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レベッカ・ソルニット それを、真の名で呼ぶならば

国の土台に流された血〈それを、真の名で呼ぶならば 1〉

 
Blood on the Foundation (2006)
 
 まだ10代だった双子の兄弟が殺害されたのは、美しいところだった。そして、彼らを殺した男らと双子の伯父は、のちにアメリカ合衆国でもっともよく知られる人物になった。しかし、1846年6月28日の日曜日、殺人が起こったサンフランシスコのすぐ北にあるその場所は、まだアメリカ合衆国ではなかったのだ。残りのカリフォルニアと南西部全体と同様に、メキシコの領地であり、だからこそフランシスコとラモンのデ・ハロ兄弟は、年配の伯父のホセ・デ・ラ・レイエス・ベレイエッサとともに、冷酷に撃ち殺されたのだ。

 わたしはこの出来事を何度も心に思い描いたので、そのシーンを目に浮かべることができる。セラーペ〔中南米の男性が着用する毛布状の肩掛け〕を着て鞍を持った3人の男が、サンフランシスコ湾の青い水を背に立っている。彼らは最初驚き、呆然とし、そしてガンマンにひとりずつ狙い撃ちされて死んでいく。手つかずの自然のままの湾の水を背景にした3人の姿は、どこか荒涼として象徴的だ。青い水、黄金に輝く丘、この美しい土地を背景に直立している3人。そして、岸辺に崩れ落ちている3つの死体。それはバラードで歌われる類の死であり、絵に描かれるような死である。けれども、デ・ハロ兄弟の死について言及しているのは、サン・ラファエル生まれの詩人ロバート・ハースが1970年に発表した「パロ・アルト――湿地帯(マリアナ・リチャードソン(1830–1899)へ)」という詩だけで、ほかには誰も、この殺人にとくに注意を払わなかった。

 殺人現場は、いくつかの記録では湾に突き出しているやや田舎の半島、サンペドロ岬だとされており、ほかの記録では、現在のサン・ラファエルの中心街である「ミッション・サンラファエル」の近くだとされている。すべての記録で一致しているのは、3人のメキシコの市民が、現在のバークレーの北にあるサンパブロ岬から船で来たということだ。当時、情報が伝わるのは、馬かボートの速度だった。6月14日に北カリフォルニアの行政官であったマリアノ・ガダルペ・バエホがソノマで捕まえられたというニュースは、まだ多くのカリフォルニオには届いていなかったことだろう(〔現在のカリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、アリゾナ州北部、ワイオミング州南西部を含む〕アルタ・カリフォルニアに住んでいたメキシコ市民はカリフォルニオと呼ばれていた)。しかし、ベレイエッサは、ソノマ市長である息子のホセ・デ・ロス・サントス・ベレイエッサが逮捕されたというニュースを耳にし、その調査をするために甥たちと一緒に船を漕いでむかったのだった。

 このころ、小さな戦争が起こりかけていた。ジェームズ・ポーク大統領は領土を拡張する大きな野心を抱いており、カリフォルニオらが(領地もろとも)アメリカ合衆国に亡命を促すための使徒として、トーマス・O・ラーキンを送り込んだ。同時に、ポーク大統領はイギリスに太平洋岸北西部での紛争を解決するよう要求し、現在のオレゴン州とワシントン州をアメリカ合衆国のものとして獲得し、メキシコから新たに独立したテキサス州を加え、わが国の教科書が「メキシコ=アメリカ戦争」と呼ぶ戦争を始めた〔日本ではアメリカ=メキシコ戦争と呼ばれることが多い。米墨戦争とも〕。だが、その戦争はわれわれが始めたのだから「メキシコに対する戦争」と呼ぶほうが正確だろう。この戦争が終わったとき、メキシコは半分近い領土をしぶしぶ譲渡した。それは、現在のニューメキシコ州西部、コロラド州、カリフォルニア州、ネバダ州、ユタ州、アリゾナ州の大部分、そしてワイオミング州のほんの少しを含む50万平方マイル以上もの領域だった。

 本来は、スペインやメキシコ、あるいはポーク大統領よりずっと以前からそこにいた先住民たちのものであった巨大な帯状の土地が、その時代に所有権を移されたことで、アメリカ合衆国の地図は西海岸から東海岸まで続く現在の形になった。だが、メキシコに対する戦争に織り交ぜられた、ただの奇妙な揉め事、「ベア・フラッグ・リボルト」〔「熊の旗の反乱」という意味の暴動〕は、壮大でも英雄的でもないものだった。それは、セントラル・バレーのサッター・ビュートの近くに住むアメリカ人入植者が起こしたもので、メキシコ人の小さな軍隊が違法の外国人――アメリカ人を追い出しに来るという噂に煽られて、早まって土地を占拠したというものだった。彼らは6月の第2週に出発し、途中で仲間を募りながら進み、6月14日の明け方には約30人がソノマの広場に忍び込んだ。

 そこで違法の外国人らはバエホの自宅を襲撃して、彼を人質にした。ある者はバックスキンのズボンを履き、ある者はコヨーテの毛皮の帽子をかぶり、ある者は靴を履いていなかった。ある記録は彼らのことを、「馬泥棒、密猟者、逃亡船員が集まった盗賊団」と描写した。バエホは教養がある人物であり、農業経営者であり、不承不承ながら知事を担っており、アメリカ合衆国に統合されるのを嫌がっていたわけではなかった。しかし、囚人や二流市民になりたいとは思っていなかった。そもそも問題を引き起こしたのは、彼の開かれた入国管理政策だった。襲撃したアメリカ人たちは熊の旗を掲げたのだが、あまりにも下手くそな絵だったので一部のメキシコ人はそれが豚だと思ったくらいだ。グリズリーの亜種は80年以上前に絶滅したのだが、ましなバージョンの熊の絵はカリフォルニアの旗に残っている。皮肉なことは山ほどある。

 ジョン・チャールズ・フレモント大佐は偵察者や軍人の一団と一緒にカリフォルニアに不法侵入し、反乱を煽動してそれに加わり、馬を盗み、物資を略奪し、ほとんどやりたい放題だった。6月28日の朝、ある記録によれば、デ・ハロ兄弟の伯父がソノマにいる息子を訪ねるために、兄弟で〔伯父を乗せた〕船を漕いでいるとき、フレモントと彼の主任偵察者のキット・カーソンはサン・ラファエルの海岸近くにいた。カーソンはフレモントにこれらの名もなきカリフォルニオにどう対処するべきか尋ねた。そこにいたジャスパー・オファレルの話では、フレモントは手をはらうようにして「囚人を捕えている余裕はない」と言った。そこでカーソンは50ヤード離れたところから3人を銃で撃った。ある歴史書には「〔兄弟の一人である〕ラモンは岸に着くなり殺された。それに続いてフランシスコはラモンの体の上に覆いかぶさった。その直後に命令する声が轟いた。『もうひとりのクソッタレを殺せ!』。そして、その命令は即座に遂行された」。伯父が兄弟が殺された理由を尋ねたとき、彼も撃たれた。ベレイエッサの息子、アントニオは、その後、父のセラーペを着ているアメリカ人に遭遇した(死体は衣服を奪われ、そのままそこに放置されていた)。父の服を返すよう男に命じてくれとフレモントに頼んだが、フレモントは拒否し、アントニオ・ベレイエッサは服を取り戻すために泥棒に25ドルを支払った。

 息子は苦々しい思いを抱いたまま残りの生涯を送った。双子の父は心痛がもとで死んだと言われている。カリフォルニアはアメリカ合衆国の一部になった。その前に北のクラマス部族の大殺戮に参加したカーソンは、のちにモハーベ砂漠に住むインディアンを殺し、ナバホ族とメスカレロ・アパッチ族が故郷から追放されるのに重大な役割を果たした。その後、彼は西部開拓地の人気者で英雄になり、創作が混じった絶賛調の多くの本に登場する人物になった。フレモントの名声も上がった。1856年には新たに結成された共和党の大統領候補にもなった。彼は奴隷制度反対の政策を掲げたが、ベレイエッサとデ・ハロ兄弟の殺人命令を含む古いスキャンダルが浮上した。サンフランシスコの測量士であるジャスパー・オファレルが、殺人事件の唯一の直接の目撃者としてフレモントの不利になる証言をしたので、フレモントはカリフォルニア州の選挙で勝つことができなかった。戦後には、さらに多くのベレイエッサ家の男たちがアメリカ人に殺され、家族はベイエリアで所有していた土地の大部分を失った。メキシコ=アメリカ戦争のあとに砂の上に引かれた線を越えた者を含めて、歴史が言及しそこなっている遥かに多くの死がある。これは、国境と肌の色についての正義がどれほど「気まま」なものかを思い出させてくれる。

 170年以上前にカリフォルニアで起こったことは、あのときに作られた国境でいま起きていることのすべてに関連している。多くのラテン系アメリカ人にとっては「われわれが国境を越えたのではない。国境のほうがわれわれを越えたのだ」という話なのに、現在のアメリカで、しばしば、まるで彼らのほうが侵入者のように扱われていることもそうだ。これらの歴史上の人物たちには、モニュメントもある。サンフランシスコの北東にはフレモントとバレホという名の、けっして交差しない道がある。〔かつては家出した若者が売春婦や男娼になることで悪名高かった〕ポークという道は、ラーキンという道と平行し、西のほうでオファレル・ストリートと交差する。デ・ハロ通りは市の南にあり、殺された双子の父親にちなんだポトレロ・ヒルと交差する。父親は市の最初の市長でもあった。ベレイエッサは、もっとあとの時代に作られた人工の湖である。カーソンは、シエラネバダ山脈にある山道であり、ロサンゼルスの近郊であり、ラスベガスの公立学校であり、サンタ・フェにある記念碑でもある。彼の指揮官だったフレモントは、イーストベイにある市であり、私の父が卒業したロサンゼルスのサウス・セントラルにある高校だ。だが、こうした名は、カリフォルニアがアメリカに組み入れられたときの異様で血みどろな手段を知らない者には、何も語りかけてこない。
 
 

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著者略歴

  1. レベッカ・ソルニット

    (Rebecca Solnit)
    1961年生まれ。作家、歴史家、アクティヴィスト。カルフォルニアに育ち、環境問題や人権、反戦などの政治運動に参加、1988年より文筆活動を開始する。写真家のエドワード・マイブリッジ伝“River of Shadows”により、2004年、全米批評家協会賞を受賞。2008年にソルニットが発表したエッセイをきっかけに、「マンスプレイニング」(Mansplaining)という語が欧米で一気に普及し、そのエッセイをもとにした“Men Explain Things to Me”(『説教したがる男たち』)は世界的なベストセラーとなった。20冊以上の著書があり、近年、日本でも注目が高まっている。日本語版が刊行されている著書に、『暗闇のなかの希望』(井上利男訳、七つ森書館)、『災害ユートピア』(高月園子訳、亜紀書房)、『ウォークス』(東辻賢治郎訳、左右社)、『説教したがる男たち』(ハーン小路恭子訳、左右社)、『迷うことについて』(東辻賢治郎訳、左右社)がある。

  2. 渡辺由佳里

    エッセイスト、洋書レビュアー、翻訳家、マーケティング・ストラテジー会社共同経営者。書評ブログサイト『洋書ファンクラブ』主宰。兵庫県出身。職歴は助産師、日本語学校のコーディネーター、広告代理店アカウントマネージャー、外資系企業のプロダクトマネージャーなど。1993年にアメリカ人の夫の転勤で香港に移住し1995年よりアメリカのボストン近郊在住。2001年に小説『ノーティアーズ』(新潮社)で小説新潮長篇新人賞受賞。著書に『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア)、『どうせなら、楽しく生きよう』(飛鳥新社)、『トランプがはじめた21世紀の南北戦争』(晶文社)等が、訳書に『グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ』(日経BP社)、『毒味師イレーナ』(ハーパーコリンズ・ジャパン)等がある。『ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト』で洋書レビューエッセイとアメリカ大統領選レポートの連載を、CakesとFindersで時評を連載。

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