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行司千絵 服のはなし

わたしをかたどる服〈服のはなし〉(最終回)

捨てられないTシャツ

 毎年衣替えするたびに、くたびれてしまったので捨てようかと迷い、結局手元に残してしまう服がある。20年ほど前に買ったニット地の黒いTシャツだ。
 あのころ、90歳を過ぎても元気だった祖母、母、わたしの3人は年に1度、東京へ遊びに行った。もっぱら足を運ぶのは祖母や母が戦前まで暮らした神保町。住んでいた家や当時の風景はなくても、2人にとって懐かしい場所に変わりなかった。
 当時20代後半だったわたしはファミリーヒストリーには興味がなくて、ファッションに夢中だった。ホテルで荷物を下ろすと、祖母と母とは別れて、ひとり表参道へ向かった。
 目当ての店はファッション雑誌で知ったA-POC。コンピューターで糸の1本1本に指示をあたえてつくる服を三宅一生さんと藤原大さんが開発したと書いてあって、どんな服なのかを自分の目で見たかった。
 ガラス張りの店は五月のきらきらとした光が注いでいて、都会の雰囲気が漂っていた。気後れしながら服を見ていると、身だしなみを整えた男性のスタッフから声をかけられた。
 「この服はそのまま着てもいいですし、袖にある透かし編み地の部分をご自身で切っていただいて、ショートスリーブにすることもできますよ」
 ニットの生地に服の輪郭線があらかじめ織り込まれていて、線に沿って裁断すれば服になるという。こんなの見たことない。近未来みたい! 時代の最先端に触れた気持ちになって黒色のTシャツを買った。
 そのあともたくさんの服を買ったけれど、おなじような気持ちになったのはノルウェーブランドのレインコート1着だけだ。あのときの高揚感が忘れられなくて、着古したTシャツを手ばなせずにいる。
 いつからだろう、店で売っている服にときめかなくなったのは。セレクトショップや百貨店の洋服売り場からはここ数年、足が遠のいている。就職したころはワンピースやスカートを月に2~3着は買っていたのに、昨年買ったのはセーターとコートの2着。今年は1着も買っていない。こんなことははじめてだ。

芳村真理さんの衣装

 わたしが小中学生だったころ、歌謡番組が人気で、『レッツゴーヤング』(NHK、1974年~1986年)や『ザ・ベストテン』(TBS、1978年~1989年)、『ザ・トップテン』(日本テレビ、1981年~1986年)をほぼ欠かさず見た。今の歌番組は演歌とポップスでわかれているけれど、当時は松田聖子の甘い恋の歌も、哀愁を漂わせた石川さゆりの演歌もおなじ番組で紹介されて、歌詞の意味を理解しないまま、わたしは口ずさんだ。
 『夜のヒットスタジオ』(フジテレビ、1968年~1990年)も人気で、司会を務めた芳村真理さんのきらびやかな衣装を見るのが大好きだった。その衣装を中心に芳村さんが自身のワードローブを京都服飾文化研究財団へ寄贈したと、数年前に知った。贈ったのはピエール・カルダンやクリスチャン・ラクロワなどのドレスやスーツ、靴や帽子など238点。キュレーターの新居理絵さんは「老舗ブランドだけでなく若手デザイナーにも目が配られていて、1960~1990年代のハイファッション史を網羅した内容です」と充実ぶりを評価する。
 たとえば、ピエール・カルダンのウールジョーゼットのミニドレスは1965年ごろのもの。ミニスカートがまだ珍しい時期に、カルダン自身が芳村さんに見立てたという。
 1971年に着たワンピースは、三宅一生さんがニューヨークデビューで発表した服。マリリン・モンローの模様が入れ墨風にプリントされている。
 景気がバブルに沸いた1980年代半ばにはボディーコンシャスなティエリ-・ミュグレーのスエードドレスを選び、1990年代に入ると肩のラインが滑らかになったクリスチャン・ラクロワのドレスを身にまとった。
 どの服も時代を象徴し、女性の生き方を反映しているという。バブル時代はパワフルなキャリアウーマンを、その後は自立をしつつ肩ひじの張らないあたらしい女性像、といった具合に。新居さんは言った。
 「早い段階から男性と同等に働いてこられた芳村さんは衣装を自分で選ばれました。着ると背筋が伸びるデザインで、トレンドを抑えながらも好感度は高い。芳村さんご自身を表すコレクションだと思います」
 時代とともにデザインが変わっていく芳村さんの衣装を見てわたしは興奮した。服が嫌いになったんじゃなかったんだ。どきどきする自分自身に、なかばほっとしながら、今の服に心が動かないのだとも思った。
 百貨店やショッピングモール、ウェブストアで見る服は、似たりよったりのデザインに見えてしまう。芳村さんの服といま売られている服の違いってなんだろう。

似たデザインの服が多いのは

 服が大好きなのに、ここ数年ものあいだ、トレンドがわからないでいる。ジャストサイズだった肩の線がオーバーサイズに変わり、デニムは股上が浅いものから深いものになったけれど、それは何十年ぶりかに戻っただけのことだ。
 バブル時代のボディコンスーツから時代と結びつく服が登場していない気がする。それ以降も、チュニックやペプラムブラウス、コクーン型のコートといったゆるやかな流行はあったけれど、女性をコルセットから解放させたシャネルのジャージー素材のドレスや、布をたっぷりとつかっておしゃれの豊かさを伝えたディオールのバージャケットのようなインパクトを感じない。
 このところ、ファッションを楽しめません。なぜでしょうか?──。ファッションに詳しい人に会うたびに、わたしはおなじ質問をした。匿名を条件にはなしてくれたある人の言葉が忘れられない。
 「似たような服ばかり売られているのは、ある服がヒットすると、ほかのアパレルが次々にまねて売るからです」
 アパレルにはデザイナーがいて、オリジナルの服をつくっているはず。まねすることにためらいや恥ずかしさはないのかしら。疑問に思うと、その人は言った。
 「行司さんが思い描くようなデザイナーはごくわずかしかいません。流行って、おなじようなデザインの服を着た人が街であふれることなんです。とにかく売れたらいいと考えるアパレルは多いですよ」
 かつてアパレル会社に勤めていた別の人はこうも言った。
 「売れているスカートを解体して型紙を取り、おなじ形のものをつくってウェブストアで売りました。値段を安くしたから、よく売れましたね」
 似た服をつくって売るのは、どうやら当たり前のことらしい。そのなかで、巨大ファストファッション企業に服をコピーされたとして、日本のアパレルが提訴したと知った。なぜ訴訟に踏み切ったんだろう。理由が聞きたくて東京・青山に向かった。

そっくりなコート

 ザ・リラクスは、スタイリッシュなモードを提案する東京発のブランドだ。高品質にこだわり、素材から縫製まですべて国産。東京コレクションで注目される存在だ。
 代表的な服がモッズコートだ。シルエットが美しく、都会的な1着として人気のアイテムだ。ザ・リラクス代表の倉橋直行さんによると、発表の最初の年に売れたのは20着、2年目に約200着、3年目に1000着近く売れるようになったという。自分たちが思っていたよりも、この服はものすごい力を持っているのかもしれない──。そう思いはじめた2016年の春、倉橋さんはあるインスタグラムを見て驚いた。

RERACSのモッズが毎年欲しいと思っても、なかなか買えずに今年も…とその時‼ ZARAで完コピ発見!57000円が7800円になった

 倉橋さんはザラの公式サイトを見たとたん、おなじものだと確信した。パターンごとコピーされている可能性が大きい、とも思った。
 「これまで買ってくださった方に申し訳なかったし、こんなことをされたら会社が成り立たなくなると思いました。当時の社員は4人でしたから」
 実物を確認するため、すぐにザラの店へ行ってモッズコートを買った。後ろ身ごろが前身ごろより長く、全体が裾広がりのAライン、身ごろからフードが取り外せること、フードの紐の色や紐に取り付けた金具の形……。妻でデザイナーの倉橋直実さんや縫製工場のスタッフ、生地屋さんなど、服づくりに関わったすべての人たちとつくりあげたザ・リラクスのモッズコートと、それはそっくりだった。
 ザラとは関係のないサイトで海外向けに件のコートが通信販売されていたこともわかり、倉橋さんは一刻も早く販売を停止させたいと思った。弁護士と相談し、悩み考えた末に提訴する。東京地方裁判所は2018年、ザラ・ジャパンが模倣して販売したことについて、不正競争防止法上の不正競争行為にあたるとして損害賠償金1041万7282円の支払いを命じた。両社とも控訴はせず、判決は確定した
 倉橋さんは「ザラが憎くてした提訴したわけではない」と何度も言った。背中を押したのは、自分たちの会社と服を守りたいという思い。そして、自分たちの問題ではなく、ファッション界でおなじことが繰り返されると思ったからだった。

洋服界の下町ロケット

 最新のトレンド服を手に入れようと思えば、ファストファッションの店をのぞけばいい。でも、H&Mが日本に初上陸した2008年の新聞記事を読むと、かつてはそうではなかったことを思い出す。

 これまで、デザイン性に優れ、トレンド感に富んだファッション商品は値段も高く、なかなか手の届かないもの、という常識がありました。最先端のファッションを気軽に買えるのは、後追いで大量生産され、価格が下がるワンシーズン(一年)後だったものです。

 (斉藤孝浩「ファッション消費革命 1」『京都新聞』2008年12月27日)

 プレタポルテ(高級既製服)が人気を呼ぶ以前は、デザインやパターンは人の手で描かれ、引かれていた。海外の流行はコレクション発表の数カ月もの後に雑誌で知り、輸入品は時間のかかる船便で運ばれた。コピー商品がつくられても、精密さに欠けるものが少なくなかった。
 「でも今はそんな状況ではありません」と倉橋さんは指摘する。パリやミラノで発表された最新のコレクションは、時差なくネットで伝えられる。パターンの多くはCAD化(コンピューター利用設計システム)し、データさえあればおなじ服が簡単に縫える時代なのだ。
 そっくりなものをつくるデッドコピーを防ぐ方法として、日本の場合は不正競争防止法で禁止できる。でも期限があって、オリジナルの品が国内で最初に発売された日から3年間だけだ。それを過ぎればおなじものがつくられてしまう。
 「おなじ服をつくると、流行という現象が起きますが、同時にあっという間に消費されてしまう。コア(核)だったものはマス(大量)に落ちて本来の魅力を失ってしまいます」
 日本の仕組みに危惧する倉橋さんは、小説『下町ロケット』(池井戸潤著、小学館、2010年)を例にしながら今の思いを話してくれた。
 「ザラに勝ちましたというのは、第一章ですよね。不正競争防止法によってアパレルの考えも変わるし、みんなも喜んでくれる。でも第二章に入ると、仲間だと思っていた人たちが大量のコピー品で商売している──。気持ちがそがれてしまいそうだけれど、自分たちの仕事に向き合い、進化していくしかありません」
 モッズコートの原型は米軍のコートにある。でも、生地や素材、付属品、パターン、縫製などをそれぞれ10種類ずつ考えて組み合わせていくと、もとの服とおなじになることはあり得ない、と倉橋さんは考える。知恵を絞り、技術や工夫を重ねるからこそ、オリジナルの服は生まれるのだ。
 「日本で最高のスペック(仕様)で、最高に今の時代をとらえていて、着たら幸せになれる。そして、ここのブランドの代わりはないなと言ってもらえる。それが僕たちの目標です」

琵琶湖畔でつくられるシャツ

 ものごころついたときから、NHKの連続テレビ小説を見てきた。特に、コシノ三姉妹の母、小篠綾子さんをモデルにした『カーネーション』(2011年)にハマり、ヒロインのお父さんが亡くなると朝から泣き、ヒロインが紳士服の職人と急接近したときはどきどきした。
 物語には、コシノジュンコさんをモデルにしたヒロインの次女も登場する。ふるさとの大阪から東京の服飾専門学校に進学すると、コンテストで優勝し、東京の百貨店に出店して、パリへの進出も果たす。ファッションの世界ではこれが「成功の形」と長らくされてきたけれど、いまは地方に住みながら、目の届く範囲で服をつくる人が増えている。
 ふるさとの滋賀県彦根市で、手づくりシャツ店COMMUNEを営む久米勝智さんはそんなひとりだ。デザイン、型紙作製、裁断、縫製まで久米さんが手がける。
 高校生のころからファッションが好きで、東京の文化服装学院で服の仕組みを学んだ。最先端のファッションや流行の映画や音楽に触れるなどして、都会の生活を存分に楽しんだけれど、いつしか、アパレル店で働くという卒業後の進路を受け入れられなくなっていた。
 「なぜこんなにたくさんの服があるんだろう。適量をつくればいいのではないか、と思うようになりました。売れなかったらセールにかけ、残ったら捨てるという現実も知りましたし。僕は自分でつくった服を売れないという理由で捨てたくありません」
 そのころ、京都にあるモリカゲシャツキョウトでシャツづくりを学んだ。1枚ずつ時間をかけて手仕事し、全工程に責任を持つという姿勢に感銘して、2009年に彦根城に近い旧市街地でCOMMUNEを開いた。
 ファッションの世界では毎年、春夏と秋冬のデザインが発表されるけれど、久米さんはいつまでも着られるシャツを目指す。つくり手の思いに賛同した国産の布やボタンを使い、カフスがすり切れるなどしたら修理もする。
 「定番になればいいな、と思いながらつくっていますが、定番って、僕ひとりがつくるのものではなくて、お客さんとのやりとりをしながら生まれるもの。自分がつくりたいものと、お客さんが望んでいるものを受け止めながらシャツをつくっていきたいです」
 2020年の春には、琵琶湖畔に職住一体のアトリエをあらたにつくった。祖父母がかつて暮らした場所で、シャツを縫い、お客さんをもてなす。休日はきちんと取り、地域の人と交流して暮らす。日常の営みのなかに、服づくりがある。
 「これまで僕は、大好きな服を嫌いにならないためには、どの道を進んだらいいかを考えてきたように思います。大量生産の服が並ぶファストファッションの店に行くと、ドラッグストアで生活必需品を買うような気持ちになってしまう。服を選ぶときって本来は楽しいはず。僕はそんな気持ちを大事にしたいんです」
 久米さんのようなつくり手を紹介したりつくり手の思いを伝えたりする場も生まれている。京都精華大准教授の蘆田裕史さん、武庫川女子大准教授の井上雅人さん、スタッフの藤井美代子さん、神宮美弥妃さんの4人が京都市内で運営するセレクトショップ、コトバトフクだ。日本の若手デザイナーが手がける服やアクセサリーなどを販売している。
 消費するものと受け止められがちな服を、文化としてとらえてもらうため、社会実験的な試みをしている。ひとつがセールはしないこと。数年前に発表された服はアウトレットとして大幅に値引きをされがちだけれど、コトバトフクではアーカイブ商品としてとらえ、最初につけられた適正価格を維持している。蘆田さんは思いを明かす。
 「ファッションの世界はつくり手や売り手自らが半年もたたないうちに商品の価値や値段を3~5割ほど下げてしまいますよね。本の世界ではありえないことですし、そもそも服の魅力は半年たったら減るものではない。自殺行為でしかありません」
 ファッションへの理解を深める場にするため、服飾史やファッション批評など約300冊の本も置き、つくり手を招いたトークイベントもする。取り組みは口コミで広がり、東京や大阪などから足を運ぶ人が増えている。

フィレンツェでマスクをする

 25年前、母と真冬のフィレンツェへ旅した。初日、母は風邪気味だったのでマスクをして石畳の街を歩いた。翌朝、ホテルでごはんを食べていると、母は「今日からマスクはしない」と言った。
 「街の人たちがギョッとした顔でわたしを見るねん。マスク姿が異様に見えるみたい」
 そういえば誰もつけていない。イタリアではマスクは重病人がするもののようだった。
 それから四半世紀後に新型コロナウイルスが世界中に拡がった。テレビでは、マスクをつけたミラノやローマの人たちが映し出され、モデルのナオミ・キャンベルは防護服を着て飛行機に乗る様子をインスタグラムにあげた。京都の四条烏丸かいわいでは、フェイスシールドをつけて歩く女性やお年寄りもいた。そのたびに、ファッションに詳しい京都女子大学教授の成実弘至さんの言葉を思い出した。
 「世界中が変わるようなすごい大きい変化があると、ファッションはその前後、激しく変わります。シャネルは第一次世界大戦の後に、ディオールは第二次世界大戦の後に登場しましたから」
 成実さんにはなしを聞いたのは2019年6月。世界のあちこちで右傾化が進み、日本ではきな臭さが漂っていたころで、大きく時代が変わるとは戦争のことかもしれない、とわたしは思った。深く考えずにあたらしいファッションを求めていた自分が情けなくなった。
 その後にパンデミックが起きて、緊急事態宣言中は物欲が失せた。お金を使うのは食料品と医療品。服は手持ちのもので事足りるので、あたらしい服がほしいと思わない。そんな気持ちになったのは、阪神淡路大震災と東日本大震災のとき以来だった。
 目には見えないウイルスにおびえる日々。かたくなになりがちな気持ちをときほぐしてくれたのが若葉の緑やウグイスのさえずり、宮沢賢治の物語、ピアノやチェロの音色、そして服づくりだった。
 肌ざわりのいい素材に触れたくなって、ショッキングピンクやパウダーピンク色の毛糸でセーターを編み、黄色のウール地でジャンパースカートを縫った。気持ちが爆発したかのように、カラフルな色の服ばかりつくった。

写真01
ギャップのブラウスを使ってワンピースにリメイク。スカート部分はリネンのシーツを使った。
写真02
母に向けて編んだセーター。オランダの毛糸店などで買った糸を使った。
写真03
黄色いウールの生地でつくった母のおうち着。

 新型コロナウイルスがいつか終息して日常を取り戻せたとしても、経済学者や歴史学者、哲学者のだれもが以前とおなじようには戻らず、なにかが変わると指摘する。じっさい、政府が提案する「新しい生活様式」に違和感や戸惑いを覚えながら、通勤電車や店で、人との距離を無意識に取ってしまう自分がいる。
 ファッション業界でもこれまでの仕組みを見直す動きがでてきた。春夏、秋冬物の販売期間が本来の季節より早すぎたとして、ドリス・ヴァン・ノッテンら人気デザイナーやCEOは、後ろ倒しにするなどの提案を公開書簡で発表。グッチのデザイナー、アレッサンドロ・ミケーレは「地球が、私たちに改革を求めている。もう過去に戻ることは許されない」として、年に5回開いていた新作のファッションショーを2回に減らすとしている

ペレの服のように

 農薬や化学肥料を使わない野菜を扱う移動八百屋「369(みろく)商店」の鈴木健太郎さんに、数年前から野菜の配達をお願いしている。春は菜の花や小松菜、夏はズッキーニやナス、秋に入るとカボチャやきのこ、冬は大根や九条ネギなどが届く。
 鈴木さんが運ぶ野菜を食べるようになって、わたしは変わっていった。
 土地や人に負担なく育てられた野菜はどれも滋味豊かな味で、苦手だった空豆や実えんどう、丸なす、菊菜は季節のごちそうになった。
 それまでの献立は食べたいおかずが先にあって、それをつくるためにスーパーで野菜を買っていた。今は、毎週受け取る野菜を食べ切るにはどんな調理がいいかと考える。四季折々の野菜が食卓に並び、冬場にトマトやキュウリを食べることはなくなった。
 野菜によっては時期が短く、先週出たものが翌週になくなることも珍しくない。長雨が続くと育ちが遅くなり、端境期には種類が減る。鈴木さんからはつくり手の人のはなしも聞くので、台風や大雨などの災害があると「あの農家さんは大丈夫かな」と思うようにもなった。
 季節の移ろいにあらがわず、旬のものを食べたらいい。農家の人がつくる野菜があって、それを届けてもらうことで、わたしの体ができている──。実感しだしたころ、新型コロナウイルスが猛威をふるった。
 うつうつとした気持ちで京都の書店にふらっと入ると、『ペレのあたらしいふく』(エルサ・ベスコフ作絵、小野寺百合子訳、1976年、福音館書店)がおすすめの1冊として置いてあった。こどものころに大好きだった絵本。懐かしさがこみ上げて、思わず手に取った。
 ペレは子羊の世話をする男の子だ。上着がちいさくなったので、刈り取った羊の毛をおばあちゃんに紡いでもらったり、おかあさんに布に織ったりしてもらう。ペレも牛の番をするなど、みんなの仕事を手伝って、最後には青い上着を手に入れる。
 久しぶりに読んで、服は鈴木さんが運ぶ野菜とおなじだと気がついた。服は、命の恵みと人の手と時間の積み重ねでつくられていること。自然の営みに無理せず沿ってつくられた絹や木綿の布、毛糸の質や手ざわりはとてもよいこと。そういえば、京都を拠点に羊の原毛を販売や衣食住の雑誌『SUPINNUTS』などを出版する本出ますみさんは「良い羊毛は良い羊から採れる」とはなしていた。
 ペレのおはなしは家々で糸を紡ぎ、布を織ったころのものなので、今の時代におなじことをするのは難しいだろう。わたしは以前、羊の原毛から毛糸にしようと糸を紡ごうとしたものの、とても大変で完成しないままでいる。
 けれど、便利すぎた暮らしにブレーキがかかった今だからこそ、服をつくること、着ることをあらためて見つめたいと思った。

写真04
羊の原毛で糸にしようとしているところ。京都にある店「スピンハウスポンタ」で買った。

 これから服はどのようになっていくのだろうか。京都服飾文化研究財団のキュレーターの筒井直子さんの言葉が胸に浮かぶ。
 「歴史を見ると、服のかたちは変わり続けてきました。服は絶対変わる。おなじということはありません」
 日本だけを見ても、貫頭衣から十二単、小袖、洋装へと変わってきた。わたしが生きているあいだに、あたらしい服が生まれるかどうかはわからないけれど、使い捨てたり、流行に振り回されたりせず、一日を心地良く過ごすことができる服をペレのように大切に着たい。日々食べているものがわたしの体をつくるように、毎日着る服がわたしをかたどり、心をはぐくむのだから。

(連載おわり)


【参考文献】

「60~90年代 女性の生き方象徴 KCI所蔵「夜ヒット」芳村真理さん衣装コレクションより」(行司千絵)『京都新聞』2017年5月25日。
「土曜フォーカス2018 地域発 脱・大量消費 私だけの装い求めて」(行司千絵)『京都新聞』2018年11月17日。
「「服」は文化。「本」と同じ」(行司千絵)『京都新聞』2019年7月11日。

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著者略歴

  1. 行司 千絵

    1970年生まれ。同志社女子大学芸学部英文学科卒。京都新聞に勤めながら独学で洋裁を習得し、自身の普段着や母、友人・知人の服を縫っている。瀬戸内寂聴さんや志村ふくみさんなど、3〜91歳の80人に服を作った。個展に「母と私の服」(西宮阪急)「おうちのふく」(フォイルギャラリー)「まだ見ぬあなたに作った服」(誠光社)など、著書に『おうちのふく』(FOIL)など。『図書』2018年11月号・12月号に「精文館と児童誌『カシコイ』を探して」を寄稿。

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