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3.11を心に刻んで

菊地栄治〈3.11を心に刻んで〉

「中学生になったら少しは欲が出るでしょう」って言われたよ(笑)。
(小5のとき保護者面談から戻った母が楽しげに私に語った言葉)
*  *
私は6歳で一回死んで(笑)、舞い戻ってからも虚弱体質のままだった。風邪で高熱を出すたびに、天井の模様をぼんやり眺めて「今度こそダメかもなぁ」と思ったものだ。それでも不運を恨んだことはなかった。幸い「農家の跡取り」は不相応に大事にされた。後遺症を引きずるように、「世俗の欲」に大した意味も見いだせなかった。布団の下でそっと掌を合わせ、「家族と世界中の人々が幸せでありますように…」と祈る風変わりな小学生時代。だれに言われたわけでもなく、そうするのが自然だった。
 不承不承、俗世にまみれ、あれこれ誤魔化しながら齢を重ねふやけた皺を刻んできた自分がここにいる。教育社会学という学問を学生のみなさんと学びながらも、内心では「教科書には書いていないことを学んでほしい」と願っている。大学教員という役割を演じながらも、いつもこんな問いが頭をもたげる。「果たしてあのときの祈りを自分の行いとして届けられてきたのだろうか?」と。
 たしかに人間には忘れずにいられないこともある。しかし、その一方で、「忘れてはいけない共通の約束」があるような気がする。日々のすべてを塗り込めなくても、中心のところで大事にしなければもはや人間でなくなってしまうような大切な何かが…。「ほんとうの 「」 とは何か?」
 3・11の震災も新型コロナも社会としては何事もなかったかのように克服してはならない。乗り越えるのではなく人間や社会のいたらなさを基点にしたい。単に情報を消費し知識を個人所有してよしとするのではなく、人々の間に息づく智慧をつむぎ行動していかなくては…と思う。世代を超え同じ大気にはぐくまれる人々の安寧に思いをめぐらして、一日一日「できごと」を重ね「他人事≒自分事」に引き寄せながら生きていくこと…。「戻るべき日常」を見失わないその先に「戻るべき故郷(ふるさと)」がある。希望の地にいたるプロセスを楽しむ自由…。その一点にのみ「赦し」の可能性があるような気がする。
 義父母の介護を完璧にこなし、病に倒れて天に召された母親の人生を評論する立場にはないが、せめて遅ればせながらも世の出来事と重ねつつ自分事としたい。月命日(六月二十二日)に個人的な話が過ぎたようである。
 
(きくち えいじ・教育社会学者)

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