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3.11を心に刻んで

片山夏子〈3.11を心に刻んで〉

母親からは「いつまで福島第一で働いているの」と言われる。ばあちゃんも心配する。でも、人が集まらないなか、現場を離れるわけにはいかない。誰かがやらなくては。今も高線量下で働いているとは、家族に絶対に言えないけど。
(2014年3月、原発事故前から働く30歳の地元作業員ハルトさん(仮名)の言葉。片山夏子『ふくしま原発作業員日誌──イチエフの真実、9年間の記録」朝日新聞出版)
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東京電力福島第一原発の事故から5カ月後の2011年8月以降、福島第一原発で働く作業員の取材を続けている。
  地元作業員のハルトさんは、高校卒業後から福島第一や第二などの原発で働いてきた。「小さいときから原発があるのが当たり前で、働いている親戚もたくさんいた。そこで働くのが俺にとって当たり前だった」という。原発事故が無ければ、原発から数キロの自宅で家族とずっと暮らし、そこから仕事に通うはずだった。原発で働くことは誇りだった。だが東日本大震災と原発事故が起きる。
 事故直後、現場の線量もわからないなか、ハルトさんは率先して働いた。高線量下で被ばく線量が高く長時間働けないときは、自ら線量計を持たずに現場に行ったこともある。原発で働いてきた自分たちが何とかしなくては、という強い思いに突き動かされていた。
 「逃げることは考えなかった」というハルトさんは、あっという間に何年分もの被ばくをする。そして事故後の被ばく線量が50mSvを大きく超えたハルトさんは、競争入札で仕事が取れなかった会社社長から「しばらく失業手当で食べてくれ」と頭を下げられ、解雇される。親のことを思い、結婚も考えるが、被ばく線量が高いことを告げると、それでもいいと言ってくれた人はいなかった。原発の仕事が気になっても、被ばく線量が高く、戻れない。除染や家屋解体、いろいろな仕事を探して働くうちに、ふさぎ込むようになる。そしてある日、ハルトさんの中で何かがぷつっと切れ、働けなくなる。それが1年以上続いた。
 被ばく線量上限に近づいたり、所属会社が仕事を取れなかったり、作業の中止や延期で解雇されるたびに、作業員たちは「自分の存在は被ばく線量だけ」「俺らは使い捨て」と嘆いた。事故初期、解雇におびえながら暮らす地元作業員のリョウさん(仮名)は「事故後ずっと不安。流されて生きている」とつぶやいた。リョウさんの幼い娘は転々とする避難先で、なかなか新しい土地に馴染めなかった。学校に行きたくないと泣く娘を、担任の先生は慣れるまで毎日抱っこして授業をしてくれた。娘の「もう引っ越したくない」という言葉を聞き、リョウさんはその土地で生きていくことを決め、福島第一原発を気にしながらも、雇用が安定しない原発の仕事から離れることを決意する。被ばく線量が高いときに授かった子が生まれるまでの間、被ばくの影響が出ないことを祈るように願っていた若い作業員もいる。
 事故から9年。敷地全体の放射線量が下がり、危険手当の額は下降の一途をたどる。一方で、溶けた核燃料の取り出しに向け、原子炉建屋など超高線量の現場もあり、一人ひとりの被ばく線量を下げるために人海戦術で作業をしているが、それでも作業員たちの被ばく線量が上限に達するまでの期間は短く、現場で長く働き続けることはできない。また、他県から福島に駆けつけた作業員や、避難する家族と離れて原発で働く地元作業員のなかには、離婚する人も少なくなかった。
 それでも「一日も早く福島第一を何とかしたい」「いつか故郷に帰りたい」「子どもたちが安心して暮らせるようにしたい」という思いで働く作業員たちがいる。今は新型コロナ感染拡大の影響で中国の工場で作っていた防護服が調達できなくなるなか、現場では防護服の代わりに移動時に着ていたカバーオールや雨カッパで作業を進めている。原発事故が起きたとき、そこに暮らす作業員やその家族に何が起きるのか。今この瞬間も働き続ける作業員たちを、今後も追い続けたい。
 
(かたやま なつこ・東京新聞記者)

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