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赤坂憲雄 性食の詩学へ

第一章 指、または恥知らずな冒険 11〈性食の詩学へ〉

3 雲雀料理の愛の皿を、どうぞ④

 
 さて、女性たちの指への偏愛についても触れておきたい。
 竹内久美子の『女は男の指を見る』(新潮新書)には、あるインターネット上での「異性の体のパーツのどこをチェックするか」というアンケート(二〇〇六年)において、女性側の第一位が手(指含む)で、第二位が目、第三位が腕・二の腕であったことが紹介されている。インターネットの世界を覗いてみると、たしかに同種のアンケート調査のなかでは、手や指が上位に来る傾向が見られるようだ。竹内はそこに、以下のような個人的な体験を重ねあわせにしている。
 たぶん思春期以降からだと思うのですが、私も男の指、それも伸びやかで美しく、関節の部分がちょっぴりゴツゴツした指を見るとぞくっとし、セクシーだなあと感ずるようになりました。自分は変態だと思って悩んだ時期があって、それは自分としては結構深刻な問題だったんですが、やがて周囲でも、女が顔や身長と同じように「指」をチェックしているという話を耳にするようになってやっと、ほっと胸をなでおろした次第です。
 どうやら、あまり大きな声では語られないが、女たちは男の指が気になって仕方がないらしい。たしかに、知り合いの二十代の女性が、ボーイフレンドの指が気に入って好きになった部分があるけれど、彼にもそれを伝えたことはない、と呟くのを聞いたことがある。それでは、男の側はどうなのか。同じアンケートでは上位は胸・目・お尻であり、指は七位、手は十八位にすぎない。竹内が指摘するように、「女どうしが男の指(特に手の指)を語る熱心さで、男によって女の指が語られているかというとそうではないように思われる。男が語るとしたら、それは脚でしょう」といったところか。女たちがこうして、男の指について品定めをするのは、「その男の生殖器とその質のほどを評価している」のだと、竹内はいくらか断定的に述べているが、判断は保留しておく。
 ともあれ、断定などしようもないが、手の指をフェティッシュとして偏愛する度合いは、男よりも女のほうが優っているのかもしれない。気になり始めてみると、女性作家の小説や短歌などに、女か男かには関わらず手の指をテーマとする作品が多く見いだされるようだ。先ほどの、雲雀料理を詠んだ歌人の尾崎まゆみには、『奇麗な指』と題された歌集があって(砂子屋書房)、「一瞬のもどらぬことの悔しさの創(きず)は人差し指の中ほど」や「人差し指の血のしたたりの一滴に白い時間が汚れてしまふ」といった、まさしく指の歌が収められている。
 さて、たとえば、東直子の「長崎くんの指」(『長崎くんの指』マガジンハウス)という短編小説である。とてもすっきりと、女の側から見たフェティッシュとしての指が主題化されている。
 「わたし」は遊園地で働くことになる。そこで、ひと眼見ただけの従業員の「長崎くん」の指が好きになる。「自分のものにしたくて仕方がなくなった」のだ。だから、「長崎くんの指」にまた会えるように、と神に祈った。どんな指だったのか。
なめらかなほの白い皮膚に覆われたその指は、すっきりと細く、すんなりと長く、すべて適度にふくらんでいる節の几帳面さがたまらなかった。まさに知的で、完璧な指だ。
 それから、なにが起こったか。指をめぐるやり取りだけを追ってみる。トランシーバーの向こうの「長崎くん」はそっけないが、「わたし」がそそられているのは、「長崎くんの指であって、長崎くんの心ではない」。はじめて「長崎くん」が愛嬌のある顔であることに気づいたとき。一番うれしかったのは、笑顔ではなく、ついに差しだされた手に触れることができたことだ。あこがれの手は、ほどよく乾燥しており、「想像以上にさわやかな触感、加えて予想に反する力強い握り」に、狂喜乱舞しそうなほど感激したが、悟られないように平静を装った。その「長崎くん」が泥酔して、遊園地内の「わたし」の住む小屋に転がりこんできて、床で寝息を立てている。
 わたしは、これはどうしたものかと思いつつ、全身脱力している長崎くんの身体についている手を見つめた。今、この指の持ち主の意識は眠っていて、無防備だ。この指が、今ならわたしだけのものになる。わたしは、長崎くんの手をとると、そのしなやかな指を、一本一本ゆっくりと舐めた。青臭くほろ苦い、山菜の味がした。
 そのうち、長崎くんは、うっすらと目をあけて、わたしが指を舐めていることに気がついたようだった。ああ、いいね、きみの、それ……。長崎くんは半眼で起き上がり、わたしに覆いかぶさると、唇を重ねて、舌をさし入れてきた。
 その後の描写はいっさい省かれている。翌朝、目が覚めると、着ていた服を下着も含めて一式、床に置き去りにして、「長崎くん」はいなくなっていた。二度と現われることはなかった。
わたしは、ひどく悲しかった。あの指が恋しかった。毎日、夜が来るたびに、その日も出会うことのできなかった長崎くんの指のことを思って、切なくて、なかなか寝つけなかった。長崎くんの指が一本、長崎くんの指が二本、長崎くんの指が三本……と、数えながら、眠りについた。
 数か月が過ぎた。「長崎くん」とは、一度かぎりだが、会話らしい会話もないままにセックスはしたし、こんなに焦がれているのに、「わたし」は「長崎くん」のことをほとんど知らない。その内面について思いを馳せたこともなかった。「ほんとうに彼の指にしか興味がなかったのか」と、自分でもあきれた。
 遊園地が廃園になると決まった。「長崎くんの、たった一日の指の記憶」だけを宝物にして、どこかでひっそり死ぬまで生きるのだ。「わたし」は「長崎くん」の服を洗って、小屋のそばの生け垣に、「捉えた獲物の皮の標本を天日にさらすように」固定した。「長崎くん」が空から見つけて、取りに来てくれるかもしれない。服を取り去って脱皮した「長崎くん」は、「指先からとうめいな羽根が生えて、風に乗って飛んでいってしまったように」思えてならない。お別れ会では、干してある服について、「なにそれ? 中身は? 食べちゃったの?」という声が聞こえた。「この楽園に、二度と他人が入って来ない」ということに、「わたし」は静かに安堵していた、と結ばれている。
 くりかえし暗示はされながら、けっして真実らしきことが語られる場面はなかった。「わたし」はみずからが関わった殺人事件を、自身の口からあからさまに語ることはしない。「長崎くんの、たった一日の指の記憶」を大切に永久保存するために、「長崎くん」は殺され、小屋のなかか周囲にでも埋められたのではなかったか。「長崎くん」が寝ぼけながら、「わたし」に覆いかぶさり、舌をさし入れてきたときに、その運命は決まったのだ。そうして、「長崎くんの指」は「わたし」だけのモノになった。「長崎くん」の服は生け垣に、「捉えた獲物の皮の標本を天日にさらすように」固定されている。「食べちゃったの?」という、だれかの、いや「わたし」自身の声かもしれぬ声は、なにを意味していたのか。「長崎くん」は狩りの獲物として捕えられ、殺され、食べられたのだ。この楽園には、つまり見捨てられる遊園地には、二度と他人が侵入してくることはなく、それゆえ犯罪が露顕することはないと、「わたし」は安堵している。哀しい女の、いや哀しい男の屍体のうえでは、冷たいキリギリスが鳴いているにちがいない。
 「わたし」が欲しかったのは、「長崎くんの指」であって「長崎くんの心」ではなかった。だから、「長崎くん」の内面を思いやることはなく、あっけらかんと「長崎くんの指」にしか興味がなかったのだ。念のために言い添えておけば、「長崎くんの顔」には徹底した無関心がつらぬかれている。顔はあくまで二の次、三の次でしかない。むろん、フェティッシュとしての指への女の偏愛について、この小説に丸ごと託すことはできない。あえて戯画化が施されているし、「わたし」の内面もまた、作者によって深く思いやられているわけではない。それでも、この小説からは、ある雰囲気のようなものは感受することができるかもしれない。
 たとえば、萩原朔太郎の「その手は菓子である」という詩と比べても、無機質な乾き具合いはきわだっている。情緒的な甘えは見られない。共犯幻想があらかじめ排斥されている、といってもいい。それが利己的な欲望であることは、暗黙の前提であって、ためらうことなくフェティッシュに殉じようとしているのではないか。当然ながら、手放しの異性の「肉体、ことに指の讃歌」といったものからは、かけ離れている。そこから、川端康成の「片腕」という小説を眺めてみるのもいい。そこでは娘から腕をひと晩貸してもらうのだから、ともあれ契約が結ばれており、犯罪として始まることは回避されている。おまけに、娘の片腕は「あたし」という一人称で言葉をしゃべり、繊細なコミュニケーションですら可能である。しかし、その腕の許しを得て、自分の右腕とつけ替えた揚げ句に、「魔の発作の殺人」のように娘の腕を殺してしまう。男の利己的な欲望に献身的に仕えて、娘の母体から切り離された腕は死をもって報いられたのである。
 さて、あらためて、服を取り去って脱皮した「長崎くん」は、「指先からとうめいな羽根が生えて、風に乗って飛んでいってしまった」ように思えてならない、という箇所に眼を留めてみたい。またしても、指先をめぐる幻像(ビジョン)である。指先から透明な羽根が生えて、風に乗って飛んでゆくのだ。その向かう先は、このすぐ前に転がっていた「空」でなければいけない。
 指先にはいつだって、なにか不可思議な出来事が宿りしている。そこは神秘の源である。指先をめぐるささやかな物語の、夢のような情景のひと齣がよみがえる。たとえば、娘の爪の裏と指先からは、女たちの悲劇の露が出ていた。指の爪と爪とのなかにたちのぼる香に、忘れられた、いまだ来たらざる幽霊の足跡が見いだされた。絵図のなかの女は、神が示現している女の差しだされた足の指の先から匂いたつ妙香を舐り味わおうとしていた。あるいは、瀬戸内海の島々には、葬儀に集まった子どもたちが、亡くなった親の親指や人差し指を嚙むという風習があった、という。「長崎くんの指」もまた、指先をめぐる綺想の系譜に連なる作品だったにちがいない。
*   *
 いまひとつ、取りあげてみたいのは、小川洋子の「薬指の標本」(『薬指の標本』新潮文庫)である。みごとに彫琢(ちょうたく)を施された指の小説であった。薬指が主役であるが、それはとても珍しいことだ。薬指とはなにものか。竹内久美子によれば、薬指は動かしづらく、なにか特別な機能があるというよりは、「飾りの指。他人に見せるための指」だ、という(『女は男の指を見る』)。むろん、さだかな根拠は示されていない。ともあれ、薬指のどこか不確かな、曖昧模糊とした表情を思えば、「飾りの指」とはむしろ称号のようなものではなかったか。役立たずなモノたちに、フェティッシュにも似た偏愛を寄せてきたわたしは、どうにも薬指が気になって仕方がない。
 「薬指の標本」の主人公の「わたし」は、清涼飲料水を作る工場に勤めていたとき、左手の薬指を機械に挟まれて、その尖端の肉片をほんのわずか失ってしまう。けがは幸運にも大したことがなかった。日常生活にも不便はなかった。とはいえ、ただひとつ、薬指の先の肉片はどこへ消えてしまったのか、という疑問には悩まされた。「わたし」の残像のなかでは、「桜貝に似た形」で熟した果肉のように柔らかい肉片が、冷たいサイダーのなかをスローモーションのように落ちてゆき、「泡と一緒にいつまでも底で揺らめいている」のだ。
 この欠けた薬指といっしょに、海辺の村から街へと向かい、小説の舞台となる標本室に出会った。そこでは、来訪者が標本にしてもらいたいモノを持ちこんでくると、その依頼に応じて標本を作製し、保存することを役割としている。標本室の白衣の男は「弟子丸氏」といい、握手をしたとき、「指を全部自分の掌の奥へ閉じ込めてしまおうとする」かのように、きつく握り締めてきた。また、かれの視線の先には、「わたし」の左手の薬指があった。「弟子丸氏」は「欠けてしまった肉片の輪郭をなぞろうとする」かのように、息が吹きかかるくらいの距離から、眼を凝らしていたのだった。
 とはいえ、「弟子丸氏」はどうやら、指フェチではなかったようだ。その代わりに、足フェチないし靴フェチであった。働きはじめて一年後に、かつて浴場として使われていた「秘密の安息所」に招かれ、「わたし」は黒い革靴をプレゼントされる。「弟子丸氏」が選んだ靴だ。かれは左手で「わたし」のふくらはぎを摑み、右手で古い靴を踵から抜き取った。むき出しにされた足は、かれの手のなかにあった。ふくらはぎをしっかり握られていて、身動きができない。浴槽の底に転がっている古いビニールの靴は、「羽根をむしり取られた二羽の小鳥の死骸」のようだった。
 それから彼は新しい靴を右足からはかせていった。かかとをつかみ、つま先を靴の奥まで一息に滑り込ませた。かかとに感じる彼の指は硬く冷たかったが、靴の中はなま温かくしっとりとしていた。あらかじめ定められた儀式を司るように、彼の手の動きにはすきがなかったので、わたしは小指の先さえ自由に動かすことはできなかった。
 まるで通過儀礼(イニシエーション)であるかのように、男は女の足から古い靴を抜き取り、新しい靴を履かせる。古いビニールの靴への仕打ちは徹底していた。羽根をむしり取られた「小鳥の死骸」のように転がっていた靴は、さらに片手で潰れるほど強く握り締められたために、ただの古ぼけたビニールの塊になり、やがてタイルに打ちつけられた。けっして荒々しくはなく、むしろ優美に……。新しい革靴は、足全体を優しく包みこむかのように生温かく、ぴったり馴染んだ。かれは足を放そうとせず、靴の表面を撫で、リボンを結び直していた。
 黒い革靴は、人生の新しいステージの幕開けを言寿(ことほ)ぐものであるはずだったが、様相はどうも異なっている。朝、革靴に足を突っこむとき、ふくらはぎをつかんでいたかれの指の感触を思いだす。それは「決してわたしを自由にしない不思議な感触」だ。靴は軽やかで歩きやすいが、「両足に透き間なく吸いついてくる」ようで、「彼に足だけをきつく抱き締められている」ような気分になった。夜の浴槽の底では、かれの冷静に的確に動く指で、「すべての手順があらかじめ決められている」かのように、裸にされた、「たった一つ、黒い革靴だけを残して」。靴に包まれた足先だけがいつまでも温かく、「自分が足首のところで、二つに分離してしまった」ように感じた。
 男は白衣を着たままだ。そうして浴槽の底で抱きあった。男は「わたしを自分の内側にすっぽり密着させる」ような、「胸苦しい抱き方」をした。タイルと白衣が「わたし」を締めつけた。不意に、「君は何か、標本にしてもらいたいものを持っているかい?」と、男が聞いた。「分らないわ」と答える。「標本を必要としない人間なんていないさ」と、男はいう。それから、悲しい思いをしたこと、惨めな思いをしたこと、恥ずかしい思いをしたこと、痛い思いをしたこと……が次々に問われ、追いつめられてゆく。標本室を訪れる人たちが、かならず胸の奥に抱えこんでいるものだ。ついに、「わたし」は呟いた、「左手の薬指の先を、なくした時です」と。「じゃあもう、君の薬指は、元に戻らないんだね」と言ったきり、男はなにも喋らなかった。「わたし」はあまりにも長いあいだ動けなかったので、「彼の中で、標本にされてしまった」ような気分だった。
 あるとき、ひと晩中、男のために苦役のように働いたあとで──。
 「わたしも、あなたにゆだねられる標本の一つになれるかしら」
 彼は答える代わりに、わたしの左手の薬指を持ち上げた。わたしは目を開けた。身体から薬指だけが、ゆっくり引き離されてゆくような感じだった。見慣れているはずのその薬指が、受付室の朝日の中では、不可思議な形に見えた。彼はその先を唇の間に含んだ。
 指先から彼の唇の軟らかさが伝わってきたのは、何秒かたってからだった。わたしは、されるままにしていた。
 彼が唇を離した時、薬指は濡れていた。そしてその先は、彼が食いちぎったかのように、欠けていた。
 標本になるとは、なにか。「封じ込めること、分離すること、完結させること」が標本の意義だと、「弟子丸氏」はいう。楽譜を携えた女性の来訪者は、「標本にしてもらうと、とっても楽になれる」と聞いて、やって来た、という。それにたいして、「わたし」はうなずいて、「ここは標本的救済の場所ですから」と答えている。悲しみ・惨めさ・恥ずかしさ・痛み……といった負の記憶が絡みつくモノを、標本にすることで、楽になる、癒やしが得られる。機械によって、さらには標本技術士の男によって喰いちぎられた薬指の尖端には、いったい、どんな悲しみや痛みが宿っているのか。それにしても、「標本的救済の場所」とは、なんとも言い得て妙ではなかったか。
 かつて、山形県の北のはずれの村や町を歩いていたことがある。オナカマと呼ばれる盲目の巫女の、おそらくは最後の方に聞き書きをした。オナカマの元を訪れる依頼者の女たちは、みずからの悲しみや怒りや惨めさや痛みの経験をオナカマにかき口説いたはてに、ほっとしたように修羅の家へと帰ってゆく。女たちのどす黒い心の澱(おり)を一身に引き受けながら、厳しい差別のまなざしを向けられ、十八夜様という正体も知れぬ神さまにすがって生きてきた、小さな人生だった。その孤独のあまりの深さに言葉を失った。いま、「標本的救済の場所」という不思議な言葉に出会って、ふと、あのオナカマと呼ばれた女性もまた、もうひとつの「標本的救済の場所」であったのかもしれない、と思う。
 靴磨きの老人に、男との関係を問われる。惚れているのか、と。
 さあ、どうかしら。わたし、今まで一度も恋人なんて呼べる人と付き合ったことがないから、よく分らないんです。ただ彼とは、どうしても離れられない、そういう気持と情況だけは確かにあるんです。そばにいたいなんて、なまやさしいことじゃなく、もっと根本的で、徹底的な意味において、彼に絡め取られているんです。
 そうして理性的にみずからを見つめているからこそ、引き返すことはむずかしい。だから、「わたし」はいう、この靴を脱ぐつもりはない、自由になんてなりたくない、「この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたい」のだ、と。
 さて、「薬指の標本」の終わりである。「わたし」は和文タイプに打ちこんでいる、「まず、登録番号。26-F30999。そして、標本名。薬指」と。標本技術室の扉に向かって歩いてゆく。靴音が響く。立ち止まり、左手の薬指を電灯にかざしてみる。それはやはり、「桜貝の断面のような形」に欠けていた。「試験管のガラスに映るこの指が、もっと鮮やかで美しくありますように」と祈った。それから、薬指をしまいこむように掌を握り、扉をノックする……。
 その男はあきらかに、女の足や靴にたいして特別な嗜好をもつフェティシストであった。しかも、昆虫採集家のような感触もある。かれの運営する標本室は、どこか獲物がかかるのを待ち構えている蜘蛛の巣のようにも見える。標本技術士にとっては、他者がそれぞれに秘め隠している悲しみや痛みの記憶こそが、それゆえに他者の傷跡こそが、収集するべきフェティッシュであったのかもしれない。「私は肉体に残った、心に残った傷痕のフェティシストである」(ジャン・ストレフ『フェティシズム全書』加藤雅郁・橋本克己訳、作品社)とは、この男の呟きの声でもあったか。それを巧みに標本に封じこめて保管することによって、他者の心を絶対的に支配することができる。そのためには、ときに依頼者のいのちの行く末にすら関与することを厭(いと)わない。それはゆるやかな拘束であり、優しく冷ややかな権力の行使、その結果としてのいのちの支配である。悪意の所在が不確かな、男の奇怪なフェティシズムに搦めとられてゆく女の心理が、鮮やかに描かれている。
 薬指とはなにか、とあらためて問いかけてみたい。それは役立たずの指だ。無用であるがゆえに、なにものかでありえている指であり、他人に見せるための飾りの指へとかろうじて成りあがった指である。だから、薬指は、とりわけ左手の薬指こそが、栄(は)えある指輪がはめられるにふさわしい指なのではなかったか。
 その薬指の尖端が削ぎ落とされているのは、なぜか。それはなにを意味しているのか。指先の呪力のフォークロアからすれば、わずかな肉片の剝落であっても、それは根源的な呪力の剝奪を意味していたのかもしれない。神々や異界への通路としての役割を果たせなくなった、左手の薬指にたいして、女はそれゆえ、「もっと鮮やかでうつくしくありますように」と祈らずにはいられない。「わたし」の願いはささやかなものだ。「弟子丸氏」が時々は、薬指がゆらゆら漂う試験管を手に取って、眺めてくれること。そのとき、「わたし」はかれの視線をいっぱいに浴びるのだ。欠けた左手の薬指に封じこめられた「わたし」は、保存液のなかから、かれのいっそう澄んでいる瞳を見つめ返すだろう。そうして、欠けた薬指は、冷たいサイダーの瓶の底に揺らめいている桜貝に似た果肉のような肉片と再会し、ひとつになる。
 この小説には、いたるところに指が登場する。指が主人公の小説なのだ。あるいは、指と足とが交わす奇怪な対話がひそかにせめぎ合いを演じる、そんな不思議な小説なのである。いくつもの魅力的な指のある情景が描き留められてあった。
 たとえば、楽譜に書かれた音楽を標本にするために、309号室の婦人に頼んで、ピアノで弾いてもらうことになった。その指は痛々しいほどに皺だらけだったが、「のびやかな輪郭や爪の形や関節の柔らかさ」に、ピアニストだった昔の面影が残っていた。年老いた指は、どんな曲でもみな、もの淋しい響きにしてしまう。ある日、この婦人はベッドのなかで息絶えていた。お葬式では、たくさんの曲を奏でた指は胸のうえで組まれていた。
 あるいは、靴磨きの老人が、飼っていた文鳥の骨をもって標本の依頼に訪れた。その指は太くて染みだらけだった。「わたし」は歩道橋の下を訪ねて、その染みだらけの指で靴を磨いてもらった。「わたし」の足は、老人の指の動きをすべて感じ取ることができた。最後に、老人はリボンを結び直し、ごつごつした指で「いたわるように靴を包んだ」。そして、別れを告げた。この老人の靴をいとおしむ仕草が、標本技術士の男のそれと瓜二つでありながら、まるで感触をたがえるものであることに注意しなければいけない。
 二つのフェティシズムが存在するのかもしれない。支配のフェティシズムと抵抗のフェティシズムである。標本技術士はあたかも救済者のごとくに現われ、他者を、ことに女を標本という究極の鋳型に封じこめて、支配する。女を愛の衣装にくるんで自由を奪い、「自発的隷従」(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』山上浩嗣訳、西谷修監修、ちくま学芸文庫)という快楽のなかに誘導してゆくのだ。靴磨きの男はまさに、そうした支配のフェティシズムの恐怖を知り尽くし、それに抗い、逃れることを女に勧める。靴の侵食と男の侵食は繫がっている、「今すぐこの靴を脱がなきゃ、ずっとこれからは逃げられない。絶対にこの靴は、お嬢さんの足を自由にしない」と。この靴磨きの老人もまた、抵抗のフェティシストのひとりであったか。
 たくさんの指があり、たくさんの偏愛が存在し、たくさんの交歓の情景が見いだされる。その一端だけは見届けてきた。さて、指の章の終わりには、指の文学史は可能か、という問いの声がゆるやかに谺(こだま)している。わたしの手元には、すでにたくさんの小説や詩や短歌が集まっている。だから、それは十分に可能だ、とだけひとまずは言い捨てにしておく。いずれであれ、わたし自身の、指をめぐる恥知らずな旅は、ここで終わりだ。

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著者略歴

  1. 赤坂 憲雄

    民俗学・日本文化論.学習院大学教授.福島県立博物館館長.東京大学文学部卒業.東北芸術工科大学教授として東北文化研究センターを設立し,『東北学』を創刊.2007年『岡本太郎の見た日本』(岩波書店)でドゥマゴ文学賞受賞,同書で芸術選奨文部科学大臣賞(評論等部門)受賞.『異人論序説』『排除の現象学』(ちくま学芸文庫),『境界の発生』『東北学/忘れられた東北』(講談社学術文庫),『東西/南北考』(岩波新書)など著書多数.

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