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行司千絵 服のはなし

道楽と作家のはざま〈服のはなし〉

バイヤーがやってきた

 2人が会場に入ってきた瞬間から、目が惹きつけられてしまった。その男女の装いは、ほかのお客さんの着こなしとまったく違っていた。
 京都のギャラリーnowakiで個展を開いたときのこと。女性はボブヘアに真っ赤な口紅、マニッシュな白いパンツが際立っていた。男性はいかにも高級そうなスーツをスタイリッシュに着こなしている。ともに30代半ばのようだ。
 会期中のイベントとして、作家のいしいしんじさんと対談する日だった。男女は最前列に座っている。なにものだろう。とびきりおしゃれな人たちだな、と思いながら、知人や友人の服をつくることになったいきさつを1時間ほどしゃべった。
 2人はその後、展示していた母とわたしの服を1着ずつ丁寧に見はじめ、「布の使い方がおもしろいね」と言っている。しばらくしてから、声をかけられた。
 「ディレクターが『クウネル』で行司さんの服の記事を読み、興味を持っています。『この服いけるよ』と。わたしたちの店で売りませんか」
 差し出された名刺にあったのは、大手アパレル企業の名前。店とは、アパレルが東京で開いているセレクトショップのことで、2人はバイヤーだった。
 予想もしなかった提案に、わたしはたじろいだ。
 「ありがとうございます。でも、洋裁は趣味で、技術は独学です。それに服をつくるとき、リクエストをくれた人に似合う服をイメージしながら、色や形を決めて縫っています。着る人がわからないまま、服をつくったことはありません」

書店主、山下賢二さんにつくったダッフルコート。いつも着ているズボンや靴を考えながら、デザインした
書店主、山下賢二さんにつくったダッフルコート。いつも着ているズボンや靴を考えながら、デザインした

 2人はしばらく考え込んだあと、「もういちど会社で話し合いたい」と言った。そして、「わたしたちのこと、どうか忘れないでくださいね」と笑顔で帰って行った。
 数日後、女性からメールが届いた。
 話はなかったことにしてください──。
 知人や友人にこの出来事をはなすと、意見はさまざまだった。
 「アホやなぁ。バイヤーが言う通りにつくったらいいのに」
 「働く女性は40代に入ると自分の道を模索しだしているよ。チャンスなんて滅多に訪れないし、行司さんにとってそれが今。すぐに会社を辞めて、服づくりに専念すべきだと思う」
 「行司さんは単なる駒のひとつですよ。今回はたまたま声がかかっただけだと思います」
 家でつくるふだんのおかずが売りものになるとは思わないように、自分でつくる服はふだん着にすぎなかった。友人や知人に服を縫い、ギャラリーで自作のワンピースやスカートを展示しても、手芸は幼いころからの個人的な趣味という思いに変わりはない。だから、バイヤーがやってきたことも、まわりの人たちの意見にも、戸惑うばかりだった。

日曜日の楽しみは人形の服づくり

 リビングからミシンの音が聞こえてくる。かたかた、かたかたかた、かたかた。ああ、ママがなにかを縫っているんだ。別の部屋でひとり遊びをしていた4歳のわたしはうれしくなって、母のもとへと駆け寄った。
 ミシンを踏んでいる母は楽しそうで、ほのぼのと温かな空気が漂っている。わたしはそばに座って、床に落ちていたはぎれで縫いもののまねごとをした。完成して見せると、ほめてくれる。それがうれしくて、またつくる。無邪気に甘えたわたしを、母は丸ごと受けいれてくれた。
 母は東京・神田神保町に生まれた。戦争さえなければ東京で大好きだった勉強を思う存分に究め、社会で活躍したかもしれない。けれど人生の扉は、8歳で疎開した奈良にとどまり、大学を出てしばらく働いた後は専業主婦として生きるという方向に開いてしまった。
 「専業主婦は嫌いではないし、家族が快適な生活を送れるように最大限の努力はしてきたよ。でも家事は際限なく続くし、家族の時間に自分の時間を合わせなくてはいけない。自分自身を充実させる時間がほしいと切実に思ってきた」

 阿(おもね)るは最も嫌ひ、ほとばしる真清水ふかく指(おゆび)をひたす
ほんたうのわたしでゐたい、朝焼けの海に展ける窓あけ放つ
水平線はるか波音ききをればありのままなるわたしとなりぬ

 わずかな時間を見つけて、母は短歌をはじめた。野の花をあるがままに生け、日本刺繍やお菓子、パンづくりを習った。
 わたしが小学校にはいったころ、日曜日の楽しみといえば、人形の服を縫ったり、かばんをつくったり、母と一緒にレモンパイやラード入りの中華風クッキーを焼いたりすることだった。母の本棚には『海からの贈物』や『放浪記』とともに、森山多喜子さんの刺繍本や米山京子さんの抱き人形の本があって、わたしはそれを開くのが好きだった。
 あのころを思い出すたび、やわらかで優しい時間がよみがえる。幼いときだからこそ、受け取れた時間。大きくなるにつれて、自分から手放すようにして消えていったあの時間。
 わたしも結婚したら、母のようになりたい。自分のこどもと一緒に服を縫ったり、お菓子をつくったりして、あの時間をもう一度過ごしたい。いつしかそう思うようになっていた。
 でもわたしの人生の扉も、望んでいた専業主婦や母になるという方向に開かなかった。

90年前の舶来雑誌が届く

 週末に家で母の服を縫っていると、仕事を通じて友だちになった田村武さんから電話があった。
 「祖母の手芸本がたくさん遺っているので、もらってくれない? 手芸が好きな人に役立ててもらえると、うれしいから」
 温厚でもの静かな田村さんはそれ以上を語らない。きっと昭和のソーイング雑誌だろう。そう思い込んでいたら、自宅に届いた段ボール箱を開けて驚いた。箱いっぱいに入っていたのは、100点は越える手芸雑誌や手芸本。大半が1920~1930年代にヨーロッパやアメリカで出版された洋書だった。

手芸雑誌『技藝』やフランスの手芸新聞『MON OUVRAGE』なと
手芸雑誌『技藝』やフランスの手芸新聞『Mon Ouvrage』など

 フランスの手芸新聞『Mon Ouvrage』 は80~90年もの時間が経っているので、紙は傷み、触るとぽろぽろと破れていく。慎重に開いてみると、モダンな花模様のショールのつくりかたやスキー場で着るセーターの編み図などが載っていて、わたしは夢中で見入った。ほかにイギリスで出版されたキッズ向けの編みもの本や、こどもから大人までのふだん着やパーティードレスを紹介したアメリカのスタイルブックなどもある。これだけのものを集めるなんて、いったいどんな人だったのだろう。
 田村さんに聞くと、集めたのは母方の祖母、鈴木ひささん(1900~1989年)だという。青森県出身で幼いころから手先が器用。京都の西山高等女学校や平安女学院でミシンや裁縫を教え、開業医の鈴木俊さんとの結婚を機に家庭へ入った。俊さんは美術や音楽に造詣が深く、役場よりも早く電話を引いたり、昭和のはじめに車と買ったりするなどの数寄者でもあったという。旧鈴木医院は現在、国の登録有形文化財の田村家住宅離れとして知られている。
 ひささんは子育てをしながら、フランス刺繍や刺し子、編みものなどの針仕事を楽しんだ。京都の丸善や大丸に足を運び、新しいデザインや技術が載ったパリやニューヨークの手芸本や手芸雑誌を次々と買い求め、娘たちにワンピースを縫い、セーターを編んだ。譲り受けたドイツ語の編みもの本には、鉛筆で日本語訳したひささんの字が残っていて、探究心の強い人柄をしのばせる。
 手芸だけではなく料理も上手で、フランス料理をつくり、ケーキ、クッキーを焼いて、子どもたちや鈴木医院に集った吉井勇や上村松園らに腕をふるった。
 つくること自体が好きで、その情熱は晩年まで衰えることがなかった。手芸道具が入った竹かごをそばに置き、寝たきりになるまで掘りごたつで縫いものや編みものを続けた。

専業主婦と手芸の関係

 わたしの母は、ひささんほど技術を極めていないけれど、主婦のありようとしては、おなじ系譜が流れているように思う。その源流は、いつの時代にあるのだろう。
 雑誌『主婦の友』の創刊100周年を記念して出版された『ニッポンの主婦 100年の食卓』(主婦の友社編著、主婦の友社、2017年)を手にとると、「主婦」という存在が生まれたのはこの雑誌からだそうだ。
 大正といえば、サラリーマンという言葉が使われた時代で、サラリーマンと結婚した女性には、家で家族を支えるという専業主婦の役割が与えられた。これまで親が娘に教えていた家事を、雑誌が代わって伝える。そんな代表的存在が1917年に創刊した『主婦之友』(後に『主婦の友』)だった。

 硬軟の記事をとりまぜて「主婦とは、夫を支え、家計を切り盛りし、子どもを賢く育て、洋服や食事を丁寧に手作りする存在」だと訴えた『主婦之友』。雑誌の人気に並走するように、「主婦」という言葉は社会に定着していったのです。

 (『ニッポンの主婦 100周年の食卓』)

 日常のおかずだけでなく、カレーやアイスクリームなどしゃれた食べものをつくる。掃除や洗濯をして、夫の靴下を繕い、手紙を書き、お花を生け、夕食をつくり、家計簿をつける──。家を守り、子どもを育てるいわば「プロの主婦」のようなあり方を提案する主婦向けの雑誌は、昭和の半ばまですごい勢いで売れたという。
 「良妻賢母」のアイテムのひとつが手芸だった。『近代日本の「手芸」とジェンダー』(山崎明子、世織書房、2005年)を読むと、ひささんや母が親しんだ手芸には、長い間にわたってある意味が込められていたと知った。

 明治期の日本においては、あらゆる「手芸」は、「無償の愛」によって家庭を維持し、家族を癒し、そして自らをも癒す行為として推奨されてきた。家庭内において制作されたモノは、家庭内において消費され、市場価値を持たないもたないものとされた。

 縫いものや刺繍、編みものは、戦後の一時期、わたしの祖母のように生きるための仕事になったものの、妻や母になった女性たちが家のなかで楽しむもので、社会から評価される対象ではなかったのだ。個展会場にバイヤーがあらわれたことに違和感を覚えたのは、時代を覆い続けた因習にわたしも影響を受けていたからだった。

青森で育まれた刺し子

 田村さんは、ひささんがつくった、さしこのポーチを今もつかっている。

 「パスポートなど大事なものを入れる袋にしています。ほかに代わるものは考えられません。ただ在る、ということを教えてくれるポーチです」
 ひささんが手芸に親しみを覚えていたのは、青森県出身だったということも大きいという。確かにひささんが得意だったさしこは、東北地方で古くから取り組まれた針仕事だ。真冬でも麻の着物しか着ることが許されなかった江戸時代の農民が、野良着に温かさや布の強さを持たせるために糸を何度も刺したのがはじまりで、津軽・南部のさしこ着物は、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
 旅先の弘前で、さしこのひとつ、こぎん刺しをはじめて見たときの気持ちは今も忘れられない。
 四枚菱、猫の足、マメコ、イシダタミ、フクベ、竹の節……。
 厳しい暮らしのなかで、藍で染めた布に女性たちが白い木綿の糸で刺したさまざまな模様は、雪の結晶のように美しかった。わたしも身につけたいと思い、こぎん刺しのくるみボタンを買った。
 2019年春に閉館直前だった東京・浅草のアミューズミュージアムを訪ねたときも、おなじ思いを持った。展示されていたのは、寒さをしのぐために何度も繕い、継ぎはぎした「ぼろ」と呼ばれた衣服や衣類だった。丹前や肌着のシャツ、足袋、もんぺ、学生服……。民俗学者の田中忠三郎さんが故郷の青森にある貧しい農村や漁村、山村で数十年かけて集めた。
 『BORO つぎ、はぎ、いかす。青森のぼろ布文化』(小出由紀子、都築響一、アスペクト、2009年)によると、貧しい人は小さい布さえ持てず、資産家にもらいに行かなければならなかったという。着古した衣類は米のとぎ汁に浸して縫い糸を引き抜き、小さな布や1本の糸まで使った。
 穴が開くたびにさまざまな布を重ね、そこがまた破れると、限られた材料で配色や配置を考えてあらたに繕う。農作業や子育てなどの忙しい日々にわずかな時間を見つけ、夫や子どもたちのために女性たちが繕ったぼろは、長らく貧しさの象徴とされたとの説明があったけれど、目の前に展示されたそれは、圧倒的な美しさと迫力でわたしに迫ってきた。ぼろの試着コーナーもあって、おそるおそる羽織りものをまとうと、ショッピングモールやデパートにある服よりもかっこよくて、ほしいと思ってしまった。
 ぼろは今、国内外で展覧会が開かれたり、本が出版されたりするなど、その美しさや芸術性が評価されている。ルイ・ヴィトンがぼろをモチーフにしたコレクションを発表するなど、現代ファッションに影響を与えるまでになっている。
 洋服店で売られるのはプロがつくった服で、家でつくったものは対象じゃないと、わたしは思い込んでいた。でも、こぎん刺しやぼろを見て、その考えは一方的だったと知った。寒さだけではなく少しでもきれいで楽しい服に、という無名の女性たちが取り組んだ針仕事は、唯一無二の美しさがあり、見た人の心を動かす力を持っている。

肩書きはどうする?

 nowakiで展示したあとも展覧会は続き、新聞や雑誌の取材も受けるようになった。当初、思い悩んだのが、わたしの名前と肩書きだった。
 幼いころから変わった名字が苦手だった。電話やレストランで名乗っても、一度で通じたことはないし、はんこは毎回特注するしかない。
 愛着が持てるようになったのは、新聞記者になってからだ。同姓同名の人がいないので、すぐに覚えてもらえる。ありがたいとさえ思った。
 でも、展覧会のチラシや雑誌や新聞に名前が出るとなると、二の足を踏んだ。名前を売って作家として独り立ちしたいという強い気持ちがなかったし、職場で下手に目立ちたくなかった。
 ペンネームで創作をしているアーティストに取材することがあった。会社務めをしているけれど、職場では誰ひとり、その人の活動を知らないという。
 「行司さんも活動名をつくってみたら? それが無理なら、ブランド名をつけて、行司さんが表に出ないようにするとか」
 たしかに活動名は便利かもしれない。でもすでに知人や友人の服をつくっていたので、タイミングを逃していた。
 ブランド名を考えるのも気が進まなかった。母、知人や友人の服をつくるとき、ブランドを意識していないし、わたし自身の気配をできるだけ消そうとしている。完成した服は、母や友人、知人のものだと思うからタグをつけたことはない。
 わたしが大事にしたいのは何だろう。
 母や知人、友人に似合うと思う服を思い描くこと。
 自分の目を信じて材料を選び、布を裁断し、ミシンを踏んで、イメージ通りの服を仕上げること。
 この二つを裏切らないためにも、本名を名乗ろうと思った。
 肩書きも考えた。洋裁家、手芸家、服づくり作家、布作家、ソーイング作家。どれもしっくりこないし、自分自身を作家と思えない。落ち着くのは生業である記者だ。とはいえ、洋服づくりはプライベートでしていることなので、社名は出さず、新聞記者か会社員のどちらかを使うことにした。

材料費は布代だけ

 知人や友人の服をつくるようになって、値段をつけることにも悩んだ。
 そもそも洋服づくりは個人的な趣味なので、当初はお金をもらっていなかった。政府の働き方改革で副業・兼業を推進しはじめる前でもあったので、職場から「もしや、兼業では?」と指摘されるのも面倒だった。
 布や糸、ボタンといった材料費や手芸店へ買いに行く交通費、デザインを考えたりミシンを踏んだりする時間。すべて無料にした。すると、「タダでは申し訳ない」と小物やお菓子をくださる方が現れた。正直なところ好みではないものもあったので、布代だけもらうことに。「手間賃があるはず」という声が続いたので、布代+中学生のお小遣い程度のお駄賃をいただくことにした。
 それでも今なお、値段つけは迷う。
 わたしや母の服をつくるとき、できる限り良い素材を使っている。手芸店や羅紗屋に通ううちに、良い素材の布は肌触りが抜群だと知ったし、質が高くなるほど丁寧に縫うので、きれいに仕上がるからだ。
 生地は、リベコ社のリネンやイギリスのリバティプリント、紳士用オーダーメードスーツに使われるチェルッティやロロ・ピアーナ、エルメネジルド・ゼニアなど。毛糸であれば、染め手の名前などがサインされたウルグアイのマノス・デル・ウルグアイや、アルパカの保護などに取り組むペルーのアマノなどを使う。

旅先などで買い集めた毛糸
旅先などで買い集めた毛糸

 布は1メートル8000円以上のものを数メートル分買うことがあるし、セーター1枚編むのに毛糸代だけで2万円近くかかることもある。既製品を買ったほうが安いし、仕上がりは断然にきれいなのもわかっている。
 それでもわたしや母の服をつくるのは、わたしの道楽だからだ。本格的な道具をそろえて蕎麦をうったり、奮発したエシレのバターやゲランドの塩を使って週末にパンづくりを楽しんだりするのと、全くおなじ。貯金を崩してスイス・ベルニナのミシンを買い、ドイツのセレクトショップ、マニュファクタムからアイロン台を個人輸入した。趣味の域を超えて、道楽というしかない。
 それゆえに、知人や友人の服をつくるとき、道楽のままでいいのかなと戸惑ってしまう。メーカーのように原価計算などしたことはないし、材料は卸値ではなく、小売価格で買っている。リクエストをもらうきっかけになったわたしや母の服とおなじテンションでつくると、布や毛糸代だけで結構かかる。かといって、知人や友人の服のときは布の質を落とせばいい、というものではない。

お駄賃の基準は?

 お駄賃──。言葉でごまかしているけれど、それは労働の対価だ。自分で服の価値にある評価を与えることでもある。でも、おなじようなことをしている人が見当たらないので、何を基準にしていいのかがわからない。仕方なく既製服で考えようとしても、ファストファッションの値段にしたら自己負担が多くなるし、百貨店で見かけるブランド品と同額にするのはどうかと思う。
 知人や友人の反応はさまざまだった。
 「行司さんの服が着たい」と言ってくださった方に、市販されれば10万円のコートになる布で、羽織りものをつくった。材料費込みで3万円を切る金額をお願いしたけれど、「意外と高いんやね」と指摘を受けて、落ち込んだ。
 別の人にシャツをつくったとき、わたしがお願いした額よりもはるかに多い10万円をくださった。その人は「これは行司さんの作品だから」と言ってくださったけれど、そんなに価値がある服とは思えず、混乱した。
 自分自身を作家と思えないのは、道楽であり続けたいからだ。わたしや母の服をつくるときは心がしんと静まり、楽しさだけが満ちていく。頭でイメージした服は、一筆描きの絵のように一気につくり、やり直すことはない。
 知人や友人の服の場合も心はしんと静まるけれど、満たされる要素はちょっと違う。ひとりひとりの人柄や好みをもとに、どんな服がいいかを考える。それぞれにストライクゾーンを設けて、直球でいくか、内角ぎりぎりのカーブを投げるか、と作戦を立てる。
 母や自分の服をつくるときには出てこないデザインやアイデアが思い浮かぶのは楽しいし、完成した服を知人や友人が喜んでくれる姿を見るのは、このうえもなくうれしい。でも、つくっているあいだは、職場の新聞社にいるときとおなじで気構えてしまう。納得するまで記事を書き直すように、仕上がりが気に入らなければ、ほどいて何度もやり直す。
 10年以上、道楽と作家のはざまに立っている。足元は定まらず、ぐらついたままだ。

宣伝には母の写真を使う

 商売に向いていないわたしだけれど、売ることを考える機会に何度か直面した。 2012年にはじめての個展を京都市内のカフェ雨林舎で開いた。準備をしているとき、個展開催を提案してくれたり、会場を探してくれたりしたガケ書房店主の山下賢二さん(現在はホホホ座浄土寺店主)から「なにか売りものを用意してください」と言われた。きょとんとしていると、山下さんは続けて言った。
 「会場に来られたお客さんは、なにかを持ち帰りたいと思うものなんです。行司さんの場合、私服を展示するので、売ることはできませんよね。代わりに売れるものをつくってください。それに売りものがあれば、会場側へ収益が入りますよ」
 ギャラリーには、ギャラリー側がアーティストを選んで展示を企画するタイプと、レンタル料を払えば借りられるタイプの2種類があるという。お世話になった雨林舎はレンタルタイプだったけれど、利用料は格安だったので、商品があるにこしたことはない。
 服をあらたにつくって売るのは、材料、時間、体力ともにないので無理だった。山下さんからのアドバイスもあって、これまでつくった服を紹介する小冊子をつくることにした。
 小冊子の表紙とチラシを兼ねたポストカードは、服がいちばん似合う母の写真を選んだ。でも、ふと思った。これって母を消費するのではないか? 小冊子とポストカードをつくる前、母に聞いた。
 「写真を使いたいけれど、かまへん? ポストカードはチラシを兼ねているから、道ばたに捨てられるかもしれないで」
 「かまへんよ。わたしはわたしのままで変わらない」
 後ろめたさを覚えながら、この言葉にわたしは甘えてしまった。

ポストカードなどで使った母の写真。赤いワンピースは好評だった
ポストカードなどで使った母の写真。赤いワンピースは好評だった

 その後の個展は、なにかが売れないと運営側にお金が入らない企画タイプだった。わたしが服をつくって売るのはやっぱり余力がないので、カフェを営む友人に特性クッキーをつくってもらったり、知り合いの手芸店に展示したワンピースとおなじ服のセミオーダーを請け負ってもらったりした。

はじめての展示販売

 2017年春には、はじめて服を展示販売した。会場は京都の書店、誠光社。私物を展示してきたので、違ったことをしたいと思った。
 自分で展示販売を決めたものの、不安でいっぱいだった。誠光社も企画タイプなので、服が売れないと店にお金が入らない。売り上げゼロは避けたかった。
 宣伝が大事とわかっているものの、わたしはSNSをしていないので発信力がないし、ポストカードをつくる技術もない。困って店主の堀部篤史さんに相談すると、意外な答えが返ってきた。
 「告知は店のホームページ、ツイッターとインスタだけにしましょう。SNSは、誠光社に興味を持ってくださる全国のお客さんに確実に届く。そんな実効性を持っていますから」
 チラシを兼ねたポストカードは、特性を使いこなせるのならばお薦めという。書店に行って、目的以外の本を書棚で見つけることができるように、たまたま行ったカフェでポストカードを見つけて、展覧会に行ってみようかなと思う。そんな力を持っているからだ。
 「SNSでは知りたい人しか情報が届きませんが、ポストカードには広がりがあります。嗜好性があるので、つくるのであればデザインや印刷は凝ったほうがいい。
 1通ずつ送れば、相手に思いも届きますしね。でも今回は、ポストカードをつくってくれるデザイナーもいないことだし、SNSだけにしましょう」
 着る人がわからないままにつくったので、個展のタイトルは「まだ見ぬあなたに作った服」にした。ユニセックスでも着られるハーフパンツ、フリーサイズの羽織りものなど、8点を用意して、ドキドキしながら初日を迎えた。
 告知は、誠光社のSNSと、展覧会情報を載せてくれた雑誌『暮しの手帖』の2つ頼みだったけれど、地方や海外から多くの人が足を運び、熱心に見てくださった。つくった服は、パートナーの誕生日プレゼントにしてもらえるなど、わたしの想像を超える形で旅立っていった。
 取材をして記事を書くだけのわたしが、商売のことを語る立場ではないけれど、相手が見えないまま服をつくるのは難しかったし、売れるかどうかは予想が立たず、実際にしてみないとわからないと知った。ほんの少し、まねごとをしただけでも、売れるものをつくること、それを売って食べ続けることはいかに大変なことかが、身にしみた。

売り買いではなく、譲り合う

 わたしは長年、ものを売るのはプロの仕事だと思っていた。でもインターネットが身近になって、プロアマ問わず売ることができるようになった。不要品を売るネットフリマはすっかり浸透したし、自分でネットショップをかんたんに作れるアプリ、知識やスキル、経験を売り買いするアプリもある。手づくり品を売るサイトは国内外で多くあって、売り手と買い手のやりとりはグローバルに拡がっている。
 なんでも売り買いする時代になったんだ。そう思っていると、お金を介在させない取り組みが京都で生まれていた。
 ひとつが、ボランティア団体「ホホホ・ザ・わいわい」が2017年からはじめた「0えんマーケット」だ。「0えん」とはその名の通り、無料のこと。家のなかで不要になった食器や古着などをメンバーや支援者らが持ち寄ってタダで提供する。
 メンバーのひとりで、古書と雑貨、宿を営む「浄土寺センター/ホホホ座ねどこ」の代表、松本伸哉さんによると、古いものを扱っていると、どうしても商品にならないものが出てくるそうだ。今ならフリマで売る人が多いけれど、松本さんたちは、そうしたくはなかった。
 「ひと昔前は、子どもが成長して着なくなった服や使わなくなった食器といった『商品から外れてしまったもの』は、友人など身近な人の間で、無料で譲り合っていましたよね。0えんマーケットも、昔のように気楽にものをやり取りできる形を取りたいと思ったんです」
 0えんマーケットがはじまったおなじ年の冬、歯科衛生士の中村成美さんと飲食業の森杏奈さんが、通りがかりの人にコーヒーやお菓子をふるまい始めた。 当時、ともに20代前半。森さん手製のお菓子や中村さんが点てたコーヒーで一服してもらい、天気や散歩中のペットのことなど、ちょっとした会話を交わす。ふだんの生活では出会えない人たちとの何気ないおしゃべりに、2人は夢中になった。
 タダではじめたものの、もてなされた側から「無料では困る」との声が相次いで、フルーツやアイスクリームなどとの物々交換や、お気持ち代を投げ銭してもらう形に変えた。活動は森さんが京都を離れたのを機に1年半ほどで終えたけれど、中村さんは「とても楽しかった」と言う。
 「運営面を考えると赤字でした。でも、SNSで人とつながるのではなくて、実際におしゃべりすることは、お金をもらうよりも得がたいものでした」
 なんでも売り、なんでも買う。そんな時代だからこそ、揺り戻しのような動きが芽吹いていた。

0円の意味

 経済学者の浜矩子さんに、人生で大切にしている宝物を聞いたことがある。浜さん自身やだれかが買ったものなのだろうと思いきや、特定のものに振り回されるのはしっくりこないとの答えに驚いた。
 「大切にしているのは言葉です。言葉が貧弱になると、知性も貧弱になり、独裁者につけいる隙を与えてしまう。言葉は人間らしさと表裏一体だと思います」
 そう言って、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』やグレアム・グリーンや泉鏡花の作品群、岡本綺堂の『半七捕物帳』『青蛙堂鬼談』を見せてくれた。小学生で出合ったこれらの本を折に触れて読み、原点に立ち返るというはなしが、わたしの心に強く残った。
 浜さんなら、お金を使わない動きをどう考えるのだろう。ふと思い立ち、京都御所に隣接する同志社大学の研究室を訪ねた。京都での取り組みを説明すると、浜さんは少し考えてから言った。
 「0円というのは、不安と生活に縛られた日常からの、一種の解放であり、逃避なんでしょう。人間のさまざまな価値観や感性、魂の震えをもたらす面があるとも言えそうです」
 ものの値段は二極化している。服の世界では、千円以下のスカートやパンツが売られている一方で、初任給1カ月分相当のコートやセーターも店頭に並んでいる。
 でも、0円であれば、売り手はものの値段を決めなくていいし、買い手も値段に対して「これは安いな」「高いな」と思わなくてもいい。世知辛さからそれぞれ解放されるというわけだ。ただし、それはつかぬまの安らぎであって根本解決にはならない、と浜さんは考える。必要なのは、価格の正当性を見極める、知的緊張感を持ち続けることだという。
 「労力と才能を投入してつくったものに対して、『四の五の言わない』という覚悟を持ち、緊張感を持って支払うことです。人間がものの値段に対して支配力を持たないと、金の世界に飲み込まれてしまいます」
 食べられないという現実があるほど、お金にとらわれている度合いと0円に引き寄せられる度合いは、相応しているかもしれないという。それこそが「金というものが持っている怖さです」と浜さんは指摘した。
 食べられないという現実──。浜さんのはなしを聞きながら、わたしの頭をよぎったのは、7人に1人が苦しんでいるこどもの貧困だった。でもそれから半年後、事態は大きく変わってしまった。新型コロナウイルスが瞬く間に世界中で広がり、街から人の姿が消えた。
  「売り上げは7割減になってしまった」
  「貯金を取り崩しているけれど、あと2カ月後には家賃が払えない」
  営業時間を短くしたり、自主的に休業したりしている友人の言葉がわたしの胸を突く。行政の支援では追いつかず、倒産や閉店は相次いでいる。お金や値段のありようは、さらに変わっていくのかもしれない。

ただ在る服

 コロナ渦の前、政府は働き方改革の一環で、フリーランスを盛んに勧めていた。フリーで活躍するのは一見華やかそうに見えるけれど、浜さんは「労働時間の規制や最低賃金の保障はなく、とても危険なことです」と指摘していた。
  わたしは注文が相次いだころ、服づくりで食べていこうかな、と野心を持ったことがある。でも、すぐにあきらめた。ライバルは巨大なファストファッションやアパレルブランドに加え、ネットにある無数の店だ。わたしのやり方では、すぐに破綻してしまう。
 宮仕えせず、自分のできることを生かして仕事にするのは憧れるし、会社を辞めてフリーに転身するのは簡単だ。けれど、安心して活動を続けていける公的な仕組みや補償はなく、あっという間に消費される世界へ飛び込む勇気や覚悟を持てないでいる。
 同時に新聞記者という仕事にやりがいを感じている。いろんな人に会って考えや悩みを聞き、世の中に伝える。時代の流れを見つめて考えることは、これからも続けたいと思う。
 わたしらしいものをつくり続けたいとの思いはある。とはいえ、ひとりでつくるのは限界があるので、分担して量産する方法も考えた。わたしが配色やデザインを考えて編みもの上手な人に編んでもらおうとしたけれど、実現しなかった。仕組みづくりは難しかったし、相談していた人の言葉が腑に落ちたからだ。その人はこう言ってくれた。
 「行司さんが毛糸を選びデザイン画を描いても、行司さんが編んだものと、ほかの人が編んだものは違う。おなじ素材でおなじ模様を編んでも、似て非なるものができあがるのです」
 幼いころ、母がわたしに縫ってくれたワンピースやサマードレスを思い出した。それはまさしく母にしかつくれない服なのに作家性はなくて、同時にまぎれもなくわたしの服と思わせるものだった。鈴木ひささんが孫につくったさしこのポーチが「ただ在る」ように、母がつくった服もわたしのために、ただ在った。そんな服をわたしもつくりたい、と思った。

義務ではなく喜び

 美術家で京都市立芸術大教授の小山田徹さんは2017年2月から3年間、当時小学2年生だった長女と協力して、幼稚園入ったばかりの次男にお弁当をつくった。
 「どんなお弁当をつくるの? 顔みたいなのにしたら喜ぶで」
 朝、台所で弁当づくりをしている小山田さんを見て、話しかけてきた長女の言葉がきっかけだったという。それからは起きたばかりの長女が10分間でお弁当の構図を考え、それをもとに小山田さんが20分間で弁当をつくった。
 傾斜地層。蛇行する川と三日月。鮭の遡上。噴火。おしべとめしべ。
 長女が考えたお題目には、前の日に散歩した景色や読んだ本の記憶が映し出されていた。小山田さんは卵焼きやニンジンを斜めに飾って地層を表現し、ちくわで噴火する煙を演出した。次男は喜んでたいらげ、長女や小山田さんはうれしくなった。
 お弁当づくりを重ねるうちに、小山田さんは「美術は道具である」と気がついたそうだ。
 「美術って表現が目的になりがちだし、美術をつくりだすのが目的になっていますよね。でも本来は表現するためにつくるのではなくて、たまたま生み出されたもの。結果なんですね。この気づきは、美術家としては転換期になりました」
 小山田さんのはなしを聞いて、家でつくる服もおなじだと思った。
 母が幼いわたしにつくってくれた服や、わたしが母につくった服は、「きれいな色合いの服やね」とよくほめてもらう。でもそもそもの目的は、夏は涼しく過ごせて、冬は暖かい服をつくることだ。体を居心地良くしてくれる素材を選んだうえで、色やデザインを考えている。
 小山田さんの長女はお弁当の構図を考えるうちに自然と手伝い、キュウリやちくわを切ったり、お皿やコップを洗ったりするようになったという。小山田さんは言う。
 「何万年も通じて人が食事をつくってきたのは、単なる義務ではなく、調理することに喜びがあるからです。いまはネットでレシピを見たり、教室で習ったりと、とても便利になりましたが、料理って、本来は誰かと一緒につくりながら自然と味や技術を覚え、ひいてはそれが喜びに変わっていくものだと思います。編みものや洋裁もおなじですよね」
 縫いものの楽しさをわたしに教えてくれたのは母だ。そして、母がつくってくれた服を通して、わたしの心と体が深く切り結ぶという経験をしたから、わたしは今、その人に寄り添う1着をつくりたいと思っている。
 こんなやり方でしかできないけれど、それでいいと喜んでくださる方がいるならば、その人だけの1着を縫っていきたい。でも、服の形や人の好みというのは、うつろうもの。リクエストがなくなったら、原点の道楽を続けるだけだ。


【参考文献】

「私のモノがたり 同志社大教授 浜矩子さん 言葉」(行司千絵)『京都新聞』2011年12月15日。
「土曜フォーカス2017 お金で買えぬ価値って?」(行司千絵)『京都新聞』2017年12月16日。
「くらしカフェ」(行司千絵)『京都新聞』2020年5月10日。
『大正=歴史の踊り場とは何か』(鷲田清一編著、講談社選書メチエ、2018年)

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著者略歴

  1. 行司 千絵

    1970年生まれ。同志社女子大学芸学部英文学科卒。京都新聞に勤めながら独学で洋裁を習得し、自身の普段着や母、友人・知人の服を縫っている。瀬戸内寂聴さんや志村ふくみさんなど、3〜91歳の80人に服を作った。個展に「母と私の服」(西宮阪急)「おうちのふく」(フォイルギャラリー)「まだ見ぬあなたに作った服」(誠光社)など、著書に『おうちのふく』(FOIL)など。『図書』2018年11月号・12月号に「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」を寄稿。

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