(手袋、足、靴、ハンカチ)で、性的象徴性が賦与されており、性的興奮を呼び起す力のあるもの」である。こうした定義にはいつだって、そこはかとなく逸れてゆく感触がつきまとう。だから、『フェティシズム全書』の著者であるジャン・ストレフが、あらかじめ自身の際限もない偏向振りを断りつつ、自身が「あらゆるもののフェティシスト」であることを宣言しているのは、むしろ誠実な態度であったかもしれない。この人は、「動くものすべての(あるいは微動だにしないものの)」フェティシストであり、「肉体に残った、心に残った傷痕」や「闇の世界の獲物」や「不可能なもの」のフェティシストであることを自認している。フェティッシュの目録にはそもそも際限がない。あらゆるものが呪物となることを許されている。フェティッシュは徹底的な開放系である。
 フロイトには「フェティシズム」(『フロイト全集』19)と題された、あまりに有名な論考がある。フロイトの語るところによれば、フェティッシュは「ペニスの代替物」であり、まったく特別な、「女性(母親)のファルスの代替物」なのである。男の子は「女性のファルスが存在している」ことを信じており、それが存在しないということを認めようとしないのだ、という。それはまた、去勢に対する恐怖感がその「防御装置」として創りだしたものだ、ともいう。すなわち、女性性器を実際に目撃したときの「不気味で外傷的な印象に達する寸前の印象」などが、フェティッシュとして留められる。そうして、足や靴がフェティッシュとして好まれるのは、「男の子の好奇心が下から、つまり脚から女性性器を覗ったという事情による」のだ、という。毛皮やビロードは、「性器を覆う体毛を見た」ことをフェティッシュとして固定させているし、下着は「脱衣の瞬間、すなわち、女性にファルスがあると思っていられた最後の瞬間」の記憶を留めているのだ、という。
 こうしたフロイトの学説を、「日本文学におけるフェティシズム分析に安易に援用することには疑問が残る」と、佐伯は述べる。わたしもまた、フロイトのファルス中心主義には、奇妙な違和感を拭えずに来た。控えめにいっても、飛躍がある。すべてのフェティッシュの目録を覆い尽くす解釈とも思えない。ファルス=男根なんて、それほど大仰なものか、と呟いてみる。勃起する男根を知らずに、処女懐胎だって可能な時代がそこまで来ているのに、最後の悪足搔きではないか。そう、乱暴を承知のうえで、あえて言い放ってみるのもいい。
 佐伯はここで、谷崎に導かれながら(と、あえていっておくが……)、なかなか説得力のある議論を展開している。幼い谷崎には、「小さくて丸っこい、真白な摘入のやうな」美しい足をした母親への憧憬があったと同時に、添い寝をしてくれる父親の男臭い匂いを気味悪いと感じるようなところがあった(「夢の浮橋」)。父親と入浴するときには、その股間の一物を気味悪がって「恐いよう」と泣いた、ともいう(『幼少時代』)。あきらかに、佐伯が指摘しているように、幼年期の谷崎には、「男性器への恐怖感、違和感」があったのだ。いわば、フロイトがフェティシズムの根源に認めた「母親のファルスが不在であることがもたらす〈去勢恐怖〉」よりも、「ファルスそのものへの恐怖感、いわば〈男根恐怖〉」こそが、谷崎の精神史の背景に見え隠れしている。男根や男の体臭をめぐって、くりかえし気味の悪さが語られていたのは、まさにファルスがもたらすその「異物感や醜さ」ゆえに、かぎりない嫌悪や忌避の対象になっていたことを意味していたはずだ。
 谷崎の女の足への執着には、どうやらフロイト的な解釈が届かないものが隠されている。谷崎の『アヴェ・マリア』(一九二三年)の以下の一節に、佐伯は光を当てようとする。聖母マリアの面影を投影されたソフィア、その「不具の貧しい娘」が、なぜ貴く見えるのか。それは「私に取っては完全な姿だ」と答えるよりほかはない。
お前はソフィアの跛足の脚がどんな形をしていると思うか? 私は〔略〕彼女の為めに、風呂を沸かして毎日その足を洗ってやる。――――それが此の頃の私の日課だ。その跛足の足こそは私に残された最後の宝だ。それは傷ましくも曲りくねってはいるけれども、私の眼には此の上もなく美しく見える、その一とひらの肉のために命を捨ててもいいと思うほど………!
 ここではたしかに、佐伯が指摘しているように、足そのものの造形的な美しさが「足への執着の理由」になっていない。むしろ、その足は痛ましくも曲がりくねっていながら、このうえもなく美しく貴いものに見えるのだ。そして、ソフィアは器量のすぐれた娘でもなかった。ただ、「その大きな碧い眼の中にある深い憂鬱」に惹きつけられるのだ、という。いずれであれ、ここにも美しい顔の専制は見られない。
 佐伯によれば、ここでの足への執着の源には、足の所有者である女性そのものへの崇拝があり、その〈女性崇拝〉をもっとも効果的に表現できるのが、足という部位なのである。だれか他者を踏んだり蹴ったりすることは、最大の侮辱の表現でありうるが、そうした最大の侮辱や蹂躙に耐える姿勢を示すことこそが、「相手への絶対的服従、あるいは崇拝」をもっとも効果的に表現する行為となる。足元にひれ伏し、相手を仰ぎ見るという行為こそが、その足の所有者への「神々しい幻想」を引きだす姿勢である、そう、北原童夢の『フェティシズムの修辞学』を受けながら、佐伯は述べている。谷崎のフェティシズムにおいては、美しい足の鑑賞が主たる目的なのではなく、「跪いて崇敬の念を体現すること」が原動力となっている。そこでの女の足への執着は、それゆえ、フロイト的な〈去勢恐怖〉ではなく、逆に、〈男根恐怖〉と対になった〈女性崇拝〉に根拠があるのだ、という。
〈去勢恐怖〉を前提とするフロイトの発想がこれまで無条件に受け入れられてきたのは、ファルス/ペニスをもつ男性の身体を女性の身体の優位に置く男性中心主義的な世界観の影響といえる。谷崎の文学はこの西洋起源の理論を見事に相対化している。キリスト教を「父なる神」への信仰として受容するのではなく、「マリア崇拝」として、つまり〈女性崇拝〉として受容する谷崎の態度は、キリスト教の男神中心主義の東洋における読み替えとして、フェティシズム理解の文化的差異という本質的問題を提起している。
 こうした佐伯の所論にたいして、わたしは共感を覚える。すくなくとも、〈去勢恐怖〉を前提としたフロイトのフェティシズム論は、わたし自身のなかにある根源的といっていい違和感を呼び覚ましてきた。なにより、それは女たちにもあるはずのフェティシズムを理解するための道具立てとして、あまりに貧弱ではなかったか。女性たちはそれぞれのフェティッシュを、あらかじめ不在のファルスが去勢される恐怖を否認するために、母親のファルスの代替物として必要としているのか。幼い谷崎が、母親のファルスの不在を恐怖したのではなく、父親のファルスそのものを嫌悪・忌避したことを想い起こさねばならない。フロイトのフェティシズム論は、あまりに無邪気なファルス中心主義に支配されていたのではなかったか。
足よりも顔に価値を置くこと、モノよりも精神に価値を置く世界観は、既成の硬直した秩序の再確認にすぎないの〔で〕はないかーー谷崎のフェティシズムが問うているのは、こうした根源的な価値観の転換なのである。足に対する顔の優位、肉体に対する精神の優位という価値観は、つきつめれば男性中心的な世界観がもたらしたものではないか。それよりも、精神とモノ・肉体、ひいては、部分と全体のヒエラルキーを攪乱することこそが、谷崎のフェティシズムの最終目標であり、社会の主流的価値観の多くが男性側からもたらされている以上、それを攪乱するためには、〈女性崇拝〉としてのフェティシズムが浮上してくるのも必然となる。フェティシズムが男→女という一方向性をみせるのは、一概に〈女性蔑視〉の産物とはいえず、既成の秩序攪乱の所産ともいえるのである。
 いくらかの留保が必要かもしれない。谷崎自身はあきらかに、精神の優位性を信じていたと思われるからだ。足の裏に顔のような表情を認めた谷崎にとっては、足こそが「肉体に対する精神の優位」を証し立てるものであった。いや、足/顔という対峙の構図を、そのままに肉体やモノ/精神という二元論に還元するべきではない。顔に絶対的な優位性を認める視線に搦(から)めとられてゆく強迫から、しなやかに逃れながら、谷崎は精神的に、かつ肉体的・官能的にフェティッシュとしての足を求めていたのである。男性中心的なまなざしの権力による欲望の自明性に抗うこと、それをやわらかく攪乱すること。そこに、〈女性崇拝〉としてのフェティシズムが浮上してくるのだ。
 ここで佐伯が谷崎文学を仲立ちとして見いだしているのは、まさに、「男性原理に基づく価値や秩序の相対化の手段」としてのフェティシズムであった。そうしたフェティシズムが避けがたく、マゾヒズムとのあいだに切断線を入れることを迫られる場面がある。谷崎の「日本に於けるクリツプン事件」(一九二七年)という、どこか奇妙な肌触りを感じさせながら、深い洞察に裏打ちされたエッセイが取りあげられている。そこで俎上に載せられているのは、まさにマゾヒズムなのである。
マゾヒストは女性に虐待されることを喜ぶけれども、その喜びは何処までも肉体的、官能的のものであって、毫末も精神的の要素を含まない。〔略〕心で軽蔑されると云っても、実のところはそう云う関係を仮に拵え、恰もそれを事実である如く空想して喜ぶのであって、云い換えれば一種の芝居、狂言に過ぎない。〔略〕つまりマゾヒストは、實際に女の奴隷になるのでなく、そう見えるのを喜ぶのである。見える以上に、ほんとうに奴隷にされたらば、彼等は迷惑するのである。故に彼等は利己主義者であって、たまたま狂言に深入りをし過ぎ、誤まって死ぬことはあろうけれども、自ら進んで、殉教者の如く女の前に身命を投げ出すことは絶対にない。彼等の享楽する快感は、間接又は直接に官能を刺戟する結果で、精神的の何物でもない。彼等は彼等の妻や情婦を、女神の如く崇拝し、暴君の如く仰ぎ見ているようであって、その真相は彼等の特殊なる性欲に愉悦を与うる一つの人形、一つの器具としているのである。
 このうえなく痛烈な批評、いや根源的な批判ではなかったか。谷崎はいわば、世にマゾヒズムと称されるものが、あくまで肉体的・官能的なものにすぎず、まるで精神的なものではないことを指弾している。マゾヒストは女の奴隷になるという現実を受容するわけではなく、そう見えるように芝居を楽しんでいるだけだ。だから、かれらが女神のように崇める女たちは、実のところ、かれらに特殊な性的愉悦をもたらす「一つの人形、一つの器具」でしかない。たとえばこれを、「マゾヒスト谷崎の偽らざる告白」(『谷崎潤一郎マゾヒズム小説集』の千葉俊二による「解題」)と見なす解釈はありうるが、わたしはそれを支持しない。いずれであれ、ここでの谷崎が、肉体的・官能的な快楽にたいして、精神的な性の愉悦こそを優位に置いているらしいことに、眼を留めておきたい。
 マゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』では、美しい女の鞭の支配下にあった主人公は最後にいたって、女は男の敵であり、男の奴隷になるか暴君になるかしかなく、「絶対にともに肩を並べた 朋輩とはなりえない」ことを宣言するのではなかったか。そして、「われから女の奴隷になるなどとは、愚か者もいいところ」であった、という反省とともに物語が閉じられるのである。佐伯はそこに、「最後まで〈女性崇拝〉の姿勢を貫き、死後も女性の足下に踏まれることを望む谷崎の文学と、最終的に女性への隷従を否定するマゾッホとは、女性観が全く逆である」という言葉を書きつけている。マゾヒズムにおいては、いっときだけ秩序を揺らしたり反転させているかに見えて、秩序の追認でしかなかったことが、むき出しにあばかれていた。すくなくとも、それが谷崎の理解していたマゾヒズムであったことを否定するのはむずかしい。
 谷崎潤一郎のフェティシズム的な冒険、と呼んでみる。それはあきらかに、マゾヒズムの根底を揺るがす志向をはらむものであった。「否認、宙吊り、予期、フェティシズム、それに幻影が、マゾヒズムに固有の星座的配置をかたちづくっている」(『マゾッホとサド』)という。フェティシズムをマゾヒズム的な星座の内側から解き放つことを、谷崎は願っていたのだ。〈女性崇拝〉としてのフェティシズムという逆説のゆくえに眼を凝らさねばならない。
 それにしても、フェティシズムの効用こそが真っすぐに語られるべきだ。女たちを主語としたフェティシズムのありようが気に懸かる。女たちは〈女性崇拝〉としてのフェティシズムを、ひそかに受容しているのではないか。たとえば、黒髪が美しいな、指が綺麗だ、お尻が魅惑的だ、足に惹かれるね……といったセリフは、美の呪縛をさりげなくほどく、いわば解毒剤のような働きをもっているのではないか。細部こそが顔の専制にたいする抵抗の拠点となる。たとえそれが、フェティッシュという名のグロテスクな物神化と背中合わせの、犯罪へと転落しかねない危うい宙吊り状態をもたらすものであるとしても、美をめぐる規範を複数化する戦略として、フェティシズムの効用は再評価されてもいい。女のなかには、男の長くて美しい指をフェティッシュとして偏愛する者が多い、ということを教えてくれた女性編集者がいた。女たちがフェティシズムの主役として登場するとき、やがて風景は劇的に変容してゆくにちがいない。あらためて触れようと思う。 
 

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著者略歴

  1. 赤坂 憲雄

    民俗学・日本文化論.学習院大学教授.福島県立博物館館長.東京大学文学部卒業.東北芸術工科大学教授として東北文化研究センターを設立し,『東北学』を創刊.2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞受賞,同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞.『異人論序説』『排除の現象学』(ちくま学芸文庫),『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫),『東西/南北考』(岩波新書)など著書多数.

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