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行司千絵 服のはなし

好みの源泉と経験という名の年輪〈服のはなし〉

最初の服の思い出

 わたしが最初に暮らした家は、奈良の旧市街にあった電電公社の社宅だった。
  住宅地にぽつんとある簡素な鉄筋コンクリートの2棟。1棟に18戸が入るちいさな団地だった。
  第2次ベビーブームの前年に生まれたものの、おなじ年のこどもは向かいの棟に住むヒデキちゃんしかいない。姉は7歳離れていることもあって、ひとりで遊ぶことが多かった。
 家は2DKと手狭で、夏になるとベランダが遊び場になった。どの家もクーラーを持ってなくて、窓は開けっぱなし。香ばしいにおいとともに、なにかを揚げている音。風呂場で背中を流す音。いろんな人の暮らしの気配を感じながら、わたしは遊んだ。
 そのころ、気に入っていた服がいくつかあった。
 ひとつは、従姉妹からの譲り受けた赤いギンガムチェックのエプロンドレス。ポケット口には、犬とアヒル模様のチロリアンテープが縫いつけてある。まっすぐな縫い目。整然とした裾の折り返し。この服を着ると、背筋が自然と伸びた。久しぶりに押し入れから出してみて、ファミリアの服だと知った。

左は記憶の最初にあるエプロンドレス。右は後に登場するビキニ
左は記憶の最初にあるエプロンドレス。右は後に登場するビキニ

 肩ひもつきショートパンツも好きだった。紺色のウール地で、ウエスト部分に花の刺繍がある。もともとは、姉のために母がつくった服だった。縫い目がどことなくゆがんでいるなど、既製服にはないゆるみや丸みがあって安心する。このパンツをはくと、いつものわたしでいられた。
 日々着ていたのは、祖母か母がつくった服だった。今とは違って、既製品のこども服は手軽には売られていなかったし、あっても高価。わずかに持っていた既製服は、どれも従姉妹が着古したものだった。
  祖母と母は、縫うこと、編むことを、独学で身につけた。 近くに住んでいた祖母は編みものが得意で、セーターやむぎわら帽子、手袋などを編んでくれた。

祖母が編んでくれたベスト、帽子、手袋
祖母が編んでくれたベスト、帽子、手袋

 母はもっぱら洋裁で、ミシンを踏んでワンピースやサマードレスをつくると、胸元に小花模様の刺繍をしたり、えり元にレースを縫いつけたりしてくれた。

幼稚園に入ったころ。刺しゅうのワンピースはお気に入りだった
幼稚園に入ったころ。刺しゅうのワンピースはお気に入りだった

 2人とも手先が器用なことに加えて、家計をやりくりするためだったのだろう。日々の食事やおやつも手づくりだったし、布団の打ち直しや襖紙の張り替えも、家事のひとつだった。
 もうひとつ、ぼろぼろになるまで着たものがある。
 それはヒヨコ模様がちりばめられた下着のパンツ。ふだんは人見知りをするのに、これをはいたら不思議と力がわいて、こわいものなしになれた。
 父の同僚が遊びにくると、わたしはヒヨコのパンツ1丁になって、山口百恵ごっこを披露した。

あなたに女の子の一番 大切なものをあげるわ

 歌詞の意味はわからない。けれど、こたつの脚をマイク代わりにして、おかっぱ頭を振り乱して歌うと、家族や同僚のみんなが笑いころげた。それがうれしくて、さらにメドレーで歌った。蜩が鳴く夕暮れ。扇風機がのんびりまわっていた。

制服が似合うおんなのことは

 5歳のとき、奈良市内にある別の社宅に移る。同時に幼稚園へ通うことになった。

 家の経済事情を考えると、公立が良かったけれど、こどもの足で40分かかる。当時のわたしは原因不明のひどい咳に悩まされていたこともあり、近くの私立幼稚園に入った。
 1学年に150人。ジャケットとプリーツスカート、フェルト帽と、ひとそろえの制服を着る。これまでの友だちといえば、やさしくて気心の知れたヒデキちゃんだけで、祖母や母の手づくり服に慣れていたわたしは、あたらしい環境にとまどった。毎日がゆううつで、もんもんと過ごした。
 ある日、おなじ制服でも、似合う人と似合わない人がいると気がついた。なかでも2人のおんなのこが、着こなし上手として目立った。

 ひとりは、小柄なおんなのこだった。バンビのような大きな瞳。引き締まった唇。さらさらの長い髪は左右に分けてリボンで結び、丸えりのブラウスやスカートをきちんと着ている。そういえば、面差しがそっくりなお母さんも、ブラウスのボタンはすべてとめて着る人だった。
 もうひとりは、まったく違うタイプだった。切れ長の目。長い髪はおろしたままで、ゆるく巻いている。むっちりした体形で、ブラウスの第1ボタンをとめていないのが大人っぽい ── 今思うと、色っぽい ── 雰囲気だった。彼女のお母さんもアンニュイな気配をまとっていた。
 わたしは制服が似合わなかった。クラスのなかで背がいちばん高かったせいか、スカート丈が足りない。目鼻立ちはぼんやりとしているうえに、髪型はマッシュルームカットだった。
  バンビと切れ長は似合うのに、わたしには似合わない。
 違いは、「おんなのこらしさ」にあるようだった。
 その密度が高いほど、ひと目を引くし、どうやらおとこのこにモテもする。髪にリボンを飾ったり、第1ボタンをはずしたりとまねしても、わたしにはしっくりこない。根本的な違いがあることを知って、悲しくなった。

ピンク色の画用紙

 父は猛烈なサラリーマンだった。わたしが目を覚ましたときにはもう家を出て、帰ってくるのは午前様。苦労を重ねて就職したこともあって、会社への忠誠心は72歳で亡くなるまで変わらなかった。戒名に、電電公社とNTTをイメージした「通達院」の文字があるのは、僧侶が父の思いをくんでくれたからだ。
 日曜日は寝てばかりで、一緒に遊ぶことはほとんどない。そんな父とわたしを、絵が結びつけてくれた。

父と。祖母が編んでくれたベストを着た幼稚園のころのわたし
父と。祖母が編んでくれたベストを着た幼稚園のころのわたし

 父は少年時代から絵を描くのが好きだった。管理職に就くまでは絵筆を握り、リビングには母をモデルにした大きな肖像画を飾っていた。わたしもまねて、いたずら描きのようなものをすると、父がほめてくれる。それがうれしくて、チラシの裏にしょっちゅう絵を描いた。
 幼稚園では美術の時間が楽しみだった。
  貼り絵、折り紙、粘土細工。さまざまなことをした後、園内で飼っているセキセイインコやオウムの絵を描くことに。
 黒板の前に水色とピンクの画用紙が用意してあったので、迷わず水色の画用紙を選んだ。ピンクは甘ったるくて、こびている感じがして苦手。いっぽう水色は、すがすがしくて大好きだった。
 おもいのほか楽しく描けて機嫌よくしていると、先生はやさしい口調で言った。
 「千絵ちゃんはおんなのこだから、ピンクの画用紙なのよ。もう一度、描き直しましょうね」
 いやだった。でも、先生に言い返す勇気なんてない。再びクレヨンを持つものの、手はスムーズに動かなかった。壁に貼られた不出来な絵を見るたび、ピンク色の画用紙を憎んだ。
 お人形さんのようなバンビ。
 大人っぽい切れ長。
 ぼんやりとしたわたし。
 3人それぞれタイプは違うのに、おんなのこの枠にひとまとめされてしまうと知った。この日からピンク色はおんなのこの象徴になった。
 おんなのこ向けのお菓子や文房具がピンク色のパッケージで売られているのを見るたび、うんざりした。ピンク色は、バンビや切れ長のようなおんなのこが好きなんだ。わたしは、だいきらい。「ピンクが好き」って言うおんなのこには絶対ならない。
 大人になってもピンク色の小物や服は買わなかった。
 はじめてピンク色の服を買ったのは40歳のとき。パウダーピンクのタートルネックセーターで、若さが消えてこびずに着られると思えたからだ。

ビキニとブリーフ

 わたしは、いわゆるボーイッシュな容姿のおんなのこだったのに、大人になったらすてきな女の人になっていると思い込んでいた。
 イメージしていたのは大人の女。赤い口紅、ブルーのアイシャドー、毛先を大きくカールしたロングヘア、そして黒いストッキングにハイヒール。佐藤友美やモニカ・ヴィッティのような人。
 グラマーにもあこがれた。家のなかで、セーターの下に2つの野球ボールを入れて「ボインちゃんだぞー」とおどけたこともあった。
 そのころ、従姉妹からビキニを譲り受けた。紺地に白の水玉模様で、ピンク色のパイピングしたおしゃれ水着。
 近所のこどもたちと水遊びをするときは下着のパンツ1丁だったので、ビキニははじめて。ぺったんこの胸にトップスをまとうと、母の口紅をこっそりと塗ったときとおなじ気持ちになる。友だちの前で着るのは誇らしいようで照れくさかった。
 卒園の前の年、園内でお泊まり学習があると知り、わたしはトイレを心配した。
 幼稚園のトイレは個室だけれど、鍵はかからず、扉を押せば前後に揺れるタイプ。半年ほど前、おなじクラスのおとこのこがドアを開けて、用を足しているわたしをからかった。
  恥ずかしくて、だれにも言えない。「幼稚園にいるときはトイレに行かない」とひとりで決めて実行中だった。
 お泊まりの日、いつもどおりにお茶を飲み、夕食もすんなりと終えた。でも、時間がたつにつれて、もぞもぞしてくる。がまんが効かなくなった明けがた、布団のなかで体の緊張をゆるめた。
 担任の先生は、わたしを保健室へ連れて行き、びしょびしょになった寝間着と下着を脱がして言った。
 「予備のパンツはこれしかないの。がまんしてはいてね」
 20代の先生が手にしていたのは真っ白なブリーフだった。わたしはおもらしよりも、前開きのパンツをはくことにうろたえた。
 先生に促されてしぶしぶ身につけると、性差の違いが皮膚感覚でひりひりと伝わってくる。ヒヨコのパンツと違って、気持ちは落ち込むいっぽうで、迎えに来た母に「早く脱ぎたい」と帰り着くまで言い続けた。その夜は熱を出し、寝込んでしまう。
 50歳近くになった今は、前が開いているか、開いていないかだけで、パンツに変わりないと受け止められる。きっと、担任の先生もおなじだったのだろう。でも、すべての人に当てはまるものではないとも思う。
 新聞記者になってから、心は女性で、体は男性として生まれた人に、話を聞く機会があった。
 「こどものころ、おとこのこの下着をつけるのがとてもいやだった」 彼女がうち明けてくれたとき、心と体でブリーフを拒絶した6歳のわたしを思い出した。

少女漫画の世界に触れて

 母と駅前商店街へ買い物に行ったとき、文房具店でぬり絵を見つけた。
 目に星の入ったおんなのこが、花や真珠がちりばめられたレースたっぷりのドレスを着ている。家で読んでいた『ちいさなうさこちゃん』(ディック・ブルーナ文絵、石井桃子訳、福音館書店、1964年)のワンピースや、ディズニー絵本で見るシンプルなドレスとはぜんぜん違う。漫画や雑誌は厳禁の家だったので、はじめて見る少女漫画に心を奪われた。
 高橋真琴さんの作品だったのだろう。当時は、メモ帳や鉛筆、シールなどたくさんの高橋さんグッズが売られていた。
 小学校の入学祝いにもらった手押しの鉛筆削りも、そんなひとつ。今なお現役で、鉛筆を削るたびに小学生のときの気持ちを思い出す。本体はショッキングピンク色で苦手なはずなのに、それを忘れるほど、高橋さんが描くおんなのこが好きだった。

 高橋さんグッズとともに、同級生のほとんどがリカちゃん人形を持っていた。 リカちゃんは小学5年生で、お菓子づくりと赤いバラの花、白色とピンク色が好きという。わたしにとってはアンチなキャラクターなものの、母や祖母に「みんなが持っているから買って」とねだった。
 ようやく手に入れたものの、好きになれなかった。
 肌なじみは、母がつくってくれた布の抱き人形のほうが良かった。そして、ペイントされたリカちゃんの唇やまつげが不自然に見えた。
 でも、カールした髪やレースたっぷりの服など、少女漫画のような魅力は捨てがたかった。
 おんなのこはこれで遊ぶんだ!
  むりやり思い込もうとしたけれど、半年も過ぎると、おもちゃ箱に突っ込んだままになっていた。
 数年前、ネットで大人向けのリカちゃんが登場したと知った。ハイヒールをはきこなすスタイリッシュボディーで、裾からチュールがのぞいた真っ赤なワンピースや、ピンク色のサーキュラースカートなどトレンドの服を着こなすという。趣味は、ファッション、スイーツ、旅行、スポーツ、SNS更新だった。
 わたしはずいぶん遠いところにいる。大人になっても女子全開のリカちゃんを見て、そう思った。ショートカットでほぼノーメーク。体を冷やさないために、パンツスタイルでスニーカーだし、お菓子はほぼ食べていない。そういえば、佐藤友美にもモニカ・ヴィッティのような女の人にもなっていなかった。
 こどものころ、もうひとつ、少女漫画の世界に触れていた。姉が夢中になった『ベルサイユのばら』(池田理代子作画、集英社『週刊マーガレット』、1972~73年)だ。
 原作の漫画をこっそりと読み、宝塚の舞台が放映されると、テレビの前で踊り歌った。
 かぐや姫や鉢かづき姫といった日本のお姫さまには見向きもせず、漫画の世界が再現されたドレスにあこがれて、カーテンを体に巻きつけたり、母のネックレスをじゃらじゃらつけたりした。
 男装を知ったのもベルばらだった。オスカルは女なのに、男であるアンドレとおなじ格好をしているし、宝塚も女の人が男役をしている。仕組みや理由はわからなかったけれど、まぶしく見えた。
 宝塚にはまったのはこのときだけで、職場の宝塚ファンからはなしを聞くたび、その熱量に驚かされる。

レトロな服が好きなのは

 ベルばらごっこは家のなかの遊びであって、ふだんは、ひらひらの服を着なかった。わたしが着ても似合わない。そう思わせたのは、祖母や母の手づくり服だった。
  胸元にサクランボ模様の刺繍やシャーリングをしたワンピースやサマードレス、えりと袖口をチロリアンテープで飾った半袖のコットンブラウス、タータンチェックのプリーツスカート、縄模様が編み込まれたベスト。
 シンプルな形だけれど、少しだけ甘い雰囲気もある。色は、紺、グレー、白が基本。祖母も母も、こどもにピンク色の服を着せるのは嫌いだった。
 祖母は2004年、100歳で亡くなった。数年前に祖母の家をかたづけていると、4、5歳だったころの母に、祖母が手縫いしたスリーピースが柳行李から出てきた。

祖母が母に作ったスリーピースの一部
祖母が母に作ったスリーピースの一部

 紺色と緑色をかけあわせたチェック模様のウール地。ジャケットには白いえりと銀のボタンがつけてある。約70年ぶりに見たという母は笑顔で言った。
  「ああ、懐かしい。この服、大好きだった。おでかけ用の服で、着るたびにわくわくした」
 わたしがこの服を見るのははじめてだった。針目は細かくそろい、フレアスカートは4枚はぎで、模様がひと続きになるよう慎重に継がれている。祖母の丁寧な仕事とともに、今も着られるデザインに驚いた。
 70年前のこども服は、どんなものだったのだろう。
 ヒントがほしくて、2016年に東京都庭園美術館などで開かれた『こどもとファッション 小さい人たちへの眼差し』の図録を手にとった。ぱらぱら見ていると、『大正時代から昭和時代前期:「純粋無垢」という子どもへの眼差し』という章の扉に、目がとまった。

大正時代に子どもをめぐるキーワードとして新たに注目されたのは「無垢」あるいは「童心」という言葉である。西洋から輸入された、子どもを「純粋無垢」な存在ととらえるロマン主義的子ども観は、明治末の文学をいったん経由した後、「童話」「童謡」という新しい表現を生み出した。その端緒は1918(大正7)年の『赤い鳥』創刊であり、その後次々と同書に倣った子ども向けの書籍が刊行された。これらは、都市の新興中間層や地方の富裕層に、その子どもに読ませるのにふさわしい媒体として受容されていく。絵雑誌『子供之友』『コドモノクニ』に洋装のモダンな子どもたちが描かれると、ここに描かれたような洋服が実際に流通し消費されるようになっていった。子ども服の洋装化はこの時期から徐々に進行し、第二次世界大戦が始まる頃までには、都市部ではほとんどの子どもが洋服を着るようになった。

 絵雑誌がこども服の流行を生んでいたとは思いもしなかった。『コドモノクニ』が気になって探してみると、ノスタルジックでシンプルな服が描かれていた。
 くるみボタン、レースで飾ったえり元、ローウエストのワンピース。
 祖母や母がつくってくれた服や、今のわたしの好みにとても似ていることに驚いた。そして、絵雑誌がキーワードであることに因縁めいたものを感じた。
 祖父は1932年からしばらくのあいだ、東京・神田神保町で、こども向けの雑誌『カシコイ一年小学生』『カシコイ二年小学生』を手がけていた。数年前に調べたものの、資料に限りがあって、いつ終刊したのかも含めて全容はわからない。
 手元にある『カシコイ』を見ると、童謡顧問に北原白秋とある。白秋は鈴木三重吉の児童雑誌『赤い鳥』にかかわっていたが、三重吉との間に確執が生まれたために決別。そのあと、『カシコイ』に携わった。
 絵を描いた人たちも、童画顧問を務めた初山滋をはじめ、『コドモノクニ』ゆかりの童画家たちが多い。白秋の影響を受けて『カシコイ』で発表したようだった。
 母によれば、家のあちこちに雑誌や本があったという。絵雑誌がインスタグラムのような存在だったとすれば、祖母は身近にあった『コドモノクニ』や『カシコイ』の絵を参考にして、自分のこどもたちに服をつくっていたのかもしれない。その服を母が着ることで、母の心やからだに祖母のデザインや好みが刻み込まれ、わたしが生まれると、母が祖母から受け継いだものをもとに、服をつくってくれた。
 そう考えると、祖母や母、わたしが選ぶ布や毛糸の種類、服の好みが似ていることに納得できる。好みの源泉に触れた気持ちになった。

わたしを支える年輪

 新聞記者の取材テーマは、政治、事件、宗教などいろいろある。今のわたしはファッションや料理など暮らし全般を取材しているけれど、以前は文芸を担当していた。主な仕事は、京都ゆかりの作家や詩人へのインタビューだった。
  『車のいろは空のいろ』(ポプラ社、旧版1968年)
  『ちいちゃんのかげおくり』(あかね書房、1982年)などで知られる、あまんきみこさんに、創作への心持ちについてたずねると、こう話してくれた。
 「人は、あかちゃん、幼年、青年、老年とそれぞれに経験したものが木の年輪のように重なって、抱え持って生きていると思うの。こどものころの悲しみや喜びは、今もわたしの心のなかにあって、そのころの自分と行き来しながら、童話を書いています」
 あまんさんの言葉は、服を着ること、縫うことにもつながっているように思う。
 わたしが服を選ぶときや、自分自身や母、友人、知人のふだん着を縫うとき。さまざまな服を着た経験が支えてくれているからだ。
 服をつくる前に母や友人、知人に聞くのは、ほしい服の種類 ── ワンピースとか、オーバーとか ── や、好きな色だけで、あとはすべて任せてもらっている。
 服のデザインは、その人が日ごろ着ている服やライフスタイルを参考にして考える。書店員の人にはふだんはいているジーンズにも合うダッフルコートを。ギャラリストには、カラフルな縞模様のはおりものを。大切にしているのは、着る人によりそい、その人のふだん着になじむこと。思いついたイメージを形にしたいので、完成するまでお披露目しない。
 オーバーを縫うとき、たいてい紺色か黒色のメルトン生地を選ぶ。こどものときによく着たので気持ちがほっとするし、丈夫であたたかなうえに着回しが効く。
 はおりものをつくる場合、見返しに着る人の名前を刺繍する。それは、小学生のころ、母がワンピースにちいさな花束などの刺繍をしてくれてうれしかったから。自分だけの1着はかけがえのないものだった。
 セーターを編んでいる途中に目を落とすと、そのまま編み進めたい気持ちをこらえて、ほどいてやり直す。祖母は生前、失敗に気づいたら必ずほどいたし、納得するまで何度もやり直した。丁寧に編んでくれた白いウールのカーディガンは30年たった今も型崩れせず、着心地がいい。

 どこを工夫したら、着ていて楽しい服になるか。そんなことを考えながら、わたしは布を裁断し、ミシンを踏んでいる。

よしこちゃんとファミリア

 小学2年生のとき、はじめて仲良しの友だちができた。名前は、よしこちゃん。おっとりとしていて、やさしい。一緒にいると安心できて楽しかった。
 よしこちゃんはかわいかった。そして着ている服のどれもがすてきだった。胸元に細かいシャーリングを寄せたチェック模様のワンピース、白い丸えりの紺色ワンピース。色目もシックで、祖母や母がつくってくれた服とどことなく似ているけれど、格段にあか抜けてしゃれていた。クラスでよそ行きのような服を着ているのは、よしこちゃんだけだった。
  学校から帰ったわたしは、夕食の支度をしていた母に言った。
 「よしこちゃんの服、かわいいねん。わたしも着てみたい」
 「どんな服なん?」
 「刺繍とかしてあった。ファミリアの服って言ってたで」
 「そうなんや」
 母はそれきり何も言わず、晩ご飯をつくり続けた。
 数日後、母と祖母、姉、わたしで、大阪へ遊びに行った。阪急百貨店にあるファミリアの売り場へ立ち寄ると、よしこちゃんぽい服が並んでいて、ドキドキした。そして、値札を見たわけではないのに、この服は高いからねだってはいけないと思った。
 よしこちゃんの家は、奈良市内の高級住宅地に建つ一軒家で、おやつに出されるのは洋菓子店のケーキだった。わたしが住んでいた社宅や、母がつくったぼそぼそのクッキーとは違う。ファミリアはわたしにとって、身の丈に合わない服だった。
 でも、あきらめきれず、学年が上がるにつれて、あこがれは増した。そして、ファミリアのキャラクターのこぐまのふたご、ファミちゃんとリアちゃんを好きになった。
 それまで気に入っていたキャラクターはスヌーピーだった。サンリオ全盛期で、キティちゃんやキキとララのグッズがたくさんあったけれど、おんなのこらしい感じがして苦手。スヌーピーもかわいいと思いきや、姉の本棚にあったコミック『結婚したいの、ルーシー(Snoopy books)』(チャールズ・シュルツ作、谷川俊太郎訳、角川出版、1981年)などで、シニカルな性格だと知り、そのクールさにハマった。
 スヌーピーで背伸びをしていたわたしが、ファミちゃんとリアちゃんにひきつけられたのは、幼稚園のころに大好きだった絵本『ぐりとぐら』(中川李枝子作、大村百合子絵、福音館書店、1967年)の絵と似ていたから。大人っぽくなりたい。けれど、もう少しこどものままでもいたかった。
 お年玉を貯めて、ファミちゃんがプリントされたペンケースなどのグッズを買った。くま模様の包装紙も宝物で、大切に引き出しにしまった。
 着ることができないのなら、せめて働きたい。卒業文集の将来の夢を書くコーナーで「ファミリアの店員になる」と宣言した。卒業式は、祖母が編んだえんじ色のウールのベストで出席した。
 その日を境に、わたしは既製服ばかり着るようになる。手づくり服に再び向き合うのは20年後。自分で洋裁をするとは考えもしないことだった。


【参考文献】

南目美輝・八巻香澄編『こどもとファッション 小さい人たちへの眼差し』島根県立石見美術館、神戸ファッション美術館、東京都庭園美術館、読売新聞社、美術館連絡協議会、2016年。
「遠望(29)童話作家あまんきみこさん 幼年期、感覚響かせて 温かみの向こうの死と悲哀」(行司千絵)『京都新聞』、2014年7月24日。

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著者略歴

  1. 行司 千絵

    1970年生まれ。同志社女子大学芸学部英文学科卒。京都新聞に勤めながら独学で洋裁を習得し、自身の普段着や母、友人・知人の服を縫っている。瀬戸内寂聴さんや志村ふくみさんなど、3〜91歳の80人に服を作った。個展に「母と私の服」(西宮阪急)「おうちのふく」(フォイルギャラリー)「まだ見ぬあなたに作った服」(誠光社)など、著書に『おうちのふく』(FOIL)など。『図書』2018年11月号・12月号に「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」を寄稿。

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