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3.11を心に刻んで

林 香里〈3.11を心に刻んで〉

私たちは意外に、わからないことを書けないのです。つまり、わかったことしか書けない。あるいは、わかった風にしか書けない。わからないことを読者に伝わるよう書く技術がないのです。放射線もそうですが、実際は、わからないことが次々出てきて、どう書いていいか、戸惑うことが実に多かった。
(吉田慎一・朝日新聞社上席役員待遇編集担当(2011年3月11日当時。林香里ほか、災害と報道研究会『トップが語る3・11報道──主要メディアは何を考え、何を学んだか』より))
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「わからないことを書く」
 メディアは「わからない」という言葉が書けない。そういうことを私たちは普段からどのくらい意識しているだろうか。メディアは大震災のとき、わからなかったことを書けないまま、あたかもわかったかのように政府と東電の情報を記事と番組で出し続けた。その結果、原発事故では福島に多くの人を取り残し、メディア自身も信頼を失った。
 私たちは、どういう情報を得れば「わかる」と感じるのだろうか。納得のいく「事実」は、どこで生まれ、どう流通していくのか。近年話題となっている「フェイクニュース」という言葉が出回るはるか以前から、哲学や社会学の分野では、「事実」の権力性、ゆらぎや多義性をめぐって長く議論が戦わされてきた。それなのに、私たちは毎日つい「わかること」に固執するあまり、「わからないこと」への想像力を後回しにする。
 「事実」のオントロジーを問題にしてきたのは、学者だけではない。むしろ、そのことをもっとも切実に感じとってきたのは、自分たちの生が「事実」として承認されない人たちだ。たとえば、言葉も文化も異にする異国暮らしの外国人出稼ぎ労働者たち、「不道徳者」と差別されてきたシングルマザー、男女という社会秩序に合致しない性的少数者たち、苦しみが日常になって生きる難病をもつ人たち。多様な生への理解が進まないのは、記者たちがわかったことしか書けない、わかった風にしか書けないことと関係しているように思う。
 大地震が起きたちょうど9年後の2020年、世界中で新型コロナウイルス感染の拡大が止まらない。データの裏付けもあいまいなまま発出された「緊急事態宣言」は、不安を残したまま解除されたが、経済的格差と社会的差別の苦しみを背負う人たちの肩に一層重荷を背負わせることになった。
 メディアのみなさん、政府といっしょになって日々の感染者数を読み上げるぐらいなら、どうか私たち市民といっしょに声を上げてほしい。いま、その政策が、この状況が「わからない」んだと。
 
(はやし かおり・ジャーナリズム/マスメディア研究)

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