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アカデミアを離れてみたら

アカデミアを(半歩)離れてみたら〈アカデミアを離れてみたら〉

坪子理美 (フリーランス翻訳者)

未知の世界に心惹かれて

 物心ついたときから、いつも活字に引きつけられていた。手に届くところにある本は片っぱしから読み、毎朝、大人の新聞を開いては、読み方もわからない言葉の意味を紙面から吸い上げようとした。
 幼いころには眩しい夢を、鬱屈とした思春期にはかすかな希望の光を、たくさんの本の中に見た。いま生きているのとは別の世界を、自分でも作り出したかった。4歳にもならないころ、親戚の書店からもらった分厚い つかほん(中が白紙の書籍見本)に絵や文字を書き始めたのが、私の初めての「著書」だった。

学生時代の机の上。一番右が、子供時代に書き始めた「著書」。
学生時代の机の上。一番右が、子供時代に書き始めた「著書」。

 一方、自然科学、とりわけ生物学は、自分にとって最も縁遠いものの1つだった。野山と川に囲まれて育つ中で、そこに生きる命はあまりに当たり前に感じられた。
 それが一転したのは、高校に入学し、生物の授業を受けるようになってからだ。授業のペースはかなり速く、出てくる用語や式も多かった。だが、元研究者だという先生が楽しげに語る話からは、進化のプロセスや体内での化学反応など、生物の多様な姿の背後にある未知の世界が見えてきた。「当たり前」のものの陰には、それを支えるしくみが隠れている。そう認識したことで、学問としての生物学への関心がにわかに生まれてきた。

慎重に研究の道へ

 高校生活の後半に入ると、進路について聞かれることが増えた。生物学への興味は深まっていたが、私は慎重だった。つい最近好きになったばかりのものと、これから長年の付き合いを結べるのかどうか。そんな中、細かい専門分野を決めずに受験できる大学もあると知り、前に進みながら考えるという選択肢をとれたのは幸いだった。大学の教養課程で学び、学部説明会や研究所見学を経て基礎生物学分野の進路を選んだ後も、ことあるごとに「まだ生物の研究をしたいか」と自分に問いかけた。「したい」という答えが浮かべば、次の日もまた研究に向かう。
 そして、大学院に進学して2年目、ついに答えが「わからない」に変わるときがきた。高校のクラス会の席でのことだった。その晩のうちに、私は大学院を休学することを決めていた。
 当時、研究室で過ごしていた時間は1日8時間ほど。遅くまで研究室に残るタイプではなかったが、人や環境に恵まれてトレーニングを重ねる中で、力がついた実感はあった。だが、クラス会で再会した旧友たちと話すうちに、前から好きだった文章のことにはほとんど時間を使ってこなかったと気づいた。研究のように、こちらにも集中して取り組んだらどうなるだろうか。先に社会人になった同級生の、「これまでまっすぐ進んできたんだから、少し寄り道してもいいんじゃない」という声も後押しになった。
 休学中は、アルバイトをしながらエッセイや小説を書く練習をした。高校の友人には拙い文を読んでもらい、会社員をしながら文学誌への投稿を続けていた別の友人からは、直接、間接に技術を学んだ。半年後、研究室に戻ったときには成長の手応えがあった。ただし、それはほぼゼロからの進歩であって、売り物になるレベルからは程遠かった。

翻訳(者)との出会い、そして渡米

 では、学位をとった後はどう生きていくのか? 
 休学を経て、自分は100パーセントの研究者ではないとも感じ始めていた。アカデミアの研究者でなければ、企業に就職するのか、官庁で働くのか。研究の合間を縫ってインターンシップに参加してみると、自分には組織に入り込む生活が向かないことに気づいた。たとえ素晴らしい組織でも、その理念や制度に違和感を抱くと、途端に息苦しくなってしまう。
 翻訳という仕事に出会ったのは偶然だった。大学院の制度を通じて、海外の製薬会社が主催する研修プログラムに参加した帰りのこと。飛行機でフランス語のアナウンスが理解できずに困っていると、ポケットの多いベストに半ズボンという、探検家のようないでたちの人物に助けられた。お礼を言うと、相手はいきなり「最近、遺伝子のことに興味があるんですよ」と言う。この謎の人物としばらく遺伝の話をしたが、あまりに話が盛り上がるので不思議に思われたらしい。自分は学生で、行動遺伝学の研究をしているのだと伝えた。
 「卒業したらどうするの?」
 「本当は、本のことに興味があるんですけど」
 するとその人物は「出版はね……大変だよ」と訳知り顔で言う。よくよく話を聞くと、彼は自営業のかたわら、何冊も翻訳書を出している仏日翻訳者なのだった。語学学校でフランス語を一から学び、これまで経済や社会学の本を手がけてきたが、最近、遺伝学に関わる本を訳すことになった。フランス政府の支援を受けて原著者の元で勉強してきたものの、わからないことも多いという。
 「経験豊富なプロにもできないことがある」
 これは大きな発見だった。そして、翻訳の仕事にも面白さを感じた。本に関われること。研究経験を生かせる可能性があること。自分にはフランス語はできないが、英語ならある程度学んできた。
 翌年、米国から大学に講演に来たある研究者から、「ジャーナリストと組んで一般向けの本を出した」という話を聞いた。読んでみると面白い。自分にも翻訳できるのでは? いま思うと無謀な考えだが、例の翻訳者(林昌宏氏という)に相談すると、出版社に話をつないでくれた。編集者の方にも丁寧に向き合っていただいた結果、初めての翻訳企画が動き始めた。
 博士課程の最後の1年は、いま振り返ってもめまぐるしいものだった。研究をしながら翻訳を行い、その間、ふとしたきっかけでポスドク研究者と親しくなって結婚することに。海外での研究に挑戦しようとしていたその相手とは、話し合いの結果、ともに渡米することになった。だが、その準備中に私は急病で入院し、手術後のベッドの上で博士論文の執筆と翻訳を進めた。結婚式、学位授与式、米国への引っ越しを10日間で終え、カリフォルニア州サンディエゴでの生活が始まったのは2015年春のこと。初めて自分で訳した本は、同年12月に刊行された。

翻訳:著者と読者、両方の視点から

 博士号を取得してから5年が経った。これまで、翻訳会社を通じた翻訳・校正や、日本語補習校(海外に暮らす児童・生徒を対象に、週末に日本のカリキュラムで授業を行う)の教員などの仕事を並行して行いながら、自分で選んだ本を翻訳出版につなげてきた。
 主な収入源となる翻訳会社経由の仕事は、渡米直後にオンラインでテストを受けて始めたものだ。名前の出ない裏方として科学ニュース記事などを翻訳し、3年目からは他の方の訳文を手直しするようにもなった。日本語補習校での指導も含め、多様な内容・文体の文章に触れることが、実地での良い訓練になった。
 一方、書籍の翻訳は、本探しから出版社への企画提案、翻訳までを自分で行う。これは、先述の林氏譲りの少々変則的なスタイルである(それを知ったのは、翻訳を始めて何年か経ってからだった)。選ぶのは、科学を基盤に置いた一般向けの本、そして、自分自身がぜひ日本の読者に届けたいと思った本だ。出版カタログを見たり、学会の出版社ブースで編集者の方と話したりと、いくつかの経路で目星をつける。続いて、本の特性や読者層を考えながら、日本の出版社の編集者の方に本を紹介する。この間、原書の出版社や、翻訳出版権の管理事務所を通じて、すでに他社で話が進んでいないことを確認しなければならない。日本の出版社で企画が承認され、日米の出版社間で契約が結ばれて初めて、選んだ本を訳すことができる。
 本を翻訳する上では、著者と読者、両方の視点に立つことを心がけてきた。
 博士号を持っていることで、原著者たちには「内容をきちんと理解した上で訳してくれる」という信頼感を持ってもらえているようだ。彼らには日本の読者に向けた序文を書いてもらうなど、本づくりにも協力してもらっている。
 一方、読者の視点から考えるのは、何より、本のハードルを下げることだ。専門用語や文化の障壁を、訳注や解説によって減らす。言葉の選び方や順序を工夫することで、文章を少しでもわかりやすくする。こうした仕事を重ね、出版社からは、他の方が訳した本の校正依頼もいくつかいただくようになった。
 ただ、頭の中に知識があっても、それを他の誰かに伝えることは簡単ではなく、歯がゆい思いをすることもある。科学研究に取り組んできたことはもちろん、本を読みふけり、手探りで文章を書いてきた経験も力に変えていきたい。

これまで翻訳などに関わった本。
これまで翻訳などに関わった本。

研究:雇われないことによる自由と責任

 翻訳の仕事が本格化する前には、研究関連の仕事をする可能性も少し探っていた。
 渡米前後に公募情報を調べてわかったのは、米国では研究資金の「選択と集中」が日本以上に進み、特定の分野(例えば、がん、糖尿病、認知症など、米国人に多い疾患の研究に関わるもの)以外では予算も職も限られているという現実だった。話を聞きに行った研究室では魅力的な材料にも出会ったが、やはりスタッフの募集はしていない。ただ、自前でフェローシップをとってくるか、共同研究という形でなら何かできそうだという。
 そこで、インターネットや知人を介して情報を集めてみると、日本の民間助成制度の中に、研究機関に属していないなど、通常の支援を得にくい立場の研究者でも応募できるものがいくつか見つかった。数十〜100万円ほどの助成金を、物品購入費、学会参加費、論文掲載料などに充てることができる。ただし、給与は出ない。
 少し悩んだが、研究はもともと個人的な関心から始めたことだ。パートナーの理解もあり、仕事ではなく、真面目な趣味として取り組むことに決めた。2015年には住友財団、2018年には水産無脊椎動物研究所(いずれも日本の公益財団法人)から助成をいただき、4年間にわたって現地の研究者との共同研究を行った。仕事と研究の時間配分はおよそ7:3といったところ。週に2、3回、数時間ずつ、研究室に滞在して実験や解析を行う。実験サンプルや設備を使う都合から、先方の研究室には無給の研究補助員(volunteer)という肩書きで籍を置かせてもらった。研究機関に所属したことにより、文献や研究会へのアクセス、責任著者としての論文投稿(無所属での論文投稿を受け付けていない学術誌も多い)などの恩恵を得ることもできた。

カリフォルニア大学サンディエゴ校付属スクリップス海洋研究所から。。
カリフォルニア大学サンディエゴ校付属スクリップス海洋研究所から。実験の帰り道、いつも違った表情を見せる海に励まされる。

 雇われていないことによる研究の自由は何物にも代えがたい。限られた時間の中、筆頭・責任著者として2本の論文を発表することができた一因には、先入観にとらわれずに対象に向き合えたこともある。
 もっとも、主流派でないからこそできる発見もあるとはいえ、それを共有するためには、主流派と同じ土俵に立つ必要がある。幸い、アカデミア研究者との共同研究という形をとったことで、ディスカッションや論文執筆の相談には快く応じてもらっている。今後も成果を発表する上では、専門家と議論し、学術誌での査読を経るなど、質を担保するための過程を踏んでいきたい。

「何になりたいか」ではなく「どうありたいか」

 子供のころから、「将来の夢」を聞かれると困っていた。何か具体的な職業を挙げなければならないような気がしたからだ。私の考えを一番よく表しているのは、小学校の卒業文集に書いたこの「夢」かもしれない。
 「主役と裏方の中間のような仕事につきたい」
 頭の中心にずっとあったのは、「何になりたいか」よりも「どうありたいか」だ。いま振り返れば、アカデミアの研究者になるのか、企業や官庁に就職するのかと問われていたときも、悩みの元はそこにあったのだろう。
 「どうありたいか」を中心に考える姿勢は、仕事に就く上では少々厄介だ。組織の中で理想を実現できれば幸運だが、自分の場合はあいにくそれも難しかった。
 試行錯誤を重ねる中でいま実感しているのが、物事を組み合わせることの力だ。ある分野だけでは実現できないことを、別の分野でも追求する。自分一人では叶わないことを、人や組織とのゆるやかなつながりを通じて形にしていく。翻訳者としての自分の強みも、経験や働き方の複合性にあるのではないかと思う。「届けたい本を訳す」というスタイルがとれるのは、他に生活の支え、心の支えがあるからこそだ。関心や活動を分散させることで、かえって個々の対象に真摯に向き合える場合もある。自分とは違い、ポスドクとして研究一本で進むパートナーとの暮らしも、良き着想源であり、支えになっている。
 複数の仕事や活動のバランスをとることは確かに(かなり)難しいが、私個人の実感としては、生き方を1つの枠に収めつづけることのほうがもっと難しい。手探りで社会に出てから5年、収入やキャリアの安定にはまだ遠いが、心の安定感は驚くほど大きかった。今後はその安定の上に、さらなる技術と独自性、そして、経済的な安定も築いていきたい。


【つぼこ・さとみ】

1986年生まれ。東京大学大学院理学系研究科にてメダカを用いた行動遺伝学研究を行い、博士号を取得。現在は翻訳業の傍ら、シオダマリミジンコ属の生殖行動を研究。訳書に『なぜ科学はストーリーを必要としているのか──ハリウッドに学んだ伝える技術 』(ランディ・オルソン著、慶應義塾大学出版会)、『性と愛の脳科学──新たな愛の物語 』(ラリー・ヤング、ブライアン・アレグザンダー著、中央公論新社)など。現在、夫の石井健一と共著で『遺伝子命名物語』(仮題)を執筆中。

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