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行司千絵 服のはなし

心模様が宿る場所〈服のはなし〉

久しぶりの転勤

 サラリーマンの立場を痛感するのは、転勤のときだ。
 辞令1枚で、仕事の内容や生活する場所ががらりと変わる。わたしの職場は半年ごとに内示があって、そのたびに気持ちは落ち着かない。
 新聞社とはいっても、仕事はさまざまだ。政治、経済などを取材する記者以外に、新聞に掲載する広告を担当する人や印刷を手がける人、美術展を企画する人もいる。
 1993年に就職して以来、わたしはその半分近くを文化部で過ごしファッションや料理、小説にまつわる話題を書いてきた。ルーティンにすっかり慣れていた2015年の秋、上司から呼び出された。
 「行司さんは支局へ転勤になったから」
 辞令に書かれたあたらしい赴任地は、人口18万人の街。有名な社寺仏閣がある観光地で、京都や大阪のベッドタウンとしての顔も持っている。
 おもな仕事はその街の出来事を取材すること。自治体の取り組みをリポートし、議会の推移を見守り、事件や事故、火事が起きれば現場に駆けつける。政治的な駆け引きやシビアな現場の取材も不得手なわたしは落ち込んだ。
 初日はこんな組み合わせで家を出た。
 ロイヤルブルーと黒のゼブラ柄がプリントされたアクアスキュータムのトレンチコート。
 その下には、ウォルフォードの黒いタートルネックと、フェラガモの黒いウール地のミニスカート。ウォルフォードの黒いタイツに、トッズの黒いマニッシュシューズ、そしてセリーヌの黒いバッグ。
 全身ブランドで固めたのは、文化部時代がそうだったから。
 小説家、料理長、デザイナー、老舗の女将。取材する人の名前や店の歴史を聞くとひるむので、自分を奮い立たせるためにとびきりのおしゃれが必要だった。同時に、高い技術でつくられた服の着心地を知って、服づくりに生かしたいという気持ちもあった。
 とはいえ、地方紙勤務の限られた収入では、容易には手が届かない。最終処分セールなどでちょっとずつ買い集めたものを、自分でつくった服と組み合わせて着ていた。
 取材の拠点となる赴任地の市役所のロビーに入ると、目の前にはふだん着の人たちばかりだった。ブランドづくしの自分は場違いで痛々しく見えただろう。翌日からカジュアルな服装に変えた。

服を変えた理由

 気取った格好はしないほうがいい ──。この思いは日に日に強まった。
 取材の拠点となる市役所から街に出ると、会社をリタイアした男性や子育て中の女性、商店街の名物店主や、農家の若手後継者にはなしを聞いた。出会う場所は、公民館や図書館、茶畑などで、だれもがふだん着や作業着姿だった。リラックスして本音を語ってもらうために、わたしもカジュアルな服を着ていたほうがよかった。
 京都市内で働いていたときも、ふだん着の人と会ってはいた。でも、あたらしい赴任地のほうが、日常感がより強かった。
 日々の買い物は地域密着型のスーパーや郊外にある大型ショッピングモールで済ませて、ちょっとした買い物やお出かけは京都市内や大阪市内の繁華街へ足を伸ばす。書店や喫茶店は少ないので、お茶やコーヒーを飲もうと思えば、国道沿いのチェーン店やスーパーのフードコートへ向かう。わたしが住んでいる奈良とおなじ、都市部ではない地域の人たちの暮らしだ。
 支局が工業用地の一角にあったことも、服装を変える理由になった。広大な土地に、工場や大きな倉庫、事業所などがぽつり、ぽつりと立っている。最寄りの駅までは徒歩約30分。日中でも人通りや走る車が少なくて、夜はほぼ皆無だった。同僚の男性が「夜は歩くのが怖い」とこぼしていた道を、走るようにしてひとりで帰った。
 気がつけば、ギャップのカットソーに無印良品のデニムや自分でつくったゴム入りパンツを合わせ、ウォーキングシューズを履き、無印良品のトートバッグを持っていた。それはどこから見ても、中年の週末カジュアルファッションだった。

服づくりの注文はゼロに

 服づくりの注文は、転勤を機にぱったりとなくなった。
 職場が京都市内にあったころ、注文を寄せてくれたのは、小説家やお坊さん、書店主、カフェのオーナーなどで、TPOを意識した服より、ほかの人とかぶらない服を着たいと思う人が多かった。そういえば、サラリーマンはひとりもいなかった。
 あたらしい赴任地では、目立たず落ち着いた服の人が多かった。
 注文をしてくれた人たちが、少数派なのかもしれない──。そう思ったとたん、ちょっぴり芽生えた自信がポキンと折れた。
 あのときの気持ちは、フランスのファッションブランド、ヴェトモンの2017年秋冬コレクションの写真を見るたびによみがえる。
 コレクションのテーマは、典型描写を意味するアーキタイプ ディスクリプション。モデルは、この言葉からまさにその格好をイメージするという服を着てランウェイを歩いた。
 トレンチコートにジーンズ、赤いパンプスを合わせた「パリジェンヌ」。
 サングラスに毛皮のコートをまとった熟年マダムがモデルを務めた「ミラノ風」。
 体格の良い男性が黒のセーターとズボン、革ジャンをはおった「用心棒」。
 ベージュのハーフパンツに短い靴下、運動靴という組み合わせの「観光客」。
 服は社会の記号としての機能を持ち、人はステレオタイプにしばられやすい。そんな指摘を投げかけたコレクションだった。確かに、わたしが週末カジュアルファッションにしたのも、「どこにでもいる中年」という格好のほうが地域に溶け込めると考えたからだった。
 『星の王子さま』(サン=テグジュペリ作、内藤濯訳、岩波少年文庫、2000年)にも、見た目に触れたくだりがある。
 王子さまのふるさとは、とても小さな星で、どうやら、小惑星、B-612番という名前らしい。1909年に望遠鏡でたった1度その星を見たトルコの天文学者が、万国天文学会議で証明しようとすると──。

 ところが、着ている服が服だというので、だれも、その天文学者のいうことをほんとにしませんでした。おとなというものは、そんなものです。
 さいわい、B-612番の星の評判を傷つけまいというので、トルコのある王さまが、ヨーロッパ風の服を着ないと死刑にするというおふれをくだしました。そこで、その天文学者は、一九二〇年に、たいそうりっぱな服を着て、証明しなおしましました。すると、こんどは、みんなが天文学者のいうことをうけいれました。

 見た目だけで信頼するなんておろかだけれど、外見で判断しないと言い切れないわたしもいる。いつもカジュアルファッションだった研究者がこぼしていた言葉を思い出す。
 「高いポストに就いたのでスーツを着ることになりました。仕方ないけれど、わたしじゃないみたいで、いやなんです」
 国会議員や会社の社長、病院の理事長という立場に立った人たちがみんな、紺色のスーツに白いワイシャツを着ているように、組織力やコミュニティーが強いほど、服のルールは厳しくなっていく。もし総理大臣がアバンギャルドな服を着て国会に出席したら、きっと『星の王子さま』とおなじことが起きるのだろう。

はじめての病気

 転勤して3カ月が過ぎたころ、体調を崩した。
 1月に肺炎。2月に気管支炎。3月にインフルエンザ。4月にウイルス性胃腸炎。
 月替わりで、ひとつずつかかった。いずれもメジャーな病気だけれど、わたしにはどれもがはじめてだった。
 病気が続くにつれて、微熱が長引き、治りは悪くなっていく。ようやく平熱に戻って出勤しても、最低限の仕事をするのに精いっぱいで、取材をするパワーが出ない。すぐに次の病気になってしまうので、ひと月の半分は休んだ。
 4カ月間の病気ラッシュが終わると、体重は7キロ減って、平熱は34度台になっていた。体力はすっかりなくなって、家から歩いて3分のスーパーへ行くのも、途中で休憩してしまう。かかりつけの病院をたずねると、医師は言った。
 「確かに体力は落ちているけれど、鬱傾向かもしれませんね。心療内科を受診してみてはいかがでしょうか」
 わたしが鬱? 診察室から出て待合室のソファに座り込んだ。体の不具合より、心の不具合を指摘されるほうがこたえて、医師の言葉が受け止められない。
 これから、どうしたらいいんやろう。気持ちが混乱するなかで、ふと思った。そういえば、わたしの服装はいつもと違う。
 転勤前は毎朝、今日はなにを着ようかなと思い、そのときの気分に合わせてナチュラルにしたり、アバンギャルド風にしたりした。スティーブ・ジョブズのようにおなじ服で過ごすのとは正反対に、服の組み合わせを毎日変えた。
 でもここ数カ月間は、無地のタートルネックセーターと無印良品のデニムの一辺倒だった。ワンパターンなんて、今までなかったことなのに、そのことさえ気づいていなかった。
 もうひとつ、思い返すことがあった。
 赴任地の本屋さんでファッション誌を手にとるたびに、泣きそうになるほど心が揺さぶられた。わたし、こんなに雑誌が好きだったっけ? 疑問に感じながらも、最新のモード雑誌を買わずにはいられないでいた。
 体の芯から疲れている感じがする。外の世界から離れて、ゆっくりやすみたい。心の底から思った。 心療内科は受診せず、家で療養する、と自分で決めた。職場には体力が落ちたことだけを伝えて、しばらく休職した。

喪服を着たエリザベートとミホ

 エリザベートといえば、ミュージカルで人気の演目だ。モデルは、シシィの愛称で親しまれるオーストリアの皇妃エリザベート(1837~1898年)。公演ポスターや肖像画にある、白いドレスに星形のヘアアクセサリーをまとったお姫さまファッションでおなじみの人だ。
 皇帝帝一家が暮らしたウィーンのホーフブルグ王宮を訪ねたとき、エリザベートの体操室兼化粧室に驚いた。シシィがモデル体型(身長172センチ、体重47キロ、ウエスト52センチ)を維持するため、肋木、吊り輪、鉄棒などが置いてあったからだ。
 宮殿にはエリザベートの生涯をゆかりの品でたどれるシシィ博物館もあった。ジュネーヴで暗殺されたときにエリザベートが身につけていた衣装を展示されたコーナーでは、思わず足が止まった。
 サギの羽で縁取りしたマント。帽子。日傘。扇子。どれも黒一色だった。息子のルドルフ皇太子が1889年に自殺してからは喪服で過ごしたためという。豪華な白いドレスを着ていた人のものとは到底思えなかった。
 ミホが頭に浮かんだ。作家・島尾敏雄の妻で、『死の棘』のモデルで知られる島尾ミホ(1919〜2007年)。敏雄が亡くなってからの21年間、人前に出るときは喪服で過ごしたという。
 わたしがミホの喪服姿をはじめて見たのは、雑誌のルポだった。奄美大島で暮らしたミホは黒いワンピースにチュールの帽子をまとっていて、独自の文化と野性味あふれる島と異質なものに見えた。でも同時に、あの世に逝った敏雄と今なお結びつきたいというミホの思いが強烈に迫ってきた。
 心のありようは、エリザベートやミホのように装いににじみ出る。新型コロナウイルスの感染者が増えだした今年4月はじめ、手づくりマスクを身につける人を見かけるようになって、その思いをあらたにした。
 小花模様の布でつくった人。子犬模様の手ぬぐいで折りたたんで縫った人。ビーズや造花を縫いつける人。耳にかけるゴム代わりにサテンのリボンを使って蝶々結びにする人。
 「気持ちが沈みがちなので、せめて楽しいマスクを身につけたいと思った」
 「マスクは白と決めつけなくていいと思うの。服とコーディネートしたい」
 年齢や性別を問わず、いろんな人がさまざまな模様のマスクをしていた。不織布のマスクの品切れが続いているからだけれど、不安が募る日々に、ちょっとでもおしゃれを楽しみたいという思いが伝わってきた。
 わたしは体調を崩した4年前、おしゃれができなかった。「体調が戻るには数年はかかりますよ」と言った医師の言葉通り、体はゆっくり、ゆっくりと回復していった。おしゃれも体調に比例するように少しずつできるようになった。今、手に取るのは4年の間にあらたに買ったり、つくったりしたカジュアル服だ。そういえば、転勤前に頼っていたブランドものや支局時代の服は久しく着ていない。

ウサギの着ぐるみで対談

 わたしが家族以外で服をつくるきっかけをつくってくれたのは、京都に住む小説家のいしいしんじさんだ。派手な服をつくっても「自分のためだけにつくられた服を大事にしたい」と着こなしてくれる。

写真01 いしいしんじさんにつくったコート。革や猪熊弦一郎の風呂敷をアップリケにつかった
いしいしんじさんにつくったコート。革や風呂敷をアップリケにつかった
写真02 いしいさんのコートの背中側
いしいさんのコートの背中側

 京都暮らしのエッセーを寄稿してもらうやりとりの折りに、いしいさんがふとこんなことを言った。
 「かつて着ぐるみを着て、東京の街を歩いていたことがあったんです。ちょっとしんどい時期でした」
 着ぐるみ? しんどい時期? 出会って間もないこともあって、わたしはそれ以上聞くことができなかった。
 数年を経て思い切ってたずねてみると、リクルートを辞めてライターをしていた1997年から1999年ごろ、雑誌の企画でマジシャンのトランプマンと黙ったまま対談したのがきっかけだったという。
 「相手はトランプマンとして来るのだから、僕もなにかにならんとあかんなと思いました。手品師に関連する動物といえばウサギでしょ。テレビ局の衣装部に聞いたら、ウサギの着ぐるみがあるというので、それを着て対談場所のホテルに行ったんです」
 対談をまとめた『うなぎのダンス』(河出文庫、2008年)にそのときの写真が載っているというので見てみると、確かにアーモンドアイのウサギがちょこんと座っていた。
 数日後、いしいさんはウサギの着ぐるみを返すためにテレビ局へ行った。使い古されて、捨てる予定の着ぐるみが山積みだったので、クマ、イヌ、カエルをもらったという
 季節は冬。寝間着のうえに着ぐるみを着たら、全身をすっぽり覆ってとても温かだった。それからは、クマやイヌの着ぐるみを着て、当時住んでいた浅草から地下鉄に乗って、銀座の書店やレコード店に出かけた。周囲の人は驚いたそぶりを見せなかったそうだ。なによりも、いしいさん自身に世の中からおもしろがってもらおうという考えがなかった。
 「そういう思いがスカッと抜けていたんです。穴に潜り込むように、自然と着ぐるみを着ることができた。実はあのころ、ウジウジしてたんです」

4歳半のときに書いた物語

 当時、いしいさんは売れっ子ライターだった。依頼はひっきりなしにきたけれど、半年で3000枚の小説を仕上げられるほど、するすると書けた。
 「着ぐるみを着て街に出る。家に帰ると着ぐるみを脱いで、ガーッと原稿を書く。マンションの部屋自体が着ぐるみで、そこに籠もっている感じでした」
 起きている時間は、食べて、飲んで、旅をして、恋愛して、本を読み、原稿を書く。
 寝るのは、死んでいるのと一緒──。
 そんなふうに思って暮らしていたあのころを「行司さんが鬱っぽい状態だったとしたら、僕は躁っぽい状態でした」と振り返る。そして、いしいさんも体調を崩していった。
 ある日、治っていたと思っていた喘息の発作が何十年ぶりかに起きた。
 続いてアトピー性皮膚炎になり、顔が左右非対称に腫れ上がった。
 自分がなにを言い、なにを考えているのかがわからなくなり、自分が自分を観察しているような感覚にも陥った。
 「どこかで、バランスが崩れるぞというサインを感じていたのでしょう。でも自分では止めることができず、体のアレルギー反応が出てしまった。でも、それよりきついのは、行司さんとおなじ、心のアレルギー反応なんですね。人と会えなくなりました」
 このままひとり暮らしを続けるのは絶対無理。実家に戻りなさい ──。医師からそう諭されて、いしいさんは大阪へ帰った。幼いころ、かわいがってくれたという亡き祖母の部屋で過ごしているとき、母に声をかけた。
 「僕がちいさいとき、ここで何をしていたんかなぁ」
 「お話ばっかり書いていたやないの」
 背中を押されるようにして探してみると、つづらから4歳半のときに書いた『たいふう』が出てきた。久しぶりに読んで、自分の内側からにじみ出たものをつかまえて書いたのは、この物語以降のほかになかったと気がついた。これからは自分の書きたいものだけを書く。そう心に決めたという。
 「『たいふう』の後といえば、人から、おもしろいもの見せて、と言われて書いたり、みんなに気に入ってもらおうと思って書いたりしたものばかりでした。だから、内と外のバランスが崩れていったんでしょうね。着ぐるみで守ろうと思っても、守れないまま仕事をした。だから、根っこのところが爆発したのだと思います」
 着ぐるみはあまりにも自然と着たので、その意味はわからない。外と内の境界線だったかもしれないし、もっとも肥大した自意識のようにも思う。
 でも、着ぐるみを着たから、いっぱいいっぱいだった日々を過ごせた。書きまくった日があったから、いちばん大事なものをないがしろにしていると気がつけた。いしいさんは今、そう考えている。

妖怪に逢いたい

 京都の節分行事といえば、鬼やらいの名前で親しまれる吉田神社の追儺式だ。境内で暴れ回る青鬼や赤鬼、黄色の鬼を、疫病退散の力を持つ方相氏が追い込んだり、神職らが矢を放ったりして、退散させてしまう。
 2018年から京都にあらたな節分パレード「節分おばけ☆仮装百鬼夜行」が生まれた。仮装して鬼を化かすという古くからの行事にちなんで、作家で京都国際マンガミュージアム館長の荒俣宏さんが企画したもので、鬼やカッパなどの妖怪になった全国からの参加者がミュージアムから二条城の間を練り歩く。
 荒俣さんも毎年参加していて、その姿を見るのをわたしは楽しみにしている。師と仰ぐ漫画家の水木しげるさんが考案した妖怪アリャマタコリャマタや顔を白塗りしたバイキングなど、完成度は高い。

写真03 アリャマタコリャマタに扮装して節分お化け☆仮装百鬼夜行に参加する荒俣宏さん(2018年、京都国際マンガミュージアム提供)
アリャマタコリャマタに扮装して節分お化け☆仮装百鬼夜行に参加する荒俣宏さん(2018年、京都国際マンガミュージアム提供)

 扮装は約20年前からしているという。理由はいたってまじめなものだった。
 「それは、妖怪に逢いたいからですよ」
 世の中には妖怪によく逢う人がいるというのに、水木さんや荒俣さんは願いがかなわないでいた。
 妖怪はいないんじゃないか ──。水木さんの心は揺れたという。でも、いないよりも、いたほうが楽しいと、思い直し、妖怪を見るふたつの方法を考えた。
 自分で絵を描くこと。
 そして、自分で妖怪になること。
 荒俣さんも水木さんにならって妖怪になった。世界妖怪会議がはじまった1996年には、作家の京極夏彦さんと扮装を競ったそうだ。
 「あのころは、妖怪に扮装したらバカだと思われていたんです。でも、今は違いますね。節分おばけ☆仮装百鬼夜行でも、若い人たちが率先して化けてくれるし、クオリティーが高くて驚かされます」
 四半世紀の間に社会が変わったのが影響しているという。そういえば、ハロウィーンが人気になったのもここ数年のことだ。なにがあったんだろう。

ハロウィーンが人気なのは

 ハロウィーンの時期を迎えると、多くの若者たちでごったがえす東京・渋谷の様子がテレビニュースで流れる。軽トラックが横倒しされた事件が起きたこともあって、警視庁の機動隊によるものものしい警備が出る事態になっている。
 今でこそ秋恒例のイベントであるけれど、荒俣さんによると世界妖怪会議のスタート当初は違ったそうだ。
 「お化けが出てくる祭りとしてハロウィーンを一生懸命導入しようとしたけれど、日本に定着しませんでした。『ハロウィーンだけはダメだよね』と言っていたら、SNSの登場で一気に変わりましたね。インスタ映えしますから」
 わたしが新聞社に就職したころ、カメラはまだ旅行やデートなど特別なときだけ家から持ち出すものだった。目の前の出来事を撮影するのに慣れていないから、騒然とする火事や事件現場でうろたえてしまった。
 いまはスマホで写真を撮ることが暮らしに溶け込んでいる。三度のごはんや散歩で見つけた花を撮ったり、写真の加工アプリを使って理想の自分に修正したりするのは珍しくない。
 ハロウィーンが人気なのは、ほかにも理由があるという。
 「人には、人間社会から外れるぐらい、自分自身の存在を思いっきり変えたいという気持ちがあるのではないでしょうか。でも、日々を振り返ると、やりたいことができないし、変な格好をしちゃいけないという社会的な外圧もある。さらに今は、自分はこんなもんじゃないのに、なぜみんなは評価してくれないのかというストレスを抱えていますよね。ハロウィーンは、そんな自分を変えるスイッチなのでしょう。素顔のときは誰も反応してくれなくても、お化けの姿になって言えば、みんな反応してくれますから」
 厳しい環境にさらされ続けてきた就職氷河期世代。家計を切り詰めざるを得ないひとり親家庭。学校や職場になじめず、家にひきこもる人。現状にもがいている人はたくさんいる。自分を思い切り変える方法として美容整形の手段もあるけれど、荒俣さんは「それでは追いつかないほどの状況ですよ」と言った。
 「わたしたちがしているお化け文化とはほとんど関係なくて、もっと切実な問題だと思います。ハロウィーンでお化けになるのは、家のなかにいる自分とは全く違う自分を取り戻すことなのです」
 ふだんはまじめな人が、節分お化け☆仮装百鬼夜行に参加したときのこと。出発当初は行列の後ろの方にいたものの、沿道から声をかけられたり、写真を求められたりして、途中からは率先して行列の先頭を歩き出したそうだ。
 「とても楽しそうでした。本来の自分なら鎧を着るのに、お化けになることで裸になれて、思い切ったことができたのでしょう。扮装するとは、自分を解放すること。ベニスのカーニバルにも共通しますよね」
 節分おばけ☆仮装百鬼夜行も、ハロウィーンも、たんなるコスプレではなかった。ふだんは手に取らない衣装を着ることで、生きづらい日常から自分を切り離す。服にはそんな役割もあったのだ。

おしゃれなシニアたち

 書店に行くと、必ず立ち寄るのがファッションやおしゃれをテーマにしたコーナーだ。小説や思想書コーナーよりも熱心に見ているかもしれない。
 ある日、見慣れない洋書を見つけた。タイトルは『Advance Style』。60歳以上のおしゃれを楽しむ女性たちを撮影し、2012年に出版されたアメリカの写真集だった。
 緑や紫のターバンを巻いたスーツ姿の女性。ショッキングピンクのマフラーや黄緑色のブルゾンが、オレンジ色に染めた髪に映える人。鮮やかな色づかいにひきつけられて、思わず買った。ネットで検索してみると、おなじタイトルのサイトがあり、たくさんのファッションスナップが紹介されていた。

 翌年には、日本語版『Advance Style ── ニューヨークで見つけた上級者のおしゃれスナップ』(アリ・セス・コーエン著、岡野ひろか訳、大和書房、2013年)が発売されてベストセラーになった。これがきっかけになって、国内のストリートスナップブック『OVER 60 Street Snap ── いくつになっても憧れの女性』(MASA&MARI著、主婦の友社、2014年)や、シニア向けのファッション雑誌『大人になったら、着たい服(ナチュリラ別冊)』(主婦と生活社)や『素敵なあの人』(宝島社)など、シニア向けファッションの雑誌や本が次々と出版された。
 それまでのシニアファッションといえば、茶色やくすんだピンク色の服が定番だった。けれど、雑誌や本で紹介された服はどれも色鮮やかで、モデルとなった女性たちはジーンズやパンプスを履き、フルメークやネイルを楽しんでいた。
 ほかにもあるかな、と思って、書店の本棚を見ていると、『おばあちゃんのオシャレ採集』(堀川波著、幻冬舎、2013年)があった。イラストレーターの著者が街角で見かけたおしゃれなおばあちゃんをスケッチした本という。
 おもしろいなぁと思って、ぱらぱらとめくっていると、赤いワンピースを着たグレイヘアの女性のページで目が留まった。「天然素材おばあさん」というタイトルで、〈京都で見かけた木綿素材の茜色のワンピース……〉と書いてある。わたしがつくったワンピースを着た母に見えるけれど、ワンピースの素材はリネンだし、シルバーの時計がデジタルとも書かれていて、実際とは違うところもある。
 母へ電話をかけると「そんなん知らないよ。声をかけられたこともない」と話した。本を買って、家で見せると「わたしだと思う。どうやって描かはったんやろうね」とケラケラ笑った。

転機は夫の死とグレイヘア

 母はおしゃれが好きだ。
 わたしが物心ついたときから、限られた手持ちの服の組み合わせを工夫して、髪飾りやブローチ、スカーフ、かごのバスケット、バックルのついた靴など、アクセサリーや小物を上手に使った。
 手先が器用なことに加えて、家計をやりくるするためにも、30〜40代までは自分の服を縫っていた。襟元に花の刺繍をした赤いギンガムチェックのワンピースや、ボウタイをつけた白いワンピースはわたしも大好きな服だ。

写真04 母が自分のためにつくったワンピース
母が自分のためにつくったワンピース
写真05 そのワンピースを着た母と、母の手製のワンピースを着た9歳のわたし
そのワンピースを着た母と、母の手製のワンピースを着た9歳のわたし
写真06 母が自分のためにつくったワンピース
母が自分のためにつくったワンピース
写真07 そのワンピースを着た母と7歳のわたし
そのワンピースを着た母と7歳のわたし
写真08 母が自分で刺繍したブラウス
母が自分で刺繍したブラウス

 でも、年を重ねるにつれて既製服が増えていった。50〜60代になるとトラッド調になり、紺やグレーのセーターやスカートが中心に。祖母(母の母)と父(母の夫)の介護が重なった60代後半から70歳までは、わたしが着古した黄色のブルゾンに、白や黒のパンツスタイルで過ごした。
 しっかり者の母に、祖母や父、わたしは頼った。後に母は、あのころのことを振り返った。
 「ひとりでいられる時間は、お風呂かトイレのなかしかなかった」
 おしゃれをする余裕なんてなかったのだ。母の言葉を思い出すたび、あまり手助けしなかった自分が恥ずかしくなる。
 父は同世代とおなじスタイルをするのを好む人だったので、母に白髪染めを強いた。家で染めるのを手伝うたびに、地肌まで茶色に染まった母を見て、悲しい気持ちになった。
 祖母と父が相次いで亡くなってしばらくたったころ、日々の時間を思うままに使えるようになった母が笑顔で言った。
 「白髪染め、もともと嫌やったし、やめるわ」
 グレイヘアに戻すと、いつも着ていた紺色やグレーの服が似合わなくなった。身長140センチ。百貨店にある小柄な人向けの売り場には地味な色の服しかなく、くすんだおばあちゃんになってしまう。  
 試しにギャップやザラで買った赤や黄色の子供用Tシャツ(無地)を着ると生き生きした。 派手な色の方が似合うのかもしれない。年齢を意識せず、色も形も、母が似合うと思う服をつくったらいいかもしれない、と思った。
 少女用の型紙で、ラベンダー色のリネンで丸襟のワンピースを縫ってみると、思いのほか似合った。それ以降、週末になるたびにわたしは母の服をつくった。

明るい色の服しか着ない

 黄色のコンビネゾン。リバティプリントのサロペット。ピンクやオレンジのプリント生地をパッチワークしたコート。真っ赤なタートルネックのセーター。
 今の母の服は、こんな感じだ。わたしが着たら派手な服も楽々と着こなし、これまで縁のなかったデニムやカラフルなスニーカーをはく。髪型はボブからワカメちゃんカットになり、老眼鏡は赤と紺色のマーブル模様のフレームなど、インパクトのあるものしかかけなくなった。日に日に表情と服装が変わっていく母は言う。
 「わたしはいつも前向きなんやけど、明るい服を着たら、もっと前向きになれる。暗い色の服なんて絶対着ない」

写真09 眼鏡もセーターも明るいものを着るようになった母た
眼鏡もセーターも明るいものを着るようになった母

 そんな母が街を歩くと、不思議と声をかけられる。それも見ず知らずの女性からだ。
 公園掃除をしているのシニアの人、百貨店の塩干コーナーにいた売り子さん、ホームで電車を待つ学生、京都のおそば屋さんで居合わせた50代ぐらいのアメリカ人。
 「うわー、その服、とてもお似合い」
 「声をかけようか、迷いましたが、着てはる服が素敵で、思わず声をかけてしまいました」
 久しぶりに昔の友だちと会ったかのように、母の肩をポンとたたき、ニコニコと笑って声をかけていく。
 わたしは自分でつくった服を着ていても、知らない人から話しかけられたことなんてない。なぜなんだろう。一緒に出かける母を横目で見ているうちに、母の気持ちと服が響き合っているからかもしれない、と思った。
 わたしがつくったことは遠く過去のものになって、母は自分に引き寄せて着ている。完全に母の服になっていた。
 わたしも自分のためにそんな服がつくれるかな。自分自身を客観的に見られないから、とっても難しいに違いない。けれど、自分の気持ちに響き合う服をつくることができたら、服を着ることがもっと楽しくなるはずだ。


【参考文献】

『皇妃エリザベートをめぐる旅 ドイツ・オーストリア・ハンガリー シシィの足跡をたずねて』(沖島博美著、河出書房新社、2016年) 「わたしの1着 9回目 作家 荒俣宏さん アリャマタコリャマタの扮装」(行司千絵)『京都新聞』2018年3月7日。

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著者略歴

  1. 行司 千絵

    1970年生まれ。同志社女子大学芸学部英文学科卒。京都新聞に勤めながら独学で洋裁を習得し、自身の普段着や母、友人・知人の服を縫っている。瀬戸内寂聴さんや志村ふくみさんなど、3〜91歳の80人に服を作った。個展に「母と私の服」(西宮阪急)「おうちのふく」(フォイルギャラリー)「まだ見ぬあなたに作った服」(誠光社)など、著書に『おうちのふく』(FOIL)など。『図書』2018年11月号・12月号に「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」を寄稿。

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