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アカデミアを離れてみたら

子どものころからの夢、教師への転職〈アカデミアを離れてみたら〉

増田(渡邉)皓子(山陽学園中学校・高等学校)

 私は京都大学で理学博士号を取得し、そのまま同大学で2年間、ポスドク(※1)として過ごしました。その後、同大学の学術研究支援員(リサーチ・アドミニストレーター)を経て、現在は岡山県の私立校、山陽学園中学校・高等学校にて非常勤講師として働いています。研究、結婚、子育て、キャリアなど、これまでの経緯をお話ししたいと思います。

太陽研究との出会い

 小学生のころから大学に入るまで、私の夢は、教師になることでした。大学進学にあたり、周囲には医学部へ行くようにと勧められましたが、あえて理学部を選んだのは、教師になりたかったからでもありました。
 進学した京都大学では、宇宙物理学を専攻。きっかけは高校生のころ、小柴昌俊さんが、ニュートリノの観測でノーベル賞を受賞されたことでした。テレビで放送される特集をみて、「宇宙って面白そう」と思うようになったのです。
 入口はニュートリノでしたが、大学の授業で太陽について学ぶと、地球から最短距離にある恒星の太陽ですら、謎だらけであることがわかりました。宇宙を研究するなら、まずは太陽から、と確信をもち、大学院に進学。教師への夢は、いつの間にか影を潜めてしまいました。
 ちょうど大学院に進学したころ、日本の太陽観測衛星「ひので」が打ち上げられ、宇宙で撮影した太陽表面の精細な画像が利用できるようになりました。私は夢中になってその画像を解析しました。
 幸いすぐに研究成果があがり、博士課程1年生のときには京都大学優秀女性研究者賞 (学生部門)を受賞するなど、かなり順調に、研究者としてのキャリアを積んでいきました。

ポスドクをしていた2014年、研究室で撮影。モニターに写っているのは太陽観測衛星「ひので」が撮影した黒点の写真。黒点の内部にある輝点について研究していました。
ポスドクをしていた2014年、研究室で撮影。モニターに映っているのは太陽観測衛星「ひので」が撮影した黒点の写真。黒点の内部にある輝点について研究していました。

結婚、出産、就職、転職。激動の20代後半

 博士課程在学中に、結婚、妊娠、出産を経験しました。夫は当時同じ大学で、同じ理学研究科の博士課程の学生でした。産後3ヶ月のときに博士論文公聴会で発表、無事に審査を通過。産後5ヶ月から子どもを保育園に預け、ポスドクとして働き始めました。休学もしていませんし、育休もなしです(そもそも制度的に取れませんが)。研究者にとってブランクは致命的と考えていたからです。なんとかブランクなしで過ごし切ることができ、当時は「自分スゴい!」とすら考えていました。
 しかし、実家から離れて住んでおり、夫も出張が多い、そして完璧主義の私には、1人で子育てと研究を両立させることは、とても困難でした。さらに2年後、夫が岡山の大学に移ると、平日は完全に私1人で、働きながら育児をすることになってしまいました。
 研究者として活躍するには、少しでも空いた時間があれば最新の論文を読みたい。なのに、自由な時間が全然ない。さらに、当時の職は任期が3年。3年後に、次の職がうまく見つかるかどうかもわからない。
 この状況のもと、私は次第にノイローゼ状態に陥っていきました。「研究を続けるなら、今後もこういう生活が続く」──不安定な将来を悲観することが増え、転職を考え始めました。
 そのころ、在籍していた京都大学で、リサーチ・アドミニストレーターという比較的新しい職種の大規模求人がありました。研究を資金面・運営面などで支える専門職です。研究者としてのキャリアも活かせ、研究環境改善のために働けるというところに魅力を感じ、転職することにしました。太陽物理学の研究室がある大学は日本に数少なく、就職先は限られますが、リサーチ・アドミニストレーターならば多くの大学にあるので、夫の勤務先に近い大学に職を得て、家族が同居できる可能性が高まるのでは、と考えたこともあります。8:30から17:15までと勤務時間が決められていることも、私としてはとても嬉しいことでした。研究者時代は、他のみんなは夜遅くまで仕事しているにもかかわらず、自分は先に帰って家事・育児をすることに、罪悪感というか焦燥感というか、常にストレスを感じていたからです。

「思考の癖」からの解放

 さて、前述のように、そもそも大学に入るまで、私はずっと教師になりたいと思っていたはずでした。それが、大学で研究を始めると、“研究者社会” にどっぷりはまっていきます。するすると大学院まで進み、そのうち、「自分は教師になんかなれるはずがない」と思い込み始めたのです。
 年齢も高いしプライドも高く、頭はいいけど融通はきかず、一般社会ではやっていけない──自分たちはそういう種類の人間だと思うようになり、また、“一般の人” からもそう思われている、と信じるようにもなりました。アカデミアから離れたら、自分の価値はなくなる、と。また、「研究者として生き残っていくことが勝ち組、それ以外は負け組」という思想もありました。アカデミアに残ることにしがみつき、そこからこぼれ落ちることに恐怖を感じていたのです。
 私の場合、まず家族ができたこと、そして研究者からリサーチ・アドミニストレーターに転職したことが転機になりました。少しアカデミアから距離を置くことができたことで、この思考の癖から解放されたのです。そして本来の夢、教師を目指してみようと、頭を切り替えることができました。幸い、教員免許は学生時代にとってありました。
 そして、いざリサーチ・アドミニストレーターを辞め、教師を目指してみると、「なかなか採用されないかも」という不安を感じる時間もないくらい、すぐに就職先が見つかりました。教師の世界は慢性的な人手不足。夫のいる岡山県の私学協会に講師登録をした日から1週間、毎日電話がかかってくるくらい、引く手数多でした。

教師として働いてみて、いま感じること

 現在は、岡山県の山陽学園中学校・高等学校という私立の学校で、数学と理科を教えています。学生時代に頑張って取得した教員免許を、ようやく活かすことができました!資格をとっておいて本当によかったと思います。

ポスドクをしていた2014年、研究室で撮影。モニターに写っているのは太陽観測衛星「ひので」が撮影した黒点の写真。黒点の内部にある輝点について研究していました。
2020年撮影。高校での数学の授業風景です。

 ちなみに、私が所持している理科の教員免許は専修免許(大学院修士課程まで修了しないと取れない教員免許の上級資格)ですが、だからといって特別なことは何もありません(一部の私立校では給与の優遇があるそうです)。博士号をもっていることが授業にどう活かされているのか、といえば、「ひので」衛星の太陽の観測動画を自己紹介時に生徒に見せたり、パワーポイントを使って、教師になるまでの経緯や教科書にない物理の研究のお話ができたり、といったところでしょうか。あとは、微分・積分などの難しい単元を教えるときに、「こんな勉強しても絶対将来使わないでしょ⁉」という生徒の訴えに対して、「いやいや、少なくとも私は使っていたよ!」と自信を持って言うこともできます。パソコン、タブレット端末、教育アプリの活用など、情報機器関係に強いこともメリットかと思います。
 非常勤講師ですので、授業の時間以外は自分の好きなように過ごしています。最近は元指導教官と一緒に、天文学の専門書の翻訳などもしています。子どもと一緒にいる時間もたくさんあるので、子どもがやりたい習い事に通わせてあげることができます(以前はその時間がありませんでした)。生活する上での時間と心の余裕は、研究者時代の10倍くらいに増えた感じです。子どもも1人増え、4人家族になりました。

*  *  *

 高校で勉強を教えていると、たまに疑問に感じることがあります。
 高校教育の1つの目標として、「いい大学に入る」ということがあります。いい大学に入り、そこでいい成績をとって大学院に進む。大学院で勉強・研究をがんばって、さらに上の研究者を目指す。
 しかし、現在の日本のアカデミアでは、このように “望ましい” コースを歩んでいくと、その先には雇用が不安定で、賃金や保障も高水準とは言えない、茨の道が待っています。
 もちろん、研究者を目指すのが悪いわけではありません。好きな研究に没頭できる、とても魅力的な職業です。ただ、今の研究者雇用制度はとても不安定であると言わざるを得ません。さらに前述したように、研究者コースに一度入ると、「ここでしか生きられない」と思考が固まってしまい、その殻を破るのは容易ではなくなります(全員ではないですが、少なくとも私の周りの理学系ではそういう傾向があったと感じます)。
 日本の教育システム・社会システムは、これでいいのだろうか?──これは、私自身にとっての宿題でもあると思います。

※1 博士号を取ったあとに就く、任期付き研究員のこと。ポスト・ドクターの略。


【ますだ(わたなべ)・ひろこ】

1984年生まれ。京都大学大学院で博士(理学)の学位を取得後、京都大学宇宙ユニット(日本学術振興会特別研究員PD)、京都大学学術研究支援室(リサーチ・アドミニストレーター)を経て、2017年より岡山県の私立山陽学園中学校・高等学校で非常勤講師(数学・理科)。専門は太陽物理学(太陽黒点の観測)。2010年に京都大学優秀女性研究者賞(学生部門)、2012年に京都大学理学研究科竹腰賞を受賞。2児(8歳と4歳)の母。夫は素粒子の研究者。

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