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赤坂憲雄 性食の詩学へ

第一章 指、または恥知らずな冒険 8 〈性食の詩学へ〉

3 雲雀料理の愛の皿を、どうぞ①

 
 さて、あらためて、女の足とその指から、手やその指へと視線を転じてゆくことにする。
 谷崎潤一郎の「青い花」(一九二二年)という短編小説には、手の指への偏愛が語られている。谷崎のフェティッシュは足ばかりではなかった。主人公の愛人の阿具里(あぐり)は、美しい手をしている。そして、その「生れてからピアノのキイに触れるより外一度も堅いものに触れたことのないような、柔かい、すんなりと伸びた指ども」は、艶(なまめ)かしい色つやを帯びている。
嘗(かつ)て支那に遊んで、南京の妓館で何とか云う妓生(ぎせい)の指がテーブルの上に載って居るのを眺めた時、あんまりしなやかで綺麗なので温室の花のように思われ、凡そ世の中に支那婦人の手ほど繊細の美を極めたものはないと感じたが、此の少女の手はただあれよりもほんの少し大きく、ほんの少し人間らしいだけである。あれが温室の花なら此れは野生の嫩草(わかくさ)でもあろうか、そしてその人間らしいのが却って支那婦人のそれよりは親しみ深いとも云えるのである。若しこんな指が福寿草のように小さな鉢に植わって居たら、どんなに可愛らしいだろう。………
 支那つまり中国の妓生の、「温室の花」のようなしなやかで綺麗な手と、あぐりの手とが比べられている。その対比がおもしろい。主人公の男はあぐりの手について、妓生よりもほんの少し大きく人間らしい「野生の嫩草」である、と感じている。とはいえ、それは野の草を温室ではなく、鉢植に移し替えたようなものであったか。鉢植の土に福寿草のように植えられた五本の指とは、なんとも綺想の極みではあった。
 わたしはふと、かつて読んだことがある、東北をフィールドとしたある聞き書きの記録を思いだす。どんな本であったか、どうにも探すことができずにいる。一人の百姓の男が、遊郭で出会い溺れた娼婦の手の指について語っていた。それは、この世のものならぬ美しく華奢な指であった。百姓はそれまで、村の女たちの汚れた無骨な手とその指しか知らなかった。いわばそこでは、農婦の泥まみれの指と娼婦の指とが対比されていたのである。思えばしかし、その娼婦は元はといえば、東北のどこか村から売られていった娘であり、その華奢な指は職業的に磨かれつくられた「温室の花」だったのではないか。その対比がいかにも残酷である。よく似てる、どなたに? おれの妹に、まあ、うれしい!……(『啄木・ローマ字日記』岩波文庫)。女性の身体をめぐって、野生/文化はここでも微妙に交錯しており、ひと筋縄では行かない。
考えて見ると、もう二三年も前から自分は此の手を朝な夕な―――此の愛着の深い一片の肉の枝を、―――粘土のように掌上に弄び、懐炉のようにふところに入れ、口の中に入れ、腕の下に入れ、頤の下に入れていじくったものだが、自分がだんだん年を取るのと反対に、此の手は不思議にも年一年と若々しさを増して来る。〔略〕………あどけない手、子供のような手、赤ん坊のように弱々しくて淫婦のように婀娜(あだ)っぽい手、………ああ、此の手はこんなに若々しく、昔も今も歓楽を追うて已(や)まないのに、どうして自分は斯うも衰えてしまったのか。自分はもう、此の手を見るだけでもそれが挑発するさまざまの密室の遊びを連想して、毒々しい刺戟に頭がズキズキする。
 ここに描かれているのが、娼婦や愛人といった、特別な秘所に囲いこまれた女たちの手とその指であったことを見逃してはならない。それは「赤ん坊のように弱々しくて淫婦のように阿娜っぽい手」であり、それゆえに、密室の秘め事を連想させずにはおかぬ、ひたすら男たちを挑発し、誘惑する手とその指なのである。そうした女の「一片の肉の枝」としての美しい指は、いまだ三十代にして衰えてゆく男の身体との対比において凝視されている。
 主人公がみずからの下半身について、「ムッチリした、色の白い、十八九の娘のそれのように円く隆起した臀(しり)の肉を、彼は屢々(しばしば)鏡に映して愛撫しながらウットリとした覚えがある」と語る場面があった。その「脂ぎった、豚のような醜い脚」と並べると、少女の足がいっそう美しく見える。二人はそれを、ともに喜んだのである。そうして女性的といわれた肥満の体つきは、長いあいだの「歓楽と荒色の報い」のために痩せ衰え、いま、豹のような女によって「ずたずたに喰い裂いて骨の髄まで」しゃぶり尽くされようとしている。女との密室の遊びは、死と背中合わせに演じられているのだ。それにしても、谷崎文学からは筋肉質(マッチョ)な身体への欲望がまったく欠落している。記憶に留められるべきだろう。
 あるいは、川端康成の「眠れる美女」(一九六一年)はどうだろうか。川端にもまた、フェティシズムの匂いがする。「眠れる美女」は、「たちの悪いいたずらはなさらないで下さいませよ、眠っている女の子の口に指を入れようとなさったりすることもいけませんよ、と宿の女は江口老人に念を押した」という、思わせぶりな一文をもって始まる。禁止はいつだって、その違犯と背中合わせである。この秘密の娼館らしき場所では、ファルス的な性の交わりから遠ざかった老人たちに、年若い娘が「眠れる美女」として提供される。添い寝をする男らに禁じられた「たちの悪いいたずら」とは、なにか。どうやら、眠っている娘の口に指を入れること、そして、娘の指を口にしゃぶることは禁じられているらしい。
 主人公の老人は、ほかの老人たちとは異なり、ファルス的な交わりが可能な/不可能なあわいに立ちすくんでいる。眠れる娘を犯すといった場面はきわどく回避されながら、その代理物のように指が這いまわる。フェティッシュとしての指が露わである。くりかえし、娘の指の表情や動きが描写されている。そればかりでなく、老人自身の指への執着も感じられる。いわば、指先や指の腹で女の身体に触れる、つまり触感が老いの領域では優越していることを意味するのか。それとも、闇のなかでは自然と、触感が優位にならざるをえないということか。
 二人目の娘は、指の爪を桃色に染めて、口紅が濃かった。その脣のはしがすこし開いていた。老人の人差し指の爪先(つまさ)きが娘の歯に触れた。その歯は指にほんのすこし粘りつく。老人の指は娘の歯ならびを探りつつ、脣のあいだを行きかう。脣の外側が乾き気味だったのに、なかは湿りが出てきて滑らかになった。八重歯があった。親指を加えて八重歯をつまんでみた。それから、歯の奥に指を入れようとしたが、娘の歯は眠りながらも固く合わさっていて開かなかった。それに続く場面である。
江口は指をはなすと赤いにじみがついていた。その口紅をなにで拭き取ったものか。枕おおいにこすっておけば娘がうつ向きになったあとということですみそうだが、こする前に指をなめないと取れそうにない。妙なもので、江口は赤い指先きが口をつけるにはきたなく感じられた。老人はその指を娘の前髪にこすりつけた。人差指と親指との先きを娘の髪で拭きつづけているうちに、江口老人の五本の指は娘の髪をまさぐり、髪のあいだに指を入れ、やがて髪をかきまわし、少しずつあらあらしくなった。娘の毛先きはぱちぱちと電気を放って老人の指に伝わった。髪の匂いが強くなって来た。
 指が主役を演じている。指がときに帯びる暴力性に、息を呑まずにはいられない。ここでの感触はいかにもサディスティックなもので、たとえば谷崎文学の肌触りとは大きな隔たりが感じられる。眠れる美女とは、遊ばれる女をめぐる極限のイメージであったか。意志を表わすことを禁じられ、絶対的な受け身の状態に留まる人形のような存在を前にして、男らの妄想が思考実験のごとくにくり広げられる。いや、「その執拗綿密な、ネクロフィリー的肉体描写は、およそ言語による観念的淫蕩(いんとう)の極致と云ってよい」(『眠れる美女』新潮文庫版「解説」)という、三島由紀夫の評価に尽きるか。
 ある夜の娘は、両手を胸の前に折り曲げて、指をやわらかく祈りのように組みあわせていた。老人は娘の指をほどいて、親指を除く四本の指を一本ずつ伸ばして眺めた。そして、「細く長い指を口に入れてかみたい」ような気がした。小指に歯形がついて血が滲んでいたら、明日目覚めてから娘はどう思うか。また、ある夜には、娘の珍しい脣の形が老人を誘った。老人は娘の上脣の真ん中を小指の先で軽く触ってみた。それは乾いていた。娘は脣を舐めはじめて、よく潤うまでやめなかった。指をひっこめながら、「この子は眠りながらも接吻するのか」と、驚きを覚えた。
 足の指をめぐっては、こんな場面があった。それは長くてしなやかに動いた。指の節々の動きが手の指にも似て、この娘の「あやしい女としての強いそそのかし」が伝わってきた。その娘は眠りながら、足の指で「むつごとを交わす」ことができる。老人は娘の指の動きを、「幼くたどたどしいがなまめかしい音楽」として聞くに留めた、という。
 「眠れる美女」はたとえば指の物語であった。手や足の指が交わしあう睦言(むつごと)こそが、物語の中心に鎮座する。指と脣とがひそやかに出会う。指のもつ暴力性がむき出しになる。ときに指が脣の内側へと侵入し、ときに指は脣や歯によって犯される。ファルス的な欲望から遠ざけられた老いたる男たちにとっては、指こそがファルスの代用品にほかならない。ならば、指が戯れる脣はヴァギナの代わりであったか。しかも、三島由紀夫が指摘していたように、この作品全体がいかにも息苦しく感じられるのは、「性的幻想につねに嫌悪が織り込まれて」おり、「生命の讃仰(さんぎょう)につねに生命の否定が入りまじっている」からだろう。官能はあらかじめ閉塞を強いられており、この「絶対無救済の世界」は「没道徳的な虚無」へと、読者を誘わずにはいない。
 ここで、もうひとりの「眠れる美女」を呼び返したくなった。先に唐突なかたちで引いておいた奇妙な会話は、じつは、石川啄木がハナコという十七歳の娼婦と交わしたものだ。その同じ『ローマ字日記』のなかに、十八歳のマサという娼婦が登場する。その肌はガサガサと荒れていた。ひと坪の狭い部屋は灯りもなく、異様な肉の匂いが籠もっていた。交わりのあとに。
女はまもなく眠った。予の心は たまらなくイライラしてどうしても眠れない。予は 女のまたに手を入れて、手あらく その陰部をかきまわした。しまいには 5本の指を入れて できるだけ 強くおした。女はそれでも 目をさまさぬ〔略〕。ついに 手は手くびまで入った。“ウーウ、”といって 女はそのとき目をさました。そして いきなり 予に抱きついた。
 まるで、川端の「眠れる美女」の陰画のような情景ではなかったか。苛立ちにまみれた啄木は、そこに横たわる残酷な現実を知っていたのである。東北の村々から、貧困ゆえに身売りされていった少女たちのかたわらに、啄木自身も少年時代を過ごしていたのだから。ここでは、官能はすでに荒れすさんでおり、いっさいの救いはなく、若き啄木はまさしく「没道徳的な虚無」の底でのたうち足搔くことしかできなかったのだ。淫蕩を観念的に消費することなど、啄木には許されるはずもなかった。
 あるいは、やはり川端の「片腕」などは、まさにフェティッシュとしての手とその指だけに絞りこまれた作品である。「片腕を一晩お貸ししてもいいわ」と娘がいい、肩から外された右腕を「私」の膝に置いた、そんなはじまりの一行をもつ、なんとも不思議な物語である。まさに愛おしげに舐めまわすように、娘の腕が、手が、指が細密に描写され、言葉の織物(テクスト)のなかに織りこまれてゆく。ここでもまた、あの「言語による観念的淫蕩」こそがめざされているのだ。
 ここでは、指先の爪に眼を凝らしておく。
私の短くて幅広くて、そして厚ごわい爪に寄り添うと、娘の爪は人間の爪でないかのように、ふしぎな形の美しさである。女はこんな指の先きでも、人間であることを超克しようとしているのか。あるいは、女であることを追究しようとしているのか。うち側のあやに光る貝殻、つやのただよう花びらなどと、月並みな形容が浮んだものの、たしかに娘の爪に色と形の似た貝殻や花びらは、今私には浮んで来なくて、娘の手の指の爪は娘の手の指の爪でしかなかった。脆(もろ)く小さい貝殻や薄く小さい花びらよりも、この爪の方が透き通るように見える。そしてなによりも、悲劇の露と思える。娘は日ごと夜ごと、女の悲劇の美をみがくことに丹精をこめて来た。それが私の孤独にしみる。私の孤独が娘の爪にしたたって、悲劇の露とするのかもしれない。
 それから、「私」は娘の手に握られていないほうの手の人差し指に、娘の小指を乗せて、その「細長い爪を親指の腹でさすりながら見入っていた」。いつとなく、「私」の人差し指が、娘の「爪の廂にかくれた、小指」の先に触れる。ぴくっと、娘の指は縮まった。肘も折れて縮まった。そして、その「腕に光りがきらめき走って、私の目を射た」のである。
 爪を長く伸ばした女の指先がくすぐったいことは、以前に、別の年上の女から聞かされたことがあった、という。その女は、「食べものごしらえでも、食べるものでも、なにかちょっと指さきにさわると、あっ、不潔っと、肩までふるえが来ちゃうの」といった。食べものが不潔になるのか、爪先が不潔になるのか。指先になにが触わっても、女は不潔感にわななく。「女の純血の悲劇の露が、長い爪の陰にまもられて、指さきにひとしずく残っている」のだ、と語られている。
 さて、物語のフィナーレである。
私はあわてて娘の片腕を拾うと、胸にかたく抱きしめた。生命の冷えてゆく、いたいけな愛児を抱きしめるように、娘の片腕を抱きしめた。娘の指を脣にくわえた。のばした娘の爪の裏と指先きとのあいだから、女の露が出るなら……。
 思い返しておくのもいい。女とかぎらず、指先は妖しいフォークロアにとり憑かれている。キツネや憑き物のオーサキは、手足の親指の先から入りこんでくると信じられていた。そこは憑きものと深くかかわる急所だった。親指の爪のあいだからは、魂魄が出入りするから、なにか怖れるべきことがあれば親指を隠す。そこが「霊的なモノとの最初の接触部分であり、その侵入口と意識されていた」(常光徹『しぐさの民俗学』ミネルヴァ書房)からだ。『春日権現験記絵』を想い起こすのもいい。神が示現している橘氏女の足の指の先からは、濃く深い異香が匂いたっていたのだ。それを恍惚と舐る女が描かれていた。『瘋癲老人日記』の老人もまた、捧げもった颯子の足、その三本の指を、死への恐怖と快楽にまみれながら、唇と舌で舐りつづけた。「片腕」の男もまた、娘の片腕の爪の裏と指先からしたたる「女の露」を舐っていたのではなかったか。
 ここで、わたしは大手拓次という詩人を思いだす。この人はきっと、指フェチであり、女の指の官能性に強く惹かれる詩人であった。たとえば、「霧のなかに蹄を聴く」(『大手拓次詩集』岩波文庫)と題された散文詩の一節を引いてみよう。
 うつくしいをんなよ、指をみがけよ。指をみがけよ。
 そのうすくれなゐの爪に幻をうつせよ。
 その爪のひとつひとつに、それぞれの香料を宿らせよ。
 たとへば、おやゆびには香料Vouloir C’est Pouvoirを。ひとさしゆびには香料Rose sans Finを。なかゆびには香料Enfermant Les Yeuxを。くすりゆびには香料Un Jardin la Nuitを。こゆびには香料Un Jour viendraを。
 かくして、それらの指の爪と爪とのなかにたちのぼるひといろの香に移りゆくねむりをさそへよ。
 うつくしいをんなよ。わたしはお前たちのために香料をつくらう。その名は「幻の犬」、「接吻の羽」、「秘密の墓」………さて最後にわたしの指の香をおくらう。
 わたしの夕暮の指は、迷ひのリラであり、影をふくむジヤスマンであり、恋を扇ぐ白薔薇であり、感傷の君影草であり、病毒の月下香である。
 わたしの朝の指は、うしほの香であり、森林の香であり、月光の香であり、蛇身の香であり、瑪瑙の香である。
 わたしはこれらの指と指とのもつれる香に、わすれられたる、またいまだ来らざる幽霊の足あとをみいだすのである。
 指をみがけよ、そう詩人は女たちに呼びかけ、誘いかける。その指先の爪の廂の下からは、それぞれに宿りする香料が匂いたつ。指と匂いと官能とが、あられもなく繋がれている。大手はじつは、『藍色の蟇』という詩集によって、筋金入りの香料フェティシストであったことが知られる。それにしても、わたしはまた、『春日権現験記絵』のあの場面を思わずにはいられない。指の先には、神さびた異香がまつわりついている。かすかな匂いの記憶のなかには、忘れられたか、これからやって来る「幽霊の足あと」が刻印されている。神や精霊の足跡でもあったか。

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著者略歴

  1. 赤坂 憲雄

    民俗学・日本文化論.学習院大学教授.福島県立博物館館長.東京大学文学部卒業.東北芸術工科大学教授として東北文化研究センターを設立し,『東北学』を創刊.2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞受賞,同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞.『異人論序説』『排除の現象学』(ちくま学芸文庫),『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫),『東西/南北考』(岩波新書)など著書多数.

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