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赤坂憲雄 性食の詩学へ

第一章 指、または恥知らずな冒険 9 〈性食の詩学へ〉

3 雲雀料理の愛の皿を、どうぞ②

 
 萩原朔太郎の「その手は菓子である」(『萩原朔太郎全集』第一巻、筑摩書房)などはまさしく、性食の詩学にとっては願ってもみない詩篇である。まるで、芥川龍之介の恋文のなかの、「この頃ボクは文ちゃんがお菓子なら頭から食べてしまひたい位可愛いい気がします」(『芥川龍之介全集』第一八巻、岩波書店)という一文を知っていたかのようだ。ともに、女性はお菓子に喩えられている。ただし、芥川は頭から丸かじりしそうな勢いであり、その赤裸々な暴力的表情と比べてやれば、朔太郎のほうがごく控えめではあるが、手とその指をめぐってより具象的であり、かえって生々しい欲望を感じさせるかもしれない。
 詩集『青猫』の一篇である。
そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな青い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる様子はたまらない
ああ その手の上に接吻がしたい
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
 まさしく、女の手は菓子である。かわいらしい、丸々とふくらんだ菓子である。その手に接吻をしたい、それから、そのまま残らず喰べてしまいたい、とうたわれている。女の手とその指にたいするフェティシズム的な欲望が、真っすぐに露わである。
 女のほっそりとしなやかな指について、そよそよと動いている「ちひさな青い魚類」に喩えられていることに、関心をそそられる。朔太郎の「女よ」という詩には、「魚のごときゆびさきもて/あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ」(『純情小曲集』『萩原朔太郎全集』第二巻)と見える。うすくれないの唇、白く冷たい襟足、ゴムのごとき乳房、魚のごとき指先、かぐわしき吐息と連なる、息苦しいまでの誘惑にたいして、「女よ/そのたはむれをやめよ」と切なげに懇願する朔太郎が、どこかほほえましくも感じられる。
 襟足については、「その襟足は魚である」(『蝶を夢む』『萩原朔太郎全集』第一巻)のなかで、「ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで/いつもしつとり濡れて青ざめてゐるながい襟足」とうたわれていた。その雑誌『詩篇』への初出には、「最も美しきものの各部分に就てい〔原文ママ〕」(同上)という添え書きが見える。あきらかに、女の指や襟足といった身体部位はフェティッシュとして偏愛されており、しかもそれは、青い魚というイメージで表象されている。室生犀星あたりの影が射しているか。そこにさらに、「わが性のせんちめんたる、/あまたある手をかなしむ」(「感傷の手」『月に吠える』『萩原朔太郎全集』第一巻)とか、「魚の性はせんちめんたる」(「月蝕皆既」『拾遺詩篇』『萩原朔太郎全集』第三巻)といった詩片を重ねてやればいい。街なかをゆき交う女たち、そう、青い小魚のように眩しく跳ねている女たちからそっと眼を逸らし、「あまたある手をかなし」んだ若き日を、わたしもまた思いだす。
 あるいは、大手拓次の「春の日の女のゆび」(『大手拓次詩集』)という詩でも、指は魚に喩えられていた。女たちの指について、「それは みづからでた魚のやうにぬれて なまめかしくひかり、/ところどころに眼をあけて ほのめきをむさぼる。/ゆびよ ゆびよ 春のひのゆびよ、/おまへは ふたたびみづにいらうとする魚である」とうたわれていた。朔太郎と大手拓次、この二人の詩人は、指と魚をめぐるフェティシズム的な感性においてしっかりと繫がれている。かれらはともに、フェティッシュな官能に怖れず身をゆだねる「空想の猟人(かりうど)」(「藍色の蟇(ひき)」『大手拓次詩集』)ではなかったか。朔太郎もまた、顔の専制に縛られることの少ない人であったことを言い添えておく。顔は想像力をやさしげに扼殺するのかもしれない。
 さて、「その手は菓子である」の続きである。ここからは指が主役となる。
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚のうへに
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき
 五感を総動員して、指の快楽に溺れようとしているかに見える。指と指との谷間に咲く花の匂いは麝香のようだ、という。この麝香は、「ジャコウジカという小型の鹿のオスを捕まえ、これを殺して下腹部から香嚢(こうのう)と呼ばれる袋状の塊をとり出し、中にあるゼリー状の分泌物を切りとって乾かすことで得られる」(鈴木隆『匂いのエロティシズム』集英社新書)もので、動物由来の香料の一種である。媚薬のたぐいにも処方されることが多く、江戸期の「女悦奇妙丸」は麝香をほかの香料や漢方薬の原料とともに調合したもので、セックスの前に膣に挿入すると女性の感度が増す、といわれたらしい。「灰色の道」(『蝶を夢む』『萩原朔太郎全集』第一巻)という詩には、寄り添って歩く恋人について、「おまへのふしぎな麝香のにほひを感じながら」とある。朔太郎がいったい、この麝香の匂いをそれとして識別できるほどに知っていたのかは、いくらか疑わしい。
 あるいは、「ぴあのの鍵盤をたたく指」について。「黒い風琴」(『青猫』『萩原朔太郎全集』第一巻)という詩には、「おるがんをお弾きなさい 女のひとよ/あなたは黒い着物をきて/おるがんの前に坐りなさい/あなたの指はおるがんを這ふのです/かるく やさしく しめやかに 雪のふつてゐる音のやうに」とあって、恋人の指が黒いパイプオルガンの鍵盤のうえを這い、雪の降るような音の調べを奏でている。
 指の文学史をもとめて資料漁りをしていたとき、指を抱いたいくつもの小説に出会った。たとえば、江戸川乱歩の「指」(『江戸川乱歩全集』第三巻、桃源社)という掌編がある。それは、アルコール漬けのガラス瓶のなかで、切断されたピアニストの手首が、いや、その五本の指が「白い蟹の脚のように」、ピアノの鍵盤を叩く調子で、「幼児のように、たよりなげに」しきりに動いていた、という場景で幕を閉じている。このピアニストは男である。指とピアノの鍵盤とは固く結ばれている。そういえば、「笛」(『月に吠える』『萩原朔太郎全集』第一巻)という詩には、「をゆびに紅をさしぐみて、/ふくめる琴をかきならす、/ああ かき鳴らすひとづま琴の音にもつれぶき、/いみじき笛は天にあり」とあった。残念ながら、うまく細部を読み解くことができないもどかしさが残るが、琴を搔き鳴らす指の艶かしさが、映像的に定着されようとしていることは感じられる。
そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地悪のひとさし指
卑怯で快活なこゆびのいたづら
親指の肥え太つたうつくしさと その暴虐なる野蛮性
ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい
 この一節はとても愉しげなものに感じられる。そうか、やはり、小指は卑怯で快活な悪戯者(トリックスター)でなければならなかったか。人差し指となると、どうにも意地悪そうで、どこか澄まし顔だ。それらと比べれば、たしかに親指は肥え太った美しさはあれ、騙されてはいけない、それは不意に一転して暴虐な野蛮さをむき出しにするかもしれない。それにしても、朔太郎が押しいただいて、いつまでも口に含んでしゃぶり続けたいと願ったのは、どの指であったか、小指か、人差し指か、親指か、それとも名指されることなきほかの指であったか。
 「羽虫の羽」(『萩原朔太郎全集』第二巻)という習作の詩には、「やはらかにきみがおゆびをくちびるに/ふくみて居れば花散りにけり」とある。散りゆく花の余韻からは、小指か人差し指あたりではなかったか。こんな詩片もあった。「ゆびとゆびとのあひだから、/まつさをの血がながれてゐる、/かなしい女の屍体のうへで、/つめたいきりぎりすが鳴いてゐる」(「殺人事件」『月に吠える』『萩原朔太郎全集』第一巻)と。いったい、どの指とどの指のあいだから真っ青な血を流して、哀しい女は死んでいたのか。「その手は菓子である」には、意外なことに、ほかの詩篇には垂れこめている死の匂いが感じられない。いっさいの殺人事件からは遠く、冷たいキリギリスの鳴き声も聴こえてこない場所で、指への偏愛がうたわれている。
 さて、「その手は菓子である」の終幕(フィナーレ)である。
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無恥(むち)の食慾。
 手の甲はふっくらと厚めのワッフル、手の指はひんやりとした氷砂糖。たまらないほどおいしい、幸福いっぱいのお菓子である。子供のように真っすぐな、なんとも意地汚い、恥知らずの食欲にして性欲が搔き立てられる。この恥知らずさこそが核心のひとつではなかったか。なぜ、それは意地汚く恥知らずなのか。終わりがない、「いつまでたつてもしやぶつてゐたい」欲望だからである。お菓子で腹が満たされることはなく、射精によって頓挫することもない、いわばフィナーレがなくだらだらといつまでも続く性食の舞台だからである。
 中村稔の『萩原朔太郎論』がすぐれた導きとなるはずだ。中村によれば、この詩を含む一連は、「異性の愛」を求める朔太郎のいじらしいほどの心情から生まれた、「まことに手放しの女性の肉体、ことに指の讃歌」である。しかし、この官能的な夢想においては、「女性の指のエロティックな美しさ」を憧憬しながら、ついに「女性の精神や心、魂」に触れることはない。ただ指や肉体への執着だけがある。そして、その表現は「ねっとりとしなやかで、いやしげでもなければ、セクシァルでもない」という。そのうえで、中村は周到に、朔太郎が「母性を求めるように女性の愛を求めている」こと、その異性への愛はつねに受動態であり、夢想にすぎないことを指摘している。

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著者略歴

  1. 赤坂 憲雄

    民俗学・日本文化論.学習院大学教授.福島県立博物館館長.東京大学文学部卒業.東北芸術工科大学教授として東北文化研究センターを設立し,『東北学』を創刊.2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞受賞,同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞.『異人論序説』『排除の現象学』(ちくま学芸文庫),『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫),『東西/南北考』(岩波新書)など著書多数.

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