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行司千絵 服のはなし

「手づくり」がまとう意味〈服のはなし〉

路上の編む人

 その日はどんよりとした曇り空だった。
 取材を終えて観光客でごった返す三条河原町の商店街を歩いていると、そこだけ静かな一角があった。40〜50代だろうか。ホームレスとおぼしき男性が道ばたに座り込んで、黙々と編みものをしている。
 手元にあるのは鮮やかなピンクと黄色の毛糸。ずいぶん編んだのか、マフラー状のものが膝のあたりでとぐろを巻いていた。
 手慣れた様子で編み針をリズミカルに扱っている。いつ、誰から、どんなふうに習ったのだろう。
 声をかけようかな、と思った。新聞記事として書けるかもしれない。わたし自身が知りたい気持ちと、仕事につながるという思いが入りまじった。

 でも、できなかった。その人は優しそうな笑みを浮かべながら、編みものに夢中だったから。
 表を編んで終わったら、次は裏を編んで。そしてまた表を編んで端まできたら、裏を編んで。エアポケットのなかにいるかのように、周囲の人とは違う時間軸にいた。
 おなじ動きを繰り返すと無心になれる。そして次第に編み地から模様が見えてくるのは楽しい。わたしも編みものをするので、男性の気持ちがわかる気がした。
 声がかけられないのは、新聞記者として失格なんやろな。尻込みする自分に情けなさを覚えながら、その場を離れた。数日後、男性がおなじ場所で編みものをしていたけれど、やっぱりはなしかけられなかった。
 それ以降、その人の姿を見ていない。

祖母のカーディガン

 わたしに編みものを教えてくれたのは、母方の祖母だった。

祖母の藤本弘子
祖母の藤本弘子

 優しくておっとりし、引っ込み思案だった祖母。学校に溶け込むのが上手ではなかったわたし。
 互いに気が合い、大学生になるまではほぼ毎週末、車で15分ほどの祖母宅へ遊びに行った。一緒にこたつに入ってマラソン中継を見たり、おはぎをつくったり。夏は風の通りがよく、冬はサンルームのように陽のあたる家だったので、行けば必ず昼寝もした。
 祖母はしっかりものの次女(わたしの母)に頼りきっていた。でも、自分の時間も大切にしたいとも言って、わたしたち家族と一緒に住もうとはせず、一人暮らしを貫いた。食事の支度や掃除、洗濯など身の回りのことを終えると、ゆり椅子に座って窓辺の景色をながめ、山本周五郎の『さぶ』や『樅ノ木は残った』を読んだ。
 祖母は自分の服をよくつくった。編みものは本を見て技術を身につけたらしい。縄編み模様が入ったモスグリーン色のカーディガンや、黒い極太毛糸でこま編みしたコート。細かい作業もいとわず、丁寧に編んだ。完成すると、自分で手縫いしたベージュや茶色のウールのスカートに合わせて、ふだん着やよそ行きにした。編むことそのものが好きで、視力が落ちる90代はじめまで続けていた。
 「電話の応答がないので、家に来たら亡くなっていた。そんなふうに死にたい」

 生前願っていた通りの形で、祖母は100歳で亡くなった。数年後、家を手放すために家財道具を整理していると、手編みのカーディガンやセーターがタンスから出てきた。
 しょっちゅう着たからか、カーディガンのすそや袖口に毛玉ができていた。顔をうずめると、祖母の匂いがする。編み目ひとつひとつに祖母の時間が込められているようで、涙が出た。
 食器や火鉢といった祖母の身の回り品はちゅうちょなく処分できたのに、手編みの服は祖母そのものに思えて捨てられない。わたしにはサイズが小さいし、地味すぎる。でも、手元に置きたかった。祖母の匂いを残したくて、自宅に持ち帰ると、ジッパーつきの袋に入れて押し入れにしまった。
 あれからずいぶん経つ。袋からカーディガンを取り出しても、祖母の匂いはもうしない。そういえば、鮮明に覚えていた祖母の声もおぼろげだ。記憶をたぐり寄せようとするほど、匂いも声もあいまいになり、わたしは呆然としてしまう。

祖母がわたしに編んでくれたカーディガン。今なお現役だン
祖母がわたしに編んでくれたカーディガン。今なお現役だ

髪を切り、メイクをやめる

 祖母が亡くなる5年ほどまえ、わたしは行き詰まっていた。
 新聞社で働きだしたものの、社会部記者のような鋭い質問ができないし、記事の書き方もマスターできないでいた。見た目さえ新聞記者らしくなく、取材先からの帰り道では自分の情けなさに涙が出た。
 見かねた当時の恋人が言った。
 「まわりに合わせなくてもいいやん。いつもの自分をさらけ出してみたら。そのほうが、おもしろいよ」
 思ってもみない指摘だった。けれど、やってみようと思った。
 取材をしている途中にわからないことがあれば、知ったかぶりをせず、正直にうち明けた。時間が許すかぎり雑談をして、気さくにおしゃべりできる間柄を目指した。
 見た目も変えた。まずは、背中まであった髪を切った。ショートヘアにしたのは中学生以来で、気持ちが晴ればれした。
 フルメイクもやめた。ファンデーションやマスカラ、化粧水、美容液などを手放した。使うのは眉ずみとリップのみで、朝の支度が楽になった。

 服装も変えた。「20代丸の内OL風」といったファッションの枠に自分を押し込むことをやめ、自分で服をつくることにした。
 既製服はどうしても流行の要素が入ってしまうし、たくさん着たからもう十分。病み上がりのとき、家でつくったおじやが体にすっと入るように、手づくり服は自分をリセットするのにちょうどよかった。
 とはいえ、編みものや刺繍といった手芸は大学生からしていない。洋裁にかぎると、中学の家庭科の授業でパジャマをつくったきりだった。

裁縫道具は今どこに?

 マッチ、ナイフ、釣り道具、そして裁縫道具 ──。
 冬のツンドラを旅するには、この4つの道具があればいいそうだ。探検家で医師の関野吉晴さんが人類移動の歴史をたどるため、南米南端からアフリカまで逆にさかのぼる「グレートジャーニー」をしたとき、一緒に旅したシベリアのトナカイ遊牧民がそう語ったという。
 トナカイの毛皮をはおるだけでは、冷気が入り込んでしまうけれど、縫製することで保温が可能になる。関野さん自身、トナカイの毛皮の服を着て、手袋をはめて、帽子をかぶると、マイナス40〜50度の極寒地でも寒い思いはせず、人が針をつくりだしたことのすばらしさを何度も実感したという。(山極寿一、関野吉晴『人類は何を失いつつあるのか』東海教育研究所、2018年)。
 アウシュヴィッツ強制収容所から生還したイタリア人作家プリーモ・レーヴィも、裁縫道具の大切さをつづっている。猩紅熱にかかって収容所内の病室に移されたとき、自分の持ち物としてひそかに持ち込んだのが、針と縫い糸3本、ボタン5つ、電線を編んでつくったベルト、ナイフつきスプーン、撃鉄用の発火石18個だった。(プリーモ・レーヴィ『これが人間か』竹山博英訳、朝日選書、2017年)
 裁縫道具は、人が日々生きていくうえで大切なものだ。でも、暮らしが便利になるほど、その存在は遠くなっていく。
 ホテルのアメニティーで定番だったソーイングセットを見かけなくなってずいぶん経つ。わたしの家でも長らく、祖母から譲り受けた和裁用の裁縫箱を押し入れの奥にしまっていた。

祖母から譲り受けた裁縫道具
祖母から譲り受けた裁縫道具

 使うのはシャツのボタンが取れたり、パジャマのズボンのゴムがゆるんだりしたときだけ。針と糸を携帯していないから、出かけた先でコートの裾が外れたとき、ガムテープで応急処置したこともある。いつから針と糸が生活から消えてしまったのだろう。

針と糸は自立の道具

 『洋裁の時代』(小泉和子編著、OM出版発行、農文協発売、2004年)によると、戦後まもなく、アメリカ文化が入ってきたのにともない、洋服へのあこがれが高まった。当時はまだ、店に洋服は売っていないし、既製服も登場していなかった。

 そこで少しでも洋裁ができ、ミシンを持っている人には注文が殺到した。一方、当時は女の働き口というものもあまりなかった。専業主婦が多かったから、専門技術を持っているような女性はごくごくわずかだった。その上、洗濯、炊事、すべて手仕事だったし、子どもや家族の多い家庭が多かったので、女が家を空けることができなかった。したがって家にいてできる洋裁は願ってもない仕事であった。つまり洋裁が、仕事として、また家庭内職として、当時の女性が置かれていた状況にぴったりだったのである。夫が復員してきても仕事がなく、当時の内職で一家を養ったという人も多かった。

 独身の人。夫が出征した家族。戦地で夫が亡くなった妻。既製服が登場するまで、洋裁で生活を支えた女性は多かったという。
 祖母のことが頭によぎった。戦後の一時期、針と糸で生活を支えたのだった。
 敗戦の翌年に、祖父が疎開先の奈良で体調を崩して亡くなった。「これだけあれば一生暮らせる」とたくさんの財産を遺してくれてはいたものの、ハイパーインフレで紙切れ同然に。祖母と3人の娘は東京の自宅に戻ることがままならず、奈良にとどまった。
 祖母は当時40歳。不自由のない暮らしが一転して、働く立場にはじめて立たされた。食べるすべを、すぐに見つけなければならない。でも、内気な性格なので、家の外ではとうてい働けなかった。子どもたちは幼くて、まだ手がかかる。考えたあげく、家にいてもできる得意の和裁を仕事に選んだのだった。
 祖母は丁寧に縫った。夜なべもいとわず、縫った。仕事ぶりは口コミでひろがって、注文は途切れなかった。働いたのは、長女が働くまでの数年間だったけれど、祖母の人生でいちばん厳しい時期だった。

わたしの代わりに針と糸を持つ人は?

 わたしは長年、既製服を製品としか見ていなかった。人の手で縫われたものとさえ、思わなかった。
 変わったのは、自分で服をつくるようになってから。スカートの裾幅やコートのポケット口のデザインが気になって、通勤電車のなかで周囲の人の服の観察をはじめると、ステッチが微妙にゆがんでいたり、継ぎ目でチェック模様がずれたりしていることに気がついた。どこかの国に住む誰かがこの服を縫ったんだ。そう思うと、急に親しさを覚えて、下着やパジャマの縫い目まで見るようになった。
 でも「世界の縫製工場」と呼ばれるバングラデシュで2013年、5つの縫製工場が入った商業ビルの崩壊した事故が起きたことで、ほのぼのとした思いが消えた。犠牲になったのは、スラムに住むなどつましい生活をしていた1100人以上のお針子さんたち。縫っていたのは、わたしたちにもなじみのあるブランドの服だった。ビルは違法に増築されていて、事故の原因は発電機やミシンなどの振動で崩れたためと考えられている。
 この事故がきっかけになって、ほかの工場で働く人々も、劣悪な環境で働いていたことが明るみになった。改善の機運は高まっているものの、今もなお解決されてはいないという。
 タグに日本以外の国の名前を見るたび、この事故を思い出す。わたしたちが針と糸を持たなくなった代わりに、誰かが安い賃金で服を縫ってくれている。

趣味になった洋裁と編みもの

 学生が本を読まないと言われてずいぶんと経つ。『ワンピース』や『NARUTO』などのマンガは世界でも人気だし、若者たちが読んでいるんだろうなと思い込んでいた。でもマンガの研究者と雑談していると、思いがけないことを言われた。
 「最近のこどもはマンガも読まないんですよね。ユーチューブとか動画のほうが人気ですよ」
 総務省統計局が5年に1度調査する「平成28年社会生活基本調査」の結果を開いてみた。確かに、趣味のかたちは、パソコンやスマートフォンの登場で変化している。そして、縫いものや編みものは、限られた人が楽しむものになっていた。
 1億1330万人(10歳以上推定人口)が過去1年の間にした34項目の趣味と娯楽のなかで、いちばん多かったのが、映画館以外での映画鑑賞で52・1%。その後は、CD・スマートフォンなどによる音楽鑑賞、映画館での映画鑑賞などが続き、編み物と手芸は17番目、和裁と洋裁は20番目だった。 
 ソーイング本や編みもの本も、実用生から趣味性の強いものに変わった時期があった。 1980年代後半から1990年代にかけて出された編みもの本、セーターブックもそんなひとつだ。モデルを務めたのは、駆け出しだったイケメン俳優たち。編み方が載っているものの、手軽な値段で買える写真集の位置づけだった。
 ここ数年、セーターブックはネットや雑誌で話題になって、再注目されている。2019年には大阪市立住之江図書館で「昭和から平成 なつかしのセーターブック」展が開かれた。気になって訪ねてみると、大阪市内の市立図書館から蔵出しされた24冊が展示されていた。風間トオルや唐沢寿明、高嶋政伸の表紙を見て、バブル経済のころにはやっていたドラマや主題歌を思いだした。 

洋裁は料理とおなじ

 わたしにとって洋裁は、思いのほか楽しい趣味になった。手芸店で好みの布を見つけると、通勤電車のなかでどんな形の服にするかを考えた。木曜日にはイメージが完成し、金曜日に段取りをシミュレーションして、土曜日と日曜日で裁断してミシンを踏んだ。気分が乗ると、1日に2着つくることもあった。

 洋裁は料理することと似ていた。
 スーパーで新鮮な大根を見つけたとき、「今晩は風呂吹き大根にしよう」と思うように、きれいな布に出合うと、「これで長袖のワンピースをつくろう」と考えた。
 場数を重ねるにつれて調理スキルが上がるように、服を縫うたび、いろんな技術を身につけた。玉縁ポケットのつくり方、オープンファスナーのつけ方、折伏せ縫いでする縫い代の始末の方法。ソーイング本を見ながら、ひとつひとつ挑戦した。
 家で料理をつくるとき、レシピ本にナンプラーが書いてあっても、手元になければしょうゆで代用するし、自分が食べたい野菜や肉を入れてアレンジする。
 自分の服をつくるときも、わたしが着たければどんな材料でもいいはずだ。そう思ってつくると、周囲から思わぬ感想が寄せられた。
 手芸店でレースのはぎれを見つけて、ブラウスを縫った。

カーテンのブラウス
カーテンのブラウス

 仕事場に着ていくと、おじさまは言った。
 「その服、カーテンか?」
 香川県丸亀市にある丸亀市猪熊弦一郎現代美術館に行ったとき、ミュージアムショップで動物模様の入った青い風呂敷を見つけた。裁断を工夫すれば1枚でタイトスカートがつくることができる。旅の思い出にもなるので、うれしくなった。すぐに仕立てて身につけると、別のおじさまが言った。

猪熊弦一郎美術館で買った風呂敷で作ったスカート
風呂敷でつくったスカート

 「けったいな服やな」
 言われるたびに傷ついた。でも、着続けた。正反対の感想ももらったからだ。
 「かわいい」
 「それ、どこの服?」
 ほめられると、わたしはうれしくなって、自分でつくったと明かしてしまう。すると、「えっ、服ってつくれるの?」と多くの人が驚くのだった。
 なにが似合うかわからない。行司さんが似合うと思う服をつくってほしい──。
 そんな声もいただいた。週末になると、わたしと母の服を縫いながら、友人や知人の服を縫った。気がつけばこの15年間で3歳から91歳までの80人、計280着をつくっていた。

暮らし系雑誌の登場

 2000年代に入って、『クウネル』(マガジンハウス)や『天然生活』(扶桑社)などの雑誌が相次いで創刊された。郷土菓子や保存食を食卓に並べ、山や海に囲まれて地方で暮らす ──。野暮ったく、時代遅れと思われがちだったものこそ、滋味豊かなライフスタイルなのだと提案する雑誌は人気となり、いまでは「暮らし系」というジャンルで呼ばれてもいる。
 おなじころ、これまでとはひと味違う手芸を提案する人たちが登場した。
 虫食いやほつれた部分を美しい刺繍などで繕う横尾香央留さん。編み込み模様の手袋やセーターなど提案する三國万里子さん。草花模様などをモチーフにした刺繍作家の樋口愉美子さん。手づくりならではの風合いはあるのに、デザインはスタイリッシュ。つくり方の本や材料キットが販売され、人気を呼んだ。
 その波は、思いがけずわたしのもとにもやってきた。2013年に『クウネル』で服づくりが取り上げられた(2013年5月号、vol.61)。タイトルは「行司さんが作る服」。わたしがつくった服を母や僧侶、小説家が着て、長島有里枝さんが撮影した。
 洋裁は週末の個人的な楽しみだったので、わたしは戸惑いと照れでぐちゃぐちゃになった。海外のユニクロが446店舗に達するなど、ファストファッションが急速にグローバル化したころで、針と糸で1着ずつ手づくりすること自体が珍しく映るようだった。
 手芸はかつて、母さんが夜なべをして手袋を編んだり、着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んだりするなど、情のこもった、ちょっぴりものがなしいものだった。でもいつしか、あかるく、軽やかさをまとうものになっていた。

展示するのは、ふだん着

 「行司さん、服つくっているんですよね。服を展示してみませんか」
 思いがけない提案をしてくれたのは、京都でガケ書房を営む店主の山下賢二さん。(現在はホホホ座浄土寺店の店主)。『クウネル』に載る4カ月前のことだった。
 その場で断ったものの、人生で1度ぐらい個展をしてみてもと思い直した。
 とはいえ、不安だった。展示するのは新品の服ではなく、何度も洗濯機にかけているわたしや母のふだん着だから。
 展覧会として成り立つのだろうか。見に来る人はいるのだろうか。
 心配は尽きないけれど、最初で最後なんだし、と自分に言い聞かせた。
 でも、一度で終わらなかった。そして、回を重ねるごとに大ごとになった。
 2014年には兵庫県西宮市の西宮阪急で「母と私の服」展を開いた。はじまる前に百貨店のバイヤーやマネキン会社の人たちと打ち合わせの会議があって、展示や構成は百貨店が担い、ふだん着と裁縫箱などの道具類は保険がかけられると決まった。
 わたし(身長166センチ)と母(140センチ)のふだん着を着るのは、ナイスボディーのマネキンたち。マネキンの前にロープが張られ、ふだん使っている裁縫箱などの道具は、ガラスケースにいれて展示された。
 その2カ月後には、現代アートを扱う京都のフォイル・ギャラリー(現在は閉廊)で「おうちのふく」展を開いた。空間演出を担当したクリエイティブディレクターの考えで、それまでにつくった服をできるかぎり集めることに。3歳の少女につくったオーバーや、小説家に縫ったパンツ、ギャラリストに頼まれたスカートなど、わたしや母の服も含めた45点を飾った。

知人や友人、母の服などを展示した『おうちのふく』の会場(2014年、京都)
知人や友人、母の服などを展示した『おうちのふく』の会場(2014年、京都)

 声をかけていただくのにお応えしているうちに、開いた個展は12回になった。多くの人が来てくださってうれしかったし、ありがたかった。
 そして、さみしい気持ちにもなった。展示をするたびに、いつも着ている服がわたし自身や母から離れていくような気がしたから。
 オーバーやスカートを手にとって、布の感触を確かめたり、体にあててみたりする人が相次いだので、ハラハラもした。友人や知人の服が汚れてしまったら……と気をもみながら、ある食品博覧会を思い出した。見本として食べものが陳列されているだけで、味がわからず、もどかしくなったのだ。
 服の展示もおなじかもしれない。服は鑑賞するのでなく、触れたりまとったりするものなのだ。

大原千鶴さんとの出会い

 来場者の年齢層は男女とも幅広く、会場にいると、よく話しかけられた。感想にはいくつかの共通項があった。
 ひとつが「とても楽しかった」「見ていてあたたかい気持ちになりました」ということ。
 楽しい? あたたかい気持ち?
 どのように受け取っていいのか、長年わからなかった。
 独学だし、基本を無視してつくっているからだろうか。
 材料が足りなくなると、布巾やラッピング用リボンをつけ足すなど、自分勝手につくっているからだろうか。
 仲良し親子のイメージを服に重ねれていたらいやだな。
 斜に構え、悪いふうに考えていた。でも、料理研究家の大原千鶴さんをインタビューしたとき、目の前が開けた気がした。
 「料理は気持ちなんです。どんな気持ちでつくったか、ありありとわかる。ほんとかな?って思うでしょ。本当です。楽しんでつくった料理は楽しそうな味がします」
 疑いを見透かされたことに動揺しつつ、たしかにわたしも楽しい気持ちで服をつくっているに違いなかった。
 すてきな布を見つけたらテンションは上がるし、袖や前身ごろ、襟などに裁断したたくさんのパーツが縫うごとに1着の服へと納まっていくのは気持ちがいい。母や友人、知人の服をつくるとき、思いがけずユニークな形になって吹き出すこともある。そもそも、休日にしていることなので、辛くしんどいことはしたくない。わたし自身が楽しいから縫っている。
 そんな気持ちが服にまざり、見た人が楽しさを受け取ってくれているのかもしれない。そう伝えると、大原さんはとびきりの笑顔で言った。
 「おっしゃる通り。気持ちは伝染します。その源になる幸せをいつも思いながら、わたしは料理をしています」

苦笑いした理由は

 心に引っかかっている感想がもうひとつあった。それは一緒に見に来てくれた母娘からの声だった。
 60代以上のお母さん。
 「幼いころ、母がよく服を作ってくれていたことを思い出しました。行司さんのお母さんは幸せやね。わたしも行司さんのお母さんになりたいわ」
 30〜40代の娘さん。
 「すごいですねぇ。でも、わたしは洋裁できないです……」
 娘さんの多くは苦笑していた。なぜだろう。武庫川女子大学准教授の井上雅人さんと話したときに、その謎が解けた。東京大学大学院に加え、文化服装学院で服の仕組みも学んだ人だ
 「子どものお弁当を例に考えるとわかりますよ。『お母さんは子どものためにキャラ弁をつくる』という考えが根強くあるために、キャラ弁づくりが苦手なお母さんは悩んでしまう。でも、お弁当は誰がつくってもいいんです。洋裁だって、女性がすべきものと思い込んでいませんか?」
 井上さんは、夜にパンが食べたくなると自分で生地をこねて焼くし、ランチョンマットが必要になったらミシンを踏む。
 「料理をすることも、繕い縫うことも、暮らしを形成するうえでの生活技術。そこに性差はありません」
 そういえば、男性の親子から「僕、洋裁できないんですよね」とは言われなかった。娘さんが苦笑いしていたのは、おそらく「女であるのに洋裁ができない」という静かな圧力を感じていたからだった。

服は畑からできている

 編みものや繕いものをする男性を「手芸男子」と名づけて特集記事を書いたことがある。でも、あらためて考えると、その人自身のアイデアやセンスがすばらしいのであって、性別は関係ないことだ。
 その思いを強くさせるのが、職場の先輩記者、岩本敏朗さん。自分で服を縫う人。それも原料からつくる。
 畑に綿を植え、綿花を収穫。手で紡いだ糸を草木で染め、機で布を織る。そして、ミシンを踏んで自分のシャツを完成させた。
 「服って畑からできるんだよ。すごいと思わない? それを体感したかった」
 屈託なく笑う岩本さんも、手芸は独学だ。子どもたちの服をつくり、手芸店で布を買って自分のためのシャツを縫う。ときには着古したズボンのファスナー部分を生かしてペンケースにリメークしたり、トレンチコートをバッグに仕立て直したり。いかにも楽しそうで、つくるのっていいな、としみじみ思う。
 「ダルマの糸」で知られる老舗糸メーカー横田の社長、横田宗樹さんも、おなじように思わせる人だ。
 9代目で現在38歳。息子の上履きや靴下に刺繍をするほか、編みものもする。青色と黄色のステッチ模様の上履きも、自分のために編んだという紺色のセーターもすてきだなと思う。
 横田さんによると、2つの取り組みは意味が異なるそうだ。 「息子の靴に刺しゅうをしたのは、ひと手間かけることで思いが伝わるというコンセプトを打ち出したかったのです」
 家業に入ったのは26歳のとき。手芸の世界を見わたすと、ステッチの技法や糸の種類などにとらわれがちだった。でも、色を加えるだけでかわいくなることを大事にしたい、と横田さんは思った。
 言われてみれば、わたしも母に服をつくるとき、ポケットをつけたり、刺繍をしたりする。それだけで趣が違ってくるし、つくる側も着ている人も楽しくなるからだ。ものをつくるうえで、なにより大切なことだった。
 横田さんが編んだセーターは、会社のインスタグラムでも紹介されてて、シンプルなデザインがよく似合っている。「実ははじめて編みものに挑戦したんですよね」と明かされて、驚いていると、その理由を教えてくれた。
 「僕の一番の仕事は、お客さまの気持ちを考えることなのです。編むことって、とても時間がかかるんですよね。一度は経験をしておかないといけない。そう思っていました」
 毛糸業界では編まない人が糸を考え、編まない人が営業に行くなどしていたそうだ。横田さんが会社に入ったころ、自社で提案する編みもの作品は昔ながらのデザインで、自分で編んだ服を着てくる社員もいなかった。
 それに気づいた横田さんは、「すてきだな」「編んでみたいな」と自身も思えるオリジナルの毛糸や編みもの本の開発に力を注いできた。手ざわりが良い毛糸をつくり、編みもの本では丁寧に説明し、日常で着られる見本を提案する ──。そんな思いはじわじわと広がって、ファンが増えている。
 「時間をかけて編んだのに、着られないのは悲しいですよね。自分が好きと思ったものをつくり、自己表現として着る。その人生観がおしゃれだと僕は思います」 横田さんの言葉はうれしい。
 でも、暮らしから縫うことや編むことが遠ざかっている。どうすればもっと身近になるのだろう。

「手づくりだから」の意味

 いま、多くの人の共感を集める手段はSNSだ。でも、「いいね!」を多く集めやすいのは、手芸より流行の食べものだったりする。そう考えていると、横田さんが言った。
 「今は『手づくりなのに、手づくりっぽくない』『手づくりなのに着られる』と下からのスタートです。既製服より手づくりのほうがおしゃれだという考えが当たり前にならないと、ダメなような気がします」

 ハッとした。わたしも手づくりが既製服よりも下だと思い込み、服を縫うときは、できるだけ既製服に見えるように心がけていた。
 京都で古書店カライモブックスを営む奥田順平さんを思い出した。家族におしゃれなニット帽を編み、服にパッチワークをする人だ。
 手芸をはじめたのは高校生のとき。恋人に誕生日やクリスマスのプレゼントを贈りたいけれど、お金がなかった。そこで奥田さんがマフラーを編み、ケーキを焼くと、買ったものより喜んでくれたという。それからは大事なプレゼントはできるだけ手づくりにしている。
 奥田さんは型紙や製図を取らず、編み進めながら、形や配色を考える。遠目から見たら金髪に見えるニット帽など、デザインはユニークだし、唯一無二の存在がかっこいい。自作のニット帽がとても似合う奥田さんを見て、お手本通りでなくていい、即興で演奏するジャズのように、自分の気持ちのままにつくっていいんだと、思った。
 アメリカの画家ジョージア・オキーフも、手づくりの服は既製服よりおしゃれと教えてくれた。
 2017年にオキーフのプライベートファッションをテーマにした展覧会がブルックリン美術館で開かれたとき、「見に行けないのなら、せめて内容を知りたい」と思って図録を取り寄せた。ページを繰るたびに、そのすてきさに感心していると、オキーフ自ら手縫いしたと書いてあって驚いた。
 透ける白いリネン生地でつくられたブラウスは、全体に繊細なタックが寄せられていて、襟もとには共布の花飾りがつけられていた。
 ドレスとボレロのツーピースは生成りのシルク製。襟もとをボウタイで飾り、スカートには、たっぷりとギャザーが寄せてあった。
 図録には、経済的に厳しい時代に服をつくったと書いてある。けれど、オキーフ自らが縫ったからこそ、既製服にはない魅力を放ち、絵画作品と通じる独自の美しさを持っていた。なによりオキーフらしい服だった。

コーヒーのように

 ロンドンやニューヨークに住む友人たちが世界5都市の洋裁店や編みもの店を紹介した『世界の手芸店』(キタコソル、筑摩書房、2015年)がある。ニューヨーク編を担当した、フリーライターで翻訳家の金克美さんが帰国したとき、一緒にお茶をしていると、こんなことを言っていた。
 「ダウンタウン・ヤーンズというお店に、髪の毛を二つのお団子にしたラテイさんという女の子がいるの。いつも自分の編んだ服や帽子を身につけててね、それはかっこいいの。行くたびに刺激を受ける。ニューヨークに来たらぜひ行ってみて」
 わたしもバンクーバーやアムステルダム、バルセロナの編みもの店を訪ねたとき、おなじような体験をした。20〜30代のスタッフは自分で編んだセーターやカーディガンを着ていて、既製服にはないデザインに「すてき! どうやって編むの?」と聞いた。
 手づくりは特別なことではなく、暮らしを豊かにする身近な手段だ。そして、手を動かすことは自分をなぐさめてくれるものでもある。ミシンを踏み、編み棒を動かすと、いつしか日々の面倒なことを忘れて、すがすがしい気持ちになっている。そういえば、カライモブックスの奥田さんも「僕にとって編むことは、本を読むのとおなじぐらい深い時間なんですよね」と言っていた。
 ふと、コーヒーが頭によぎった。 おしゃれなカフェや高い技術を持つバリスタが登場したことで、コーヒーを楽しむ人が増えている。おいしいコーヒーを飲むことによって、自分でも点ててみようと思ったり、産地や農園で働く人たちへの関心を持ったりと、ひとりひとりの視点も広がっている。
 人気を支えているのは、おいしいコーヒーのある暮らしを提案する人が全国各地にいるからだ。手芸もすてきな店があちこちにできて、楽しさを伝える人やつくり手が増えれば、糸と針が再び暮らしに戻ってくるかもしれない。縫う。繕う。編む。だれもが自然とできる技になれば、いつもの毎日にあらたな楽しみがきっと増える。


【参考文献】

「くらし塾 体験・体感『手芸男子』に導かれ…縫って編んで、世界で一つ」(行司千絵)
『京都新聞』2016年10月26日。

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著者略歴

  1. 行司 千絵

    1970年生まれ。同志社女子大学芸学部英文学科卒。京都新聞に勤めながら独学で洋裁を習得し、自身の普段着や母、友人・知人の服を縫っている。瀬戸内寂聴さんや志村ふくみさんなど、3〜91歳の80人に服を作った。個展に「母と私の服」(西宮阪急)「おうちのふく」(フォイルギャラリー)「まだ見ぬあなたに作った服」(誠光社)など、著書に『おうちのふく』(FOIL)など。『図書』2018年11月号・12月号に「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」を寄稿。

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