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行司千絵 服のはなし

個性とドレスコードの関係〈服のはなし〉

ローマ教皇の謁見式

 旅が好きだ。
 月光がひとすじの道のように海面を照らした直島の夜。針葉樹林の木々のもとで故人たちが眠るスウェーデンの森の墓地。20万人以上が収容されたナチス・ドイツのザクセンハウゼン強制収容所。知らない場所、知らない世界に触れるたび、ふだんの日常がすべてではないと気づかされる。旅はわたしにとって欠かせないもので、その時間を持つために、日々節約にはげみ、休みの捻出を考える。
 飛行機の格安チケットと宿を抑えたら、スケジュールはその日まかせ。2016年の夏にローマへ行ったときも、今日はどこに行こうかなと、ホテルでぼんやりガイドブックをながめていた。
 欄外のメモに目がとまった。ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇による一般謁見が毎週水曜日にあるという。水曜日は明後日。よかった、まだローマにいる。参加は無料だけれど事前予約が必要なので、ホテルの人に代行をお願いした。
 謁見の日は、気持ちのよい青空が広がった。始まる1時間前だというのに、会場のサンピエトロ広場はすでにたくさんの人で埋まっている。フェンスでいくつかのゾーンがつくられていて、セキュリティーゲートを通ると、自然とひとつのゾーンに割り振れられていた。
 そこは文字どおり人種のるつぼだった。北欧、オセアニア、インド、アジア……。どれだけの国や地域の人が来ているのだろう。一般謁見は旅行代理店が観光ツアーとして組んでもいるので、わたしのような観光客も混ざっているとはいうものの、信仰の圧倒的な力を感じた。
 まもなくオープンエアの特別車に乗った教皇が登場して、各ゾーンを回り出した。
 「パーパ!」
 「フランチェスコ!」
 歓声が波のように広がっていく。車はときおり止まって、教皇が参列者と握手したり、あかちゃんのおでこにキスしたり。もうすぐ、わたしのゾーンだ。信者ではないのに胸がドキドキする。気がつけば、ナポリから来たという隣の老夫婦と一緒に手を振っていた。

ドイツの高校生が着ていた民族衣装

 会場をくまなく回った教皇が前方の舞台へと移ると、謁見式が始まった。
 参列者はしんと静まり、熱心に聞いている。そのなかに、民族衣装を着たドイツの高校生グループがいた。はじめて見た実際の衣装に目を奪われながら、こんなとき、民族衣装を着るんだなと思った。わたしだったら着物になるんだな、とも。
 でも、無理なはなしだった。着物を着たのは七五三と成人式のときだけで、旅館の浴衣さえ着こなせない。
 職場がある京都には、和装の店が多い。藤鼠や浅葱色など日本の色。草花模様を繊細に表現した京繍。見るたびにすてきだなと思う。けれど、買ったことは一度もない。
 それは、着物を着慣れている人との差が大きいからだ。
 茶華道の師匠や料亭の女将、花街の人たちは、ひとめで上等とわかる訪問着、小紋、大島などを身につけている。着付けやヘアスタイルは板につき、立ち居振る舞いも含めて、おなじようには着こなせない。着慣れるためには場数を踏めばいいのだろうけれど、わたしの生活に着物を着る機会は訪れないし、つくろうともしていない。
 サンピエトロ広場では、民族衣装の人、そうでない人に分かれていた。
 そうではない人たちは、日本で見かけるスタイルとおなじで、チノパンやスカート、ブラウスといった服を着ていた。
 わたしがこの日着たのは、白いシャツに黒のスキニーパンツ。広場に立つと取るに足らないスタイルで、欧米人のなかにいると、ネイティブファッションではないことの後ろめたさと居心地の悪さとともに、そのなかに溶け込んでしまってもいて、心許ない気持ちになった。
 広場には、チュニックにズボンを重ね着した50代の女の人がいた。姿を見た瞬間、日本の人のファッションだと思った。日本の現代の服は欧米と変わりないと思っていたけれど、日本にはなじみのない具を巻いた寿司がアメリカやイギリスで親しまれているように、洋服の着こなしもそれぞれの国で育まれ、少しずつちがうものになっているのだろう。

外国人のファッションスナップ

 写真集『100年前の写真で見る世界の民族衣装』(日経ナショナルジオグラフィック社、ナショナルジオグラフィック編著、2013年)を手に取ると、見入ってしまう。

 赤いベールを頭に巻いたトルコの女性、木靴をはいたオランダの漁師、鼻飾りやベールをかぶったオマーンの女性。ずいぶん前の写真に思えるけれど、つい最近までこれが日常の姿だった。
 日本の衣装もあった。明治から大正にかけて撮影された写真は、みんな着物姿。わたしはその名残りをおぼろげに覚えている。1970年代ぐらいまではお年寄りの普段着といえば着物だった。明治生まれの祖母もそんなひとりで、60代に入って「帯で体をしめつけるのがしんどい」とワンピースに変えた。
 日本の洋装は明治の文明開化から始まるが、一般化したのは太平洋戦争が終わってからだ。焼け跡が残り、食べることさえままならない時期に、いち早くおしゃれの大切さを伝えたのは、雑誌『暮しの手帖』で知られる大橋鎭子と花森安治だった。
 大橋をモデルにした連続テレビ小説「とと姉ちゃん」(NHK、2016年)の放映を知ったとき、うれしくなった。幼いころから『暮しの手帖』が身近にあって、この雑誌から服選びやおしゃれのルールを学んだ。
 とくに、日本に住む外国人女性のプライベートファッションを紹介するページが好きだった。

『暮しの手帖』で紹介された外国人ファッション
『暮しの手帖』で紹介された外国人ファッション

 暮しの手帖社にたずねると、この特集は、1969年の第2世紀1号──『暮しの手帖』は100号分を1世紀としてカウントする──から始まり、1995年の第3世紀56号まで、計59回が掲載されたという。
 『暮しの手帖』が外国人のファッションに注目したのは、なぜなんだろう。
 コラム「編集者の手帖」で、大橋が理由をつづっていた。

 衣装は、ファッション・ショウのステージの上や、服飾雑誌の頁の中にあるのではなくて、まいにちの暮しのなかに生きているものでしょう。
 ということは、ほんとうに暮しのなかに根をおろし、とけこんでしまわないうちは、やはりダメだということです。じぶんのお金で作ったものでありながら、やはり〈借り着〉みたいなものだとおもいます。
 私たちが、暮しのなかで洋服を着はじめてから、まだ二十年そこそこではないでしょうか。
(中略)
  日本の女のひとの洋服は、どんな程度なのかは知りませんが、〈着こなし上手〉といわれるまでには、まだすこし、年月がかかるのではありませんか。
 一日でも早く、そこへゆくには、これはなんといっても、外国のおばあさんの、そのまたおばあさんの、ずっと昔から、洋服を着てきた人たちの洋服姿を見なれるのがいちばんだとおもいます。
 暮しの手帖が、しばらくまえから日本に住んでいる外国の奥さんやお嬢さんたちの、ありのままの洋服姿を連載しているのも、じつは、そのためなのです。

(『暮しの手帖』1973年第2世紀22号)

 『美しい暮しの手帖』が創刊したのは1948年(後に『暮しの手帖』に変更)。当時、洋服といえばひとりひとりが家で縫っていた。高度成長期に入ると規制服が登場し、女の人たちはつくる手間から解放されたものの、組み合わせや着こなしといった、おしゃれテクニックはまだ手探り状態。そこで大橋たちは、外国人のプライベートファッションを通して生きた装いを学ぼうと考えた。
 私服を披露したのは、スウェーデンの外交官夫人やドイツの専門紙特派員の妻たち。30歳前後が中心で、子育て中の人も多かった。自らがモデルとなって、仕事場でのスタイル、家事をするとき、パーティースタイルと、シーン別に撮影した。
 外国人の女性たちは東京で暮らしながら、家のなかでも靴をはき、食卓にはキャンドルを置くなどして、母国のライフスタイルで過ごしていた。それは、わたしの暮らしとは全く違うものだった。母はパンチの効いたファッションとモダンな暮らしに刺激を受けたくて毎号買っていた。わたしもそれが楽しみで、家で最新号を見つけると、最初に開くのは、藤城清治の絵がある童話か、このページだった。
 久しぶりに古い雑誌を手に取り、思わずひきこまれた。
 白いウールのパンタロンスーツ、絹のブラウスに子羊の革のパンタロン、ニットのポンチョ、カシミヤのコート。
 数十年前なのに、デザインや着こなしは古びておらず、かっこいい。スタイリストの手を借りず、本人が暮らしのなかで選んだ1着1着は、着る人になじみ、とても似合っている。どれとしておなじものはなく、こんな服が今あれば着たいと思った。

実用的な着こなし術

 特集には着こなし術も紹介してあって、毎回楽しく読んだ。
 たとえば、サリー・シャノンさんはこんなふう。ロサンゼルスタイムズ紙の東京支局長の妻で、2人の子どもを育てながら法律事務所で働く人だ。

 服を買うとき、まず考えることは、着やすいということです。仕事を持っていると、一日じゅう一つの服を着ることが多いから、肩がはるような服は、一日でいやになってしまいます。
 つぎに、デザインがシンプルで、色のきれいなもの、自分の好きな色のものを、えらびます。
 それから、少しぐらい値段が高くても、生地のいいしっかりした仕立てのものをえらびます。
 なかには、安い服をつぎからつぎと着捨てて、いつも新しいデザインの服を着ている人もいますが、あれはあれで、いいのではないかしらと、おもいます。
 でも私は、流行のものはさけて、なるべくあたりさわりのないものを探します。大切にいつも着たいからです。

(『暮しの手帖』1969年第2世紀2号)

 サリーさんが特別ではなく、登場する誰もが自分の考えを持っていた。
 ミニスカートが流行中だから、手持ちのワンピースの裾を上げる。ポリエステル製のワンピースは、軽くて着やすく、自分で洗えるうえにアイロンがいらないので便利。丸首のワンピースは、えり元になにもないからネックレスやアクセサリーが引き立ちます――。大切なのは、自分に似合い、長く着られること。流行を取り入れるのならちょっぴりに。実用的なファッションテクニックを、わたしは学んでいった。
 特集を担当していた元編集者の山口壽美子さんが健在という。現在92歳。暮しの手帖社のスタッフが代わってはなしを聞いてくれた。
 モデル探しは撮影に協力した女性たちの紹介でつないだものの、次第に追いつかなくなり、大橋や山口さんたちがスカウトした。
 日曜日の朝、表参道の教会や会員制社交クラブ・東京アメリカンクラブなどの入り口に立ち、目を引く装いの外国人に声をかけた。そして英語で書いたこんなメモを見せた。
 〈わたしは英語が話せませんが、貴女の着ていらっしゃる服はとてもすてきです。わたしの雑誌に貴女の写真を載せさせていただきたいと思います。〉
 山口さんにとって印象に残るひとりが、第2世紀31号(1974年)で登場したモニカ・ゼムンさんだ。夫がドイツ大使館の一等書記官という仕事柄、パーティードレスを着ることが多かった。パーティーシーンの撮影で着たのは、ロングスカートに合わせた黒いホルターネックのブラウス。三角形の布2枚を組み合わせた手づくり服だった。
 当時の日本のパーティーといえば、高価な服を着るなど、着飾って参加したという。いっぽう、ファッションフォトに協力した外国人女性は、モニカさんのように簡単な手づくり服をパーティーで着た。その姿に花森は「日本人のように飾り立てない」と好意的に見たそうだ。
 時が進むにつれて、服のバリエーションは少なくなっていった。
 1985年に登場した女性は、シンプルなデザインのパンツばかりをはいた。この撮影に立ち会ったカメラマンの難波達巳さんは、大橋が小声でつぶやいたのを覚えている。
 「わたしが買ってこようかしら」
 アルマーニなどのシンプルな服が流行中だった。そして、大量生産と大量消費の時代に入っていた。

あこがれは冷凍食品と既製服

 わたしが生まれた1970年は、外食産業元年と呼ぶのだそうだ。
 大阪万博の会場でケンタッキーフライドチキンが初めて販売され、1日に最高280万円を売り上げた。その後も、すかいらーくミスタードーナツマクドナルドがオープンした。
  おなじみの食べものも、このころに生まれた。シューマイなどの味の素の冷凍食品カップ焼きそばU.F.O.カルビーのポテトチップス明治のきのこの山……。
 日々のごはんやおやつは母の手づくりだったわたしにとって、既製品はあこがれの存在だった。次第に、手づくり品はあか抜けず生活じみたものと思うようになっていく。

母がつくったワンピース。胸元にサクランボの刺しゅうがしてある
母がつくったワンピース。胸元にサクランボの刺繍がしてある
小学生の時につくったかばん。設計も刺繍もフリーハンドでつくった
小学生の時につくったかばん。設計も刺繍もフリーハンドでつくった

 それは、服もおなじだった。かっこいいのは既製服。形がそろい、つくり手の気配を感じさせないのがよかった。
 わたしが通った公立の中学校は、服装が自由だった。
 スタイルは3つに分かれた。いちばん多かったのが制服。続いてはトップスは私服でスカートやズボンは制服という折衷タイプ。全身私服はごくわずかだった。
 制服が人気だったのは、1着あれば服を買わずに済む。そんな経済的な理由もあっただろう。でもイケてるおんなのこは、ほぼセーラー服を着た。スクリーン上で機関銃をぶっ放した薬師丸ひろ子も、『卒業』を歌った斉藤由貴も、セーラー服だったから。制服店で新調したり、人気女子高の制服を譲り受けたりして、いろんなデザインのセーラー服を着たおんなのこが廊下を歩いた。
 わたしは折衷タイプだった。制服にもあこがれるし、自分なりのおしゃれもしたかったから。そういえば、このころからだ。母が繕ってくれた靴下をはくのも、家での散髪がいやになったのは。穴の開いた靴下も繕えばまだはけるし、捨てるにはもったいない。十分わかっているのに、あたらしいものや手づくりではないものが輝いて見えた。サージのプリーツスカートに合わせたのは、キャビンや鈴屋でセールだったダンガリーシャツ。はじめて行った美容室でキョンキョン風のショートカットにし、恋はそっちのけで、部活のバスケットボールに夢中になった。

ロゴ入りのトレーナー

 女子大生ブームが起き、テレビ番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ、1985〜1987年)からおニャン子クラブが誕生したころ、わたしは私立の女子高に進学した。
 中学校を併設した学校で、クラスを引っ張ったのは内部生でつくるグループ。ノリのいい彼女たちがキラキラと輝いて見える。なのに、わたしも含めた編入組は野暮であか抜けなかった。
 イケてる女子になりたい。わたしはイメチェンすることにした。
 まずは部活を辞め、小学校から続けていたバスケットボールとさよならした。
 制服をかわいく着こなすため、スカート丈や靴下の長さにこだわった。髪を伸ばして毎晩カーラーを巻いた。そして、モデル体型を目指してダイエットし、体重47キロ、ウエスト59センチにした。でも、生理が止まり、ギスギスするだけだった。
 どうしたら、内部生のように輝けるのだろう。
 そういえば、彼女たちが私服のとき、ブランドもののトレーナーを着ていた。おなじものを着たらいいかもしれないと思った。
 ちょうどDCブームで、ニコル、ミルク、アツキオオニシ、ツモリチサト、ジュンコシマダなど、いろんなブランドがあった。わたしはお金持ちの内部生が着ていたマドモアゼルノンノンにあこがれた。
 トラッドベースのお嬢様風。でも値段が高かった。父の職場は電電公社からNTTへと変わり、いくらか生活にゆとりが生まれていたものの、住宅ローンを抱えながら進学させてくれていたのでねだれない。
 わたしはお年玉を貯め、セールで背中に大きくロゴが入ったトレーナーを買った。
 うれしくて枕元に飾っていると、母は冷ややかに言った。
 「ロゴなんて、単なる宣伝やんか」
 これが大事なのに。内部生とおなじブランドの服が着ることができたのに。
 理解しない母に腹が立った。
 トレーナーを着ても輝けない自分に、そして、節約した日々のなかから両親や祖母がくれたお年玉を見栄のためにつかった自分に、腹が立った。
 『暮しの手帖』で学んだおしゃれの極意は、そのころ、頭の中から消えていた。

みんなとおなじになりたい

 おしゃれな格好をして、すてきな彼氏とデートし、大学卒業後は華やかな職場でしばらく働いて、25歳までに結婚して家庭に入る──。
 女子大に入ったとき、世の中にはこんなライフスタイルが根強かった。クラスメートと「働くとしたら事務職? それとも総合職?」とのやりとりは頻繁にしたし、「働かないで家事手伝いをする」と話す友だちも珍しくなかった。
 男女雇用機会均等法が施行されて間もないころだった。わたしは法律の意味を理解しようともせず、旧来のライフスタイルに疑問も抱かなかった。20代で結婚して専業主婦になるんだろうな、と思っていた。
 あのころ、みんなとおなじようになりたかった。
 みんなとは、たとえば、かわいい女子大生。彼氏がいて、明るくて、あか抜けていて、ともだちがたくさんいるような人。
 小学校のときから男の子に「ブスやなぁ」と何度も言われてきたので、わたしは容姿に自信がまったくなかった。「みんな」のひとりになるには、服装でなんとかするしかないので、旬のアイテムを買った。レノマのバッグ、ラルフローレンのポロシャツ、リーボックのスニーカー。スーパーのレジ打ちやケーキショップの店員、国際会議場のスタッフなど、アルバイトを掛け持ちしてお金を貯めた。ロングヘアにパーマを当て、流行の青みがかったピンクの口紅を塗り、軽いノリのテニスとスキーのサークルにも入った。
 でも、サークルになじめなかった。
 マハラジャで遊んだことがないから、ボディコンスーツを着ても似合わなかった。
 そしてアルバイトを通して、働くことは楽しいと知った。
 必死になるほど、自分が思う「みんな」から外れていく。
 わたしは、なにをしたいのだろう。わからないまま、就職活動に入る。バブル崩壊が重なって、食品メーカー、百貨店、新幹線の車内販売など手当たり次第30社以上受けたものの、全滅した。そして、採用シーズンが終わっても進路は決まらなかった。
 途方に暮れるなか、支えになるものが、ひとつあった。
 それは文章を書くこと。日々の出来事をエッセーで書くと、ときおり雑誌に載る。ちいさなスペースだったけれど、ありのままの自分が認められたようでうれしかった。
 卒業する半年前、キャンパス内でクラスメートから声をかけられた。
 「書くことが好きやんか。受けてみたら?」
 彼女が手にしていたのは新聞の切り抜き記事。新聞社が追加募集すると書いてある。考えてもみない業種だけれど、ダメ元で受けた。それが、今も続けている仕事だ。
 わたしをとりまく世界は、高校から7年間続いた女の社会から、男の社会に変わる。 同時に着る服も変わっていった。

落ちた巻きスカート

 最初の赴任地は支局だった。当時、女性記者は今よりもっと少なかった。わたしが担当した自治体や警察署もそれまでは全国紙・地方紙ともに男性記者が取材していたので、行く先々で「はじめての女性の記者や」と珍しがられた。
 同期の女性記者はみんなパンツスタイルだったけれど、わたしはスカートで出勤した。女性のパンツスタイルがあたりまえの今とは違って、当時はスカートが主流。わたし自身も女はスカートと思い込んでいたし、大学の同級生の大半がスカートだった。そして、パンツスタイルにすることで、バリキャリに見られるのもいやだった。
 ふわふわとした気持ちが透けて見えていたのだろう。仕事を通じて出会う男性からは「今度はミニスカートをはいておいでよ。情報教えてあげる」「あんたは記者に向いてない。寿退社したら」と言われたこともあった。
 深夜、会社からの呼び出しを意味するポケットベルが鳴った。工場で火災が起きたという。多くの消防車が消火している現場であたふたと取材をしていると、はいていた巻きスカートが地面に落ちてしまった。翌朝、支局長は優しく笑って言った。
 「事故や事件現場はパンツスタイルのほうがエエで」
 事件事故の取材が急に入ってくる支局で働くにはパンツが最適だとわかりつつ、女子大生気分のままでいる自分が情けなかった。ちゃんと仕事に向き合いたい。次の日から、パンツスタイルで出勤した。

パンツスタイルが人気なのは?

 周囲で働く女性の服装はどうなっているのだろう。取材先の病院や警察の制服を観察すると、キュロットやスラックスをちらほら見かける。通勤電車のなかでもパンツスタイルの女性が増えているように感じるし、ファッション雑誌でもパンツの着こなし特集が盛んに組まれている。同僚と雑談中にそのことを話していると、隣で聞いていた男性のデスクが言った。
 「取材をして記事にしてみたら? 女性の間でなぜパンツスタイルが増えているのか、いまの社会のありようを考えながら取材するんやで。この現象を大学の先生に分析してもらうと、より面白い記事になるんじゃないかな」
 想像もしないことだった。でも、取材したいと思った。スーパーやデパート、アパレルメーカーなどで話を聞くと、パンツ人気は年々上がり、売り場面積も広がっているという。当時、同志社大学教授だった三塚武男さん(故人)のもとを訪ねると、こう分析してくれた。
 「『女性らしさ』は絶えず、スカート姿とズボン姿の間で揺れています。でもバブル崩壊と阪神大震災が起きたことで、自分は着せ替え人形ではなく、本当に必要であり、自分の気に入ったものが、パンツだったと気づいた。そう思う女性が増えているのではないでしょうか」
 服には時代の空気や社会の気分が表れる。それを読み取って記事にする――。わたしにとって思いのほか楽しいことだった。入社3年目の春、〈どんどん増えてます/女性のパンツスタイル〉が特集記事として掲載された。 パンツスタイルはその後も広がり続けている。JALは2020年4月から客室乗務員の制服としては初のパンツスタイルを導入するJR東海もその1カ月後から駅員や車掌らの制服を一新し、スカートは廃止するそうだ
 女子中高生の制服パンツも増えている。スクールウエアメーカーの菅公学生服に聞くと、2019年3月は過去最多の約800校で制服パンツが採用された。寒さ対策や動きやすさに加え、最近ではLGBTの生徒への配慮もあるという。
 今のわたしもほぼパンツスタイルだけれど、かたくなにパンツと思いがちになっているのではないか、とも思う。世界に目を向けると、パンツスタイルにとらわれず、装いを楽しみながら働く女性がいるからだ。そのひとりがイギリスの前首相、テリーザ・メイさんで、スカート、ワンピース、パンツスタイルと、その場にあった装いを軽々と着こなした。フィンランドのサンナ・マリン首相も、スカートとパンツスタイルを分け隔てなく着ていて、かっこいい。そうだった。スカート、パンツと分け隔てなく、自分が居心地よい服を着ればいいんだ。でも、服にはさまざまな思惑や決まりごとがつきまとい、ふりまわされてしまう。なぜなんだろう。

おなじ装いの人たち

 2019年秋にファッション展「ドレス・コード?──着る人たちのゲーム」が京都国立近代美術館で開かれた(熊本市現代美術館で2020年2月23日まで。東京オペラシティアートギャラリーで2020年4月11日から6月21日まで)。取材で会場を訪ねたとき、ポートレート写真を展示したコーナーで足が止まった。
 オランダ出身の美術家、ハンス・エイケルブームの作品『フォト・ノート』。アムステルダムやパリ、新宿などの繁華街で、似たような服装をしている人たちを定点撮影した96点だった。
 迷彩柄のジャケットを着た男女、ピンク色のダウンジャケットをまとった中年女性たち、デニムのミニスカートをはいた若い女性たち、パーティー用にドレスアップした女性たち、タキシード姿の男性たち。
 服にあまり関心のない人も、おしゃれを知り尽くしたファッショニスタも、不思議なほどおなじ装いをしていた。
 作品には撮影時間が書かれていた。エイケルブームは、ローリング・ストーンズのTシャツを着た男性12人を45分間で撮り終えていた。バーバリーチェックやそれに似たマフラーを巻いた12人の女性は1時間。ルイ・ヴィトンのモノグラム柄のポシェットをさげている12人の男性は1時間25分……。
 しめし合わせて集まったのではなく、たまたまおなじ場所を通りがかっただけだ。ひとりひとりはおしゃれをしたと思って、家から出かけたはずなのに、街中に目を向けると、おなじ服装の人であふれていた。
 トレンチコートを着た女性たちと、首元にストールを巻いた女性たちの写真を見たとき、わたしがいると思った。実際に写っていたのではなく、わたしの日常とシンクロした。
 30歳のとき、ファッション雑誌で「働く大人の女はトレンチを着るもの」という記事を読み、バーバリーのコートをローンで買った。記事に参考例として、トレンチコートを着たフランスの女優、アヌーク・エーメの写真があって、こんなふうに着こなしたいと思った。
 数年後には、スタイリストが書いた買い物指南本『ソニアのショッピングマニュアル』(ソニア・パーク、マガジンハウス、2004年)で、イタリアのブランド、ファリエロサルティのストールを知り、旅先で探して手に入れた。イタリアの女性のように、くしゅくしゅとニュアンスのある巻き方をしたくて、ネットで検索すると、「ミラノ巻き」と名づけてあった。
 トレンチコートやストールを身につけたのは、当時の職場で、ほぼかぶることがなく、個性的だと思っていたから。でも目の前にある狭い世界でのこと。それに気づいて、無性に恥ずかしくなった。
 パリ、ベルリン、台北など、どの都市のメーンストリートも、空港の免税店でおなじみのファッションブランドやファストファッションの店が並んでいる。好きなファッションスナップとおなじ服を買えるアプリもある。今は1点ものでないかぎり、知らない誰かとおなじ服を着る時代なのだ。

トレンチコートを着た理由は……

 展覧会の企画者のひとりである京都服飾文化研究財団のキュレーター石関亮さんがニコニコして言った。
 「自分がふだん、どうやって服を選び、コーディネートしているか。あるいは、装いを通して人をどう見たり、自分が見られたりしているか。この展覧会は、そんなことを考える機会にしたいと思いました」
 展覧会のタイトルにある、ドレスコードとは服装規定のこと。この言葉を聞くと、パーティーや高級レストランでジャケットを着用するといったことをイメージしがちだ。でも石関さんによると、それだけではないそうだ。
 サラリーマンだから、スーツを着て職場に向かう。
 お母さんはシャネルスーツ風の服を着て、こどもの卒園式に参列する。
 そもそも、外に出るときは、裸ではなく服を着る。
 こんなとき、こんな立場の人は、こんな格好をする──。無意識に服装を決めてしまうことも入るのだ。
 わたしがトレンチコートを着て取材先に向かうのも、アヌーク・エーメのようにかっこいい大人の女をアピールしたいからだ。ITやベンチャー企業のCEOがTシャツ姿なのも、スティーブ・ジョブズやマーク・ザッカーバーグのように新しいものを生み出す人はTシャツを着るというドレスコードにとらわれているから。ローマ教皇の謁見式でなんとも言えない気持ちになったのは、ミラノマダム風カジュアルファッションをまねただけだからだ。
 時代や流行、TPOに合っていると、ドレスコードとして正解をもらえて安心する。だけど、ほかの人とかぶりたくはない。服を選ぶときや着るとき、そのはざまでいつも揺れる。素材や色、丈の長さや襟の形などで、時代に合わせたり、周囲の人と違いをつけたりして、折り合いをつけているのかもしれない。そう考えていると、石関さんは言った。
 「そういうアンビバレントな関係や感情が、ファッションの基本なのだと思います。同一化と差異化。そのバランスでファッションは動いているような気がします」
 エイケルブームの写真を見ていたとき、わたしは着ているひとりひとりの顔ではなく、服を見ていた。人のために服があるはずなのに、流行やブランドの力が強すぎて、人よりも服が目立っていた。
 わたしは自分を引き立ててくれるものが着たい、と思った。そして、人は、ドレスコードをなくして服を着ることができるのだろうか、とも思った。
 ドレスコードとは、服を選ぶとき着るときのよりどころだ。人里離れて、だれとも関わらず、ひとりぼっちで生きていくのなら何を着てもいいのだろう。でも、社会のなかで暮らす限り、服装のルールにあたるドレスコードが必然的に生まれてくるはず。だとすれば、ドレスコードなくして、人は服を着ることはできないのだろう。
 暮らしのなかには、美術品を警備する赤外線のように、無数のドレスコードが張り巡らされている。でも、ひるまず、ときにはしたたかに操り、くぐり抜けたい。それが、わたしであるために装う第一歩なのだから。


【参考文献】

大橋鎭子『「暮しの手帖」とわたし』暮しの手帖社、2010年。
小榑雅章『花森さん、しずこさん、そして暮しの手帖編集部』暮しの手帖社、2016年。 「ミニの時代にはスカートの裾を上げて同じ服を何年でも着る」『暮しの手帖』暮しの手帖社、1969年第2世紀2号。
「編集者の手帖」『暮しの手帖』暮しの手帖社、1973年第2世紀22号。
「色無地を着こなす」『暮しの手帖』暮しの手帖社、1974年第2世紀31号。
「ザ・サンデー どんどん増えてます 女性のパンツスタイル 実用的でおしゃれにも 背後に〝女らしさ〟の変化」(行司千絵)『京都新聞』1995年4月23日。
「「視る、視られる」を表現 着るということを考える 左京区で「ドレス・コード?展」」(行司千絵)『京都新聞』2019年8月29日。

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著者略歴

  1. 行司 千絵

    1970年生まれ。同志社女子大学芸学部英文学科卒。京都新聞に勤めながら独学で洋裁を習得し、自身の普段着や母、友人・知人の服を縫っている。瀬戸内寂聴さんや志村ふくみさんなど、3〜91歳の80人に服を作った。個展に「母と私の服」(西宮阪急)「おうちのふく」(フォイルギャラリー)「まだ見ぬあなたに作った服」(誠光社)など、著書に『おうちのふく』(FOIL)など。『図書』2018年11月号・12月号に「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」を寄稿。

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