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行司千絵 服のはなし

1着が示唆するもの〈服のはなし〉

15年着ているコート

 5年前に京都にあるカフェ雨林舎でお茶をしていたとき、店主の奥田千帆さんから声をかけられた。
 「わたしのコート、ボロボロなんやけど、どうやったら修理できるかな」
 見せてもらうと、制服のような紺色のウールのコートで、ポケットのステッチ刺繍などがすり切れていた。15年間着ているというので「そんなに長く!」と思わず言うと、奥田さんは照れたようにして笑った。
 「小学校に着ていたカーディガンがまだあるよ。服の数は少ないけど、好きな服は長く着てるんです」
 わたしは知人や友人に服をつくるとき、お気に入りの服やアイテムを聞いている。
 ホホホ座浄土寺店の山下賢二さんは中学2年生ときからのこだわりで、砂色といった淡い色のコンバースをはき、黒か紺、茶色のトップスを着るという。
 コムデギャルソンを着こなす僧侶の羽賀浩規さんは、冬になると自分で編んだニット帽やマフラーを身につける。不器用さを克服するため編みものをはじめると、その面白さにはまってしまい、電車で移動するときにお坊さんの姿のままで編んだという。
 それぞれの人がそれぞれに、おしゃれへの思いを持っていた。世界で数えきれないほど服がつくられているけれど、ひとりひとりにかけがえのない1着があるのかもしれない。人が服にこめる意味を知りたくて、わたしは新聞でインタビュー連載「わたしの1着」をはじめた。

ザイールでつくったアバコス

 最初に訪ねたのは、ゴリラの生態研究の第一人者で京都大学総長の山極寿一さんだった。山極さんの妻で、絵本作家で画廊も営むふしはらのじこさんから、アフリカに滞在していたときの服が今も手元にあると教えてもらい、興味を持った。
 「思い出がある服はとっています。1着だけじゃない。100着以上ありますよ」
 山極さんはにこやかに出迎えてくれた。ゴリラを追跡している時に着ていた服や、ゴリラにかまれた跡が残るズボンもあるという。
 あえて選んでくれたのが、アバコスという名前の男性用シャツ。アフリカ大陸の土地をはじめて踏んだ1978年に、ザイールでつくった男性の正装だった。

写真01 いしいしんじさんにつくったコート。革や猪熊弦一郎の風呂敷をアップリケにつかった
アバコスを着た山極さん=左から2人目(1981年ごろのナイロビで、山極さん提供)

 アフリカの国々は長らくヨーロッパ諸国から植民地支配を受けた。ようやく独立を果たしても、ヨーロッパの文化よりもアフリカの文化は低いという考えを押しつけられてきたために、アフリカの人たちは自分たちのルーツや文化に誇りを持てないでいた。
 ベルギーから1960年に独立したザイールも、それはおなじだった。独立の5年後にクーデターで実権を掌握したモブツ大統領(当時)は、文化回復の政策である「オータンティシテ」を採り入れ、ベルギー王の名前がつけられていた首都名をキンシャサに変えたり、ムッシュウ、モドモワゼルという呼称を市民という意味のシトワイエン、シトワイエンヌにしたりした。フランス語で「コスチュームを捨てろ」という意味のアバコスも、オータンティシテから生まれた服だった。
 「ネクタイを締める西洋風のコスチュームを捨てて、ネクタイがいらない人民服と似た服にしたんです。モブツは当時、毛沢東にとても傾倒していましたから」
 人民服といえば紺色やカーキ色の無地の服をイメージするけれど、おしゃれに敏感なザイールの男性はさまざまな模様の入ったアバコスを楽しんだ。ちょうどディスコが流行していて、シックな色目のアバコスを着た男性たちが家々に集まってレコードを聞きながら踊った。その姿に山極さんは見とれてしまう。
 「すぐにほしくなりました。僕はそれまで外見にこだわったことがないし、服をファッションとして着たことがない。野暮だったんですね。でもザイールの男性を見て、男がおしゃれをするのはかっこいいとわかりました」
 山極さんは早速、服店へ向かった。当時、ザイールの服店といえば屋台形式だったけれど、オーダーメード方式で縫製はとても丁寧だった。体型にぴったり合ったアバコスを着た山極さんに、ザイールの人たちは「おお! ヤマギワ、やったねー」ととても喜んだという。
 ザイールからコンゴ民主共和国となった今、アバコスを着る人は少なくなった。独裁をふるい、政治を腐敗させたモブツ大統領を連想させるためだ。とはいえ、コンゴの男性たちのおしゃれは健在だ。隣国のコンゴ共和国とともに「サプール」と呼ばれる集団が世界から注目を集めている。高級ブランドのスーツやアバンギャルドな服を着こなして、世界一のジェントルマンと呼ばれるほどだ。
 サプールがジェントルマンと呼ばれるのは、たぐいまれなファッションセンス持つからではない。内戦が断続的に起きるなか、武器を捨て、決して暴力をふるわず、平和を尊ぶために美しい服を着るからだ。サプールは今、コンゴで平和の象徴になっているという。

ゴリラから教えてもらったこと

 山極さんはいろんな国を訪ねるたび、その土地の文化を好きになるために、地元の人が語る言葉を話し、地元の人が口にするものを食べてきた。
 「衣食住をともにするのは大切なことです。とりわけ服を着るとは、その国の文化のなかに入るということ。はじめてファッションとして着たアバコスで、みんなと一緒に踊る。文化に染まるという、とても楽しい思いをしました」
 こんなふうに考えるのは、30年以上熱帯雨林で行動観察を続けてきたゴリラ研究の影響が大きい。山極さんはゴリラの文化に自ら進んで入ることで、未知なる世界の扉を開いてきた。
 「人間ですから、ゴリラの毛皮を着るわけにはいかないけれど、身振りはまねる。ゴリラの言葉も話すしさ」
 ジャングルでフィールドワークをするとき、山極さんにとっての服は植物のトゲなどから身を守る道具のようなものという。暑がりなので、服を着ないですむゴリラはいいな、と思うそうだ。
 「毛皮って最高のものだね。暑さにも寒さにも通用する。シラミは仕方がないけれど、蚊も入り込めないほど虫に強い。風呂を浴びる必要もないしさ、毛皮はいいなぁ」

風呂敷でつくったツーピース

 次にはなしを聞いたのが作家の瀬戸内寂聴さんだった。瀬戸内さんといえば今は法衣姿で知られているけれど、51歳で出家する以前は粋な着物や洗練されたワンピースを着こなした写真ばかりだし、取材で拝見する私服姿は赤色のフィッシャーマンセーターや小花模様のTシャツで、とてもおしゃれな人だ。

 思い出の1着は、26歳の夏につくった風呂敷のツーピースという。

風呂敷で作ったツーピースを着る瀬戸内さん
風呂敷で作ったツーピースを着る瀬戸内さん(1948年ごろ、寂庵提供)

 その数年前、瀬戸内さんは夫との教え子と恋に落ちた。プラトニックな関係だったけれど、愛に苦しみ罪の意識にもさいなまれて、夫にありのままをうち明けた。
 夫は2人の関係を断ち切るため、瀬戸内さんと幼い娘を連れて、徳島から東京へ移る。でも瀬戸内さんの想いは変わらず、1948年2月のとても寒い日、家を出ると決めた。
 「夫から『オーバーを脱いでいけ、財布も置いていくように』と言われました。オーバーは、進駐軍の古い服を自分で縫い直したものだったの。カーキ色のウール地でとても暖かい服だったけれど、置いてきた」
 3歳の娘を残しての出奔だった。覚悟を持って京都へ向かったものの恋人は現れず、思い描いていたあたらしい暮らしは実現しなかった。
 京都には東京女子大学時代の友人が住んでいた。瀬戸内さんは北白川にあった友人の下宿先に身を寄せ、大翠書院という出版社に勤めながら、自立する道を模索する。風呂敷のツーピースをつくったのはこのころだった。

下着も手づくりした

 着の身着のままで家を出たので、栄養失調になるほど暮らしは厳しかった。ある日、茶色で縞模様の風呂敷を2枚もらい、服にすることを思いつく。
 「風呂敷でスカートとブラウスをつくったの。ミシンがなくて手縫いだけれど、折って縫うだけだから、ひと晩でできた。木綿の生地だから着心地は良かったわね。みんなが『どこで買ったの?』とほめてくれるほど、とってもよく似合った」
 瀬戸内さんのおしゃれの原点は母のコハルさんにさかのぼる。瀬戸内さんがおさないころには姉とおそろいのワンピースを縫い、大学に進学すると、しゃれた服を徳島であつらえては東京に住む瀬戸内さんのもとへ送ってくれた。
 瀬戸内さん自身も手先が器用で、高等女学校時代には中原淳一のスタイル画を参考にして服を縫った。新婚時代は着物をほどいてこどもの布団をつくり、編みものもした。
 「大翠書院に勤めていたころ、えんじ色の布団皮でロングドレスもつくりました。レースをつけたり袖を膨らませたりして、周囲からも評判でした。木綿のシャツをつぶしてブラジャーもつくったの。お金のある人は買っていたけれど、わたしは余裕がなかったから」
 その後の人生を瀬戸内さんは自らの手で切り開いてきた。デビュー直後の『花芯』が批判され、出版社から5年間執筆依頼が途絶えても、ペンを折らなかった。女性の職業作家として経済的にはじめて自立した田村俊子やアナキストとして生きた伊藤野枝など、近代の女性たちの生き様に光を当てた評伝文学を書き続け、作家の地位を築いた。湾岸戦争がおこった1991年には医療品を持ってイラクを訪ねるなど、社会的な活動も数多い。
 好奇心は絶えることなく、クロックスをはいたりインスタグラムをはじめてみたり。5年前、わたしが自分でつくったコンビネゾンを着て取材をしていると、ふいに声をかけられた。
 「それすてきね。わたしも着たいからつくってください」
 えっ?……。戸惑っていると、瀬戸内さんはにこやかに言った。
 「あなたがいいと思うものを自由につくってね。なんでも着こなしますから」
 おずおずと黄色のリネンでサロペットをつくってみると、瀬戸内さんは言葉通り、いとも簡単に着こなした。
 「風呂敷のツーピースを着ていたころ、作家になるメドが立たず、人生でいちばん貧乏でした。とにかく生きることが大事だった。そんなわたしを支えてくれたひとつがおしゃれです。自分が好きな格好をしたら、心が明るくなるからね」
 瀬戸内さんは今年5月に98歳をむかえた。雑誌や新聞で連載をかけ持ち、生きることに思い悩む人たちの思いに寄り添い続ける。そして、ひとりの自立した人として、嵯峨・寂庵で暮らしていている。

サハラ砂漠で出合った服

 京都は伝統芸能が息づいた土地で、おりに触れて能や京舞の舞台を目にする。おしゃれに定評のある狂言師で三世茂山千之丞さんにとっての大切な1着ってなんだろう。松の絵がある稽古場に向かうと、青いサルエルパンツが置いてあった。
 「着物とか予想されてました? むしろ、この服以外に思いつくものがありませんでした」
 そう言って茂山さんはにこやかに笑った。同志社大学1年生のとき、休学して世界を巡るひとり旅に出てその旅先でもらった服という。
 ひとり旅は中学3年生からの夢だった。放浪の旅をテーマにした『オン・ザ・ロード』や『深夜特急』を読んで影響を受けた。ルーマニアのロマバンド、タラフ・ドゥ・ハイドゥークスの来日ライブで感激してメンバーが住むルーマニアの村を訪ねてみたいという気持ちもあったし、生まれ故郷の京都から離れてみたいという思いもあった。
 まずフランスに入るとスペインを経て、モロッコへ足を伸ばした。モロッコは1950〜1960年代のカウンタカルチャーに影響を与えたビートニク文学のゆかりの場所。それこそ、旅のきっかけになった『オン・ザ・ロード』の作者ジャック・ケルアックは、ビートニクを代表するひとりだった。
 マラケシュで滞在していると近くにサハラ砂漠があると気づき、茂山さんは小学3年生から中学1年生のときに体験したサマーキャンプを思い出した。アメリカのユタやニューメキシコをキャラバンでまわったという。
 「赤土の荒野や砂漠で野宿しました。自分以外の生き物が動いていない土地での日の出や星空がとてもきれいで。それ以来、砂漠や荒野が好きになりました」
 サハラ砂漠を見るために、入り口部分にあたるちいさな村へ足を行くと、村人から「ラクダツアーに行かないか」と誘われた。砂漠を目にすることができれば良かった茂山さんは申し出を断ったものの、宿の人と食事をともにし、夜に村人たちとパーカッションを楽しむうちに、ラクダツアーに参加しないと申し訳ないかな、という気持ちに変わった。
 最短の1泊2日コースに参加するため、ジーンズで集合場所に向かうと、ラクダ乗りをしているベルベル人のおじいさんから待ったをかけられた。おじいさんは自宅からサルエルパンツを持ってくると、それに着替えるようにうながした。
 「ゆったりとした服じゃないとだめなんですね。おじいちゃんの私物をくれたのだと思います」

ウエストや裾に刺繍をほどこしたサルエルパンツ
ウエストや裾に刺繍をほどこしたサルエルパンツ(京都新聞社提供)

 出発すると、風景は砂一色の世界へと変わった。砂漠の表面は風に吹かれて生きもののように刻々と表情を変えていく。乾いた大地にサルエルパンツはこのうえなく快適で、茂山さんは星空の下で野宿した。
 ひとり旅は約10カ月かけて20カ国ほどを巡り、気がつけばサルエルパンツは大切な相棒になっていた。
 「日本を出るときは、あれもいる、これもいると思っていたのに、旅のあいだにどんどん減って、ズボンはデニムとサルエルパンツだけになりました。くるっと巻くとコンパクトになるし、軽いですから」

ものは朽ちていくままに

 さりげなくひねりを効かせたおしゃれをする茂山さんだけれど、実は買い物は苦手という。行きつけの店に半年に一度出向いて5分ほどで決めてしまう。形が気に入れば色違いで買うことも珍しくないそうだ。
 「服って、人に見せるものではなくて、自分がいいと思っているのを着ると、そうじゃないものを着ているときより、パフォーマンスが上がるように思います」
 サルエルパンツはそんな思いを象徴する1着で、今も現役のふだん着だし、これを着て稽古するときもある。好きすぎてひんぱんに着るので、穴があいたりほつれたりして、おなじ形のものをつくったほどだ。
 「ものは朽ちていくままにと思っています。使い混むうちに穴があくのは、僕もおなじように年を取っているということ。そもそも穴があいているものを格好悪いとは思わない世代ですし」
 茂山さんにはなしを聞いたのは、三世千之丞の襲名を半年後に控えた2018年夏だった。襲名したら服装も変わるのだろうか。たずねてみると、茂山さんは「変わりませんね」と穏やかに言った。
 「人の趣味って、高校生や大学生のときにある程度決まるんじゃないでしょうか。多感な時期に文化的な影響を受けたものが、いつまでも残るように思います」
 茂山さんのはなしを聞きながら、10代で読んだメアリー・ポピンズがわたしにとってのファッションアイコンだと気づかされた。銀色のボタンがついた青い上着やボタンがついた茶色のキッドの靴などメアリー・ポピンズが身につけたものが、あこがれのアイテムとして今も心のなかにある。

集団スポーツは苦手だった

 わたしは幼いころから海外の物語が好きだった。知らない人が紡いだ物語でも、おなじみの人が訳していれば手に取ることが多い。
 現代アメリカ文学の翻訳家で同志社大学教授である藤井光さんもそんなひとりだ。アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』や、デニス・ジョンソンの『海の乙女の惜しみなさ』など、心にのこる作品を次々と紹介している。
 藤井さんには以前、アメリカ文学事情をテーマに取材をしたことがあって、温厚な人柄が印象に残っていた。久しぶりに研究室を訪ねると、中学校時代の部活動からはなしが始まった。準硬式野球部に入っていたという。
 「野球を選んだのは今も謎ですが、ひょろっとした体型だったので体が強くなったほうがいいのかなと思ったような記憶があります」
 メンバーが一致団結して戦うこと。ときには体を張ってボールを受け止めること。上下関係が強いこと。最初から輪があることに苦手な藤井さんは入部早々に「集団スポーツは自分の世界ではないな」と気がついた。
 部員の数が少なかったので辞めなかったものの、自分らしさは貫いた。たとえば攻撃のとき。打順は一番だったという。重要なポジションにわたしが驚くと、藤井さんはほほえ笑みながら言った。
 「かなめじゃないんです。バットを振るのが好きではないですし。まだピッチャーの制球が定まってないので、しばらく待っているとフォアボールになる。出塁率が高いんです」
 スライディングは一度もしなかった。普通に走るのと到達時間が変わらないのであれば、走ったほうがいいと考えたからだ。
 「各選手をワンフレーズで紹介することが文集かなにかであって、僕の記憶が正しければ、冷徹な精密機械と書かれていました。精密かどうかは別として、たしかに熱いゲームをしたことはありませんでした」

価値観が異なっても仲間

 集団スポーツは苦手でも体を動かすことが好きだったので、藤井さんは高校に進学するとテニス部へ入った。テニスは中学校の体育の授業でもっとも手に焼いた。克服するために選んだ種目だったものの、いざやってみると、個人主義的でぴったり合った。
 技術をひと通り習うと、あとは自由に練習できた。試合に出れば、コートに立ったときからすべてを自分で判断し、試合結果も自ら背負う。ひとりの選手が良いプレーをしてもチームとしては負けたり、監督のサインで動いたりする野球とはまったく違っていた。
 部員も藤井さんと似た考えの人が多く、それぞれに趣味を持ち、テニスを楽しむとさっと帰った。ある日、メンバーから「おそろいのウインドブレーカーを着たいなぁ」と声が上がる。
 「高校のテニス部はユニホームがなくて、各自が白っぽい服を調達すれば良かった。気の合う仲間たちが自発的におなじものを着たいと思ったのは、うれしかったですね」
 カタログを取り寄せて、「どの柄がいい?」「何色にする?」と言いながら、白いウインドブレーカーを選んだ。ひとりひとりのあだ名などを刺繍したという。

高校卒業前のキャンプでウインドブレーカーを着る藤井さん
高校卒業前のキャンプでウインドブレーカーを着る藤井さん=右(1998年に三重で、藤井さん提供)

 テニスを通じて藤井さんは多くを学んだという。ひとつは、ほとんどの技術を独学でマスターしたこと。学術や翻訳の世界に移っても、その姿勢は変わらないでいる。
 「自分に一番いいものって、人に教えてもらってもどうしようもないときがあります。自分でどうにかするしかないのですね。ラケットの持ち方やボールの打ち方は、いろいろやっていくうちにわかっていく。翻訳や大学の勉強もとりあえず自分でしてみる。先生からアドバイスをひとこと、ふたこともらい、さらに自分でやり直す。その繰り返しでした」
 趣味や価値観が違っていても、一緒に過ごすことができる。これもテニスを通じて知ったことだ。テニス部の仲間は高校を卒業すると別の道を進んだ。現在は弁護士、証券マン、医師などの仕事に就いているけれど、1、2年ごとに集まるほど仲が良いそうだ。
 教壇に立つ今、藤井さんは学生たちにもおなじような経験をしてほしいと願う。
 「社会人になると、気の合う人と会いがちになりますよね」と語る藤井さんに、わたしはハッとした。付き合っている友だちは仕事を通じて知り合った人ばかりだからだ。
 「集団としての目標を立てるのは中学生のときに懲りましたし、学生が教師の考え方をコピーするのもいやです。趣味や価値観はてんでばらばらだけど、たまたま共通するものとして僕の大学の授業やゼミにいる。それが理想です」
 藤井さんにとってテニス部の仲間とつくったウインドブレーカーは、自分に合う環境を見つけられた象徴で、今も大切に手元に置いている。

パタゴニアのフリースジャケット

 詩人の岡本啓さんにはじめて会ったのは、第1詩集『グラフィティ』(思潮社、2014年)で中原中也賞とH氏賞のダブル受賞をしたとき。凝ったつくりのベストとニット帽がよく似合っているなぁと思いながら、詩集に込めた思いをインタビューした。
 岡本さんの大切な1着は、2013年に買ったフリースジャケットという。宇宙鉱物学を研究している妻に付き添ってワシントンで暮らしていたころ、パタゴニアの店で見つけた。

アメリカ・イエローストーンを旅したときにフリースジャケットを着る岡本さん
アメリカ・イエローストーンを旅したときにフリースジャケットを着る岡本さん(2013年、岡本さん提供)

 よそ行きではなく、とびきりのおしゃれをするという気持ちのないときに着る服で、買った理由は、軽くて暖かいうえに、便利そうだったから。旅先では寝間着になり、肌寒いときにはおる。
 「獣って、自分がなにを着ているのかをあまり意識しないと思いますが、このフリースジャケットは、自分にとっては獣の皮のような存在かもしれません。着ていること自体、意識をしていませんし、つい最近まで、よく着ていることや、この服に助けられていることさえ気づいていませんでした」
 服を買った年の終わりに、妻とメキシコへ旅に出たときのこと。真冬のメキシコシティに着いたとたん、岡本さんは風邪を引いた。妻にはひとりで観光してもらい、このフリースジャケットを着てベッドに入った。
 「熱にうなされて、すごくつらかったですね。昼間だったので、スタッフがほかの部屋を掃除していたのでしょう。ものすごく大きな掃除機の音と、消臭剤か洗剤のような強烈な匂いが漂ってきたことが記憶にあります」

服が目覚めるとき

 2016年1月のおわりごろ、岡本さんは詩を書くために、1カ月間かけてタイ、ミャンマー、ラオス、カンボジア、ベトナムを旅した。
 「僕は身の回りのことを書く傾向があるのですが、旅に出る前にそれまでの書いた詩を読むと、血や肉といった生存にすごく関わるようなものが登場していないと気づきました」 
 かつて日本の暮らしには、庭で飼っていた鶏をしめ、海や川で釣った魚をさばくことが身近にあった。でも今は、牛や豚、鶏、魚が命を失う瞬間を目のあたりにすることはほぼなく、精肉や刺身といった商品の形で接している。
 「そんな日本にいるので、詩に書かなかったんですね。これは足りていないと思い、旅に出ました」
 ネットには平均気温が20度以上とあったので、サンダル姿で出発した。運悪く大寒波に遭遇し、ラオスのポーンサワンは異例の雪が降った。ゲストハウスではお湯が出ず、体を温めるには手持ちの服すべてを着るしかない。そのなかにこのフリースジャケットもあった。
 「このときも助けてくれたんですね。でも記憶に残っているのはフリースジャケットを着ていたことではなくて、着ていたときに見た景色なんです」
 ゲストハウスを出発して三輪タクシーに乗ると、凍えるように寒いのに運転手の男性は素足のままで、その指は爪が割れていたこと。
 その後に乗った長距離バスでは、大きなズタ袋を持ったおばあさんが乗ってきて、袋からくちばしがのぞいたなと思ったら、鳥が次々と出てきてバスのなかを駆け回ったこと。
 旅は長編詩『巡礼季節』へと昇華し、この詩を納めた第2詩集『絶景ノート』(思潮社、2017年)は萩原朔太郎賞を受賞した
 このフリースジャケットを着ていると、着ていること自体を忘れるという。服の存在を感じるとき、岡本さんは「服が目覚める」と言った。
 「タンスにしまっているとき、服は眠っていて、袖を通したときに目覚めます。よそ行きを着ると、自分も服も目覚めて、お互いに呼応しますよね。でも、このフリースジャケットは寝間着として着ると、服は目覚めているのに、着る側は目覚めていないことが起きる。その違いはすごく大きいし、おもしろいなと思います」
 気配を消して自分を守ってくれる服 ──。わたしにそんな1着はあるだろうか。じっと考えていると、冬の休日に必ず着る茶色のタートルネックセーターだと気がついた。誰にもそんな1着があるのだろう。寄り添ってくれているのに気づかないほど身近な服が。

中学生からファッションが好きだった

 「服ではなくて、靴のはなしでもいいですか?」と思いがけない提案をしてくれたのは朝原宣治さん。2008年の北京オリンピックは陸上男子400メートルリレーでアンカーを務めて銀メダルを獲得し、2019年にはマスターズの男子400メートルリレー(45〜49歳クラス)で世界新記録をマークした陸上の第一人者だ。
 インタビューの日、朝原さんはスタイリッシュなスーツ姿で現れた。カジュアルなトートバッグで崩しながら、茶色の革靴で全体を引き締める。洗練されたおしゃれに「ファッション、お好きですか」と思わず言うと、朝原さんは気さくに答えてくれた。
 「好きですね。自分のお金ではじめて服を買ったのは中学生のときです。ショッピングセンターの服屋さんで、ダンガリーのシャツと薄いピンク色の薄手のセーター、チノパンを買いました。定番な感じですよね」
 ブランド好きだった姉の影響も受けて、高校生のころはDCブランドにはまり、メンズビギやパーソンズ、カールヘルムなどの服をセールで買ったそうだ。おしゃれへのこだわりは陸上競技の面でも発揮され、スポンサーを選ぶときは性能だけでなく、デザインやファッション性も大事にしたという。
 同志社大学へ進学後も陸上を続け、100メートル走で日本記録(当時)を出し、走り幅跳びでも活躍した。しだいに「野球の野茂さんのように、国際舞台で活躍したい」との思いが募り、卒業後は大阪ガスに入社すると、その年の夏に陸上留学する。行き先はドイツ・シュツットガルト。アパートを借り、語学学校に通いながら、鍛錬を積んだ。
 ある日、ちいさなセレクトショップをのぞくと、茶色の革靴を見つけた。創業1879年のイギリスの老舗クロケット&ジョーンズが手がけた靴だった。
 「いい靴なんやろうなぁ、と思いましたが、そのときの僕は高級なイギリスの靴を知らなくて、ずいぶん後になって、靴とブランドが結びついたんです。でも色がきれいで形もいいし、サイズがぴったりだったので思い切って買いました」
 この靴こそ、朝原さんが大切にする1足だった。

1997年ごろ、ドイツで手に入れたクロケット&ジョーンズの靴
ドイツで手に入れたクロケット&ジョーンズの靴(京都新聞社提供)

英国製の靴とボブ・ヘイズ

 朝原さんはファッションの街で知られる神戸市で生まれ育った。幼いころから靴屋さんに行っては靴を見るのが好きで、運動会のときは自分で選んだほどだった。
 「当時は今のように種類もなかったですが、そのなかでも走りやすそうとか、動きやすそうとか、そんな目で見ていましたね」
 ドイツに留学中はスニーカーで過ごすことが多かったものの、クロケット&ジョーンズの靴と出合ってからは、高い技術に裏打ちされた完成度や洗練された美しさに魅了された。ジョンロブ、ジョセフチーニー、チャーチ、エドワード・グリーン、ア・テストーニ、サントーニ、ジェイエムウエストン……。ヨーロッパが誇る紳士靴を少しずつ手に入れていった。
 競技用の靴で記念として手元に取っているのは北京オリンピックのときと、現役最後のレースとなった2008年のセイコー・スーパー陸上大会ではいた2足だけという。それも箱に入れず、がさっと置いている。
 一方、プライベートの服やかばんは物持ちが良く、手入れは欠かさない。ドイツ留学時代に買ったヒューゴボスの革のジャンパーは定期的にクリームを塗るなどして風合いは今もなめらかだ。
 革靴に対する姿勢も変わらない。立て続けにおなじものをはかず、はいたら必ずシューキーパーを入れて休ませ、底が減ると修理に出す。クロケット&ジョーンズの1足も20年間履き続けているけれど、新品同様だ。
 「昔から本質的な良さにひかれるんです。特にいくつもの工程を経てつくり込まれた革靴は、歴史とともに本質的な良さを感じる。普遍的なものが好きなんです」
 普遍的なもの ──。それは走ることにも通じるという。
 「走り方やトレーニングにも流行がありますが、根本的なものは変わらないんです。ボブ・ヘイズ(東京オリンピックで2冠)やジェシー・オーエンス(ベルリンオリンピックで4冠)のフォームは、今見てもまったく無駄がなくてきれいです。大事なものって変わらないし、すごい人ってやっぱりすごい。靴もおなじで20年間履けるなんて、すごいですよね」 
 時間をかけて生み出された技術やその技術でつくられたものには、普遍的な美しさがある。陸上競技と英国製の紳士靴。一見結びつきのなさそうなもののなかに、大切な意味があることをわたしは朝原さんから教えてもらった。

 インタビュー連載「わたしの1着」は2017年7月から2019年4月まで続け、22人に服への思いを聞いた。料亭亭主、漫画家、漫才師、デザイナー、フィギュアスケーター……。その人ならではまなざしが必ずあって、着る人の精神や思想が服と結びついていた。
 わたしはこれまで服を通して手づくりの意味や好みの源流について考えてきた。最終回の次章では服の未来を探りたい。


【参考文献】

「わたしの1着 1回目 ザイールの民族衣装「アバコス」 京都大総長 山極寿一さん」(行司千絵)『京都新聞』2017年7月13日。
「わたしの1着 2回目 風呂敷のツーピース 作家 瀬戸内寂聴さん」(行司千絵)『京都新聞』2017年8月10日。
『瀬戸内寂聴の世界 人気小説家の元気な日々』(編者 平凡社、平凡社、2001年) 『寂聴伝 良夜玲瓏』(齋藤愼爾著、新潮文庫、2011年)
「わたしの1着 3回目 部活動時のウインドブレーカー 翻訳家・同志社大准教授 藤井光さん」(行司千絵)『京都新聞』2017年9月14日。
「わたしの1着 10回目 北京五輪陸上銅メダリスト 朝原宣治さん 20年愛用の英国製高級紳士靴」(行司千絵)『京都新聞』2018年4月26日。
「わたしの1着 13回目 狂言師 茂山童子さん ラクダ乗りからもらったサルエルパンツ」(行司千絵)『京都新聞』2018年7月26日。
「わたしの1着 20回目 詩人 岡本啓さん フリースのジャケット」(行司千絵)『京都新聞』2019年2月28日。

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著者略歴

  1. 行司 千絵

    1970年生まれ。同志社女子大学芸学部英文学科卒。京都新聞に勤めながら独学で洋裁を習得し、自身の普段着や母、友人・知人の服を縫っている。瀬戸内寂聴さんや志村ふくみさんなど、3〜91歳の80人に服を作った。個展に「母と私の服」(西宮阪急)「おうちのふく」(フォイルギャラリー)「まだ見ぬあなたに作った服」(誠光社)など、著書に『おうちのふく』(FOIL)など。『図書』2018年11月号・12月号に「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」を寄稿。

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