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3.11を心に刻んで

豊田直巳〈3.11を心に刻んで〉

姉ちゃんには大変おせわになりました/ 長い間おせわになりました/ 私の[限界]をこしました/ ごめんなさい/ 大工さんに保険金て支払って下さい/ 原発さえなければと思ます/ 残った酪農家は原発にまけないで願張て下さい/ 先立つ不幸を/ 仕事をする気力をなくしました/ ごめんなさい なにもできない父親でした/ 仏様の両親にももうしわけございません
(2011年6月 酪農家・菅野重清さんの言葉。[ ]の補い以外、原文ママ)
*  *
日本の敗戦によって「満洲」開拓から「引き揚げ」て入植した両親が開いた土地を継いで牛を飼い、「嫁」をもらって二人の子宝にも恵まれた酪農家・菅野重清さんが2011年6月10日に書き残した言葉が、主を失った牛舎の隣の堆肥小屋にあった。
 「重清の思いが全部ここにこもっている。」とつぶやくように声に出したのは、重清さんが「原発にまけないで願張て下さい」との無念を伝えた酪農家仲間の長谷川健一さん。
重清さんが自死した相馬市に隣接する飯舘村で酪農を営んでいた長谷川健一さんに出会ったのは原発事故から3週間と経たない3月30日。飯舘村の高濃度汚染を知った京都大学原子炉実験所(当時)の今中哲二助教ら専門家の汚染調査に同行取材した翌日。こんな汚染地帯に残された人々を取材したいと、酪農家を訪ね回った中で、だ。農作物や牛乳の被害は見える、つまり写真に撮れると考えてのこと。そんな中、出荷が出来ないと分かっていても、乳房炎という牛の病気を防ぐために乳を搾っては捨て、搾っては捨てるしかない酪農家に出会ったのだ。そのとき長谷川さんは「乳は売れない。でも餌代は掛かる。補償も賠償もない。この先、どうなるのかも、いつまで続くのかも、何にも分からない。どうすることも出来ない。」と苦しい胸の内を明かした。と同時に村の酪農家のリーダーとして、同じように追い込まれている13戸の仲間を心配した。
 その心配が隣町で現実のものとなってしまったのだ。
「いつかこういうことが起こるんじゃないかと心配していたとおりになってしまった」とうつむく長谷川さん。その足下には、重清さんが自らの首を掛けたかのようなロープが落ちていた。
 東日本大震災の翌日から福島に通い続けていた私は、津波被災地の目に見える惨状のあまりの凄まじさに、そして、その対極のように静けさの支配する、しかし高濃度の放射能に覆われた飯舘村に、カメラを持ちながらも、どこにそのレンズを向けるべきか困惑していた。
 それでも、1000年に一度と言われる津波と、1000年後にも思い返されるだろう原発事故であるなら、目の前に生起する全てのことが記録に値すると思い直して、スチールカメラのシャッターを切り、ムービーカメラを回し続けていた。
 そのカメラの前にある重清さんの言葉と、それをじっと見つめる長谷川健一さん。それから2年後にドキュメンタリー映画として映像をまとめる際にタイトルには迷いようもなかった。『遺言〜原発さえなければ』。それは全五章3時間45分の長尺だったが、放射能禍の下に暮らす人々の「原発にまけない」生は、その後も続いている。いや後100年、200年と続くのだ。その営みを私は今年、映画『サマショール 遺言 第六章』として劇場公開したが、それとて第七章、第八章……と続く、いや続ける記録作業の一過程に過ぎないと考えている。私もまた、菅野重清さんの残した「遺言」を読んでしまった者として。
 
(とよだ なおみ・フォトジャーナリスト)

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