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アカデミアを離れてみたら

博士(工学)を持つ指揮者の話〈アカデミアを離れてみたら〉

中島章博(指揮者・作曲家)

とあるリハーサルの風景

 数時間後に本番のコンサートを控えた、最後のリハーサルの時のことでした。オーケストラの演奏会では、この時に初めて本番を演奏するホールで音を出せることが多いのですが、どうも音の焦点が定まらず、抜けていく感じがしたのです。奏者の方もお互いの音を聞きづらそうにしていました。その時に私がとっさにオーケストラにした提案は、演奏しづらくならない程度に、できるだけオーケストラ全体を舞台上で小さくまとめること、そして舞台の少し後方に寄せることでした。実際、効果はてきめんで、配置を変える前に比べるとずっとアンサンブルがしやすくなりました。
 これは、私の音楽家としての経験や勘だけではなく、大学院時代における研究の経験が非常に役に立った一例です。私は、今でこそ指揮者そして作曲家という仕事をしておりますが、大学院までは、音楽の勉強と並行して、(音楽大学ではなく)一般の大学にて建築音響工学の研究をしていました。そして今では、それまでのすべての経験が音楽作りにつながっていると強く実感しています。

気がついたらそこに音楽があった

 私は、音楽一家に生まれたわけではありません。ただ、習い事のひとつとして、5歳の時から音楽を習っていました。2年後にはその時の先生にすすめられ、通常クラスより上級のコースを受験、無事受かり、そちらに通うことになります。そのころから作曲もしていたので、小学生の低学年の段階で、自作曲をピアノの発表会で弾くという経験をしていました。とはいえ、当時は音楽だけに没頭していたわけでもなく、楽しかったとはいえレッスンが高度すぎたこともあり、ずっと続ける気力もなくて、10歳くらいで辞めてしまいました。
 私が次に音楽とめぐり会うのは、中学生になってからです。縁がありブラスバンドの勧誘を受けて入部したのですが、中高一貫校の男子校ということで人数が少なかったこともあり、中学3年生の時から指揮をさせてもらったのです。自分で好き勝手に編曲したものを、自分の指揮で演奏してもらっていました。
 はじめて自分で編曲した作品の音を実際に出した時の衝撃は忘れられません。残念ながら、いい意味ではありません。思ったように音が鳴らないのです。たしかに編曲に用いたパソコンの音楽ソフト上ではしっかりできているはずなのに、実際の楽器で鳴らすと、全然違う印象になっていたのです。
 この衝撃から、その日の帰り道に大きな書店に駆け込んで管弦楽法の本を購入、むさぼり読んでは編曲に活かすという日々が始まりました。授業中に作曲の構想を練ると決めて、ノートは出さず五線紙だけ広げ、熱心にシャープペンを走らせる。家に帰っても、パソコンに接続する専用の外部音源を用いて、コンピューターソフトにて音楽制作をし、気分が乗ってくると徹夜。そして翌日、眠い時はフルートのケースを枕にして(パートはフルートでした)授業中寝るという、お世辞にもよい生徒ではありませんでした。
 こんな中学・高校生活でしたので、そのまま音楽の道に進みたいと思うのは当然のことだったのかもしれません。気がついたら音楽とともに生活をしていたという感覚です。
 そこで、「音楽大学に行きたい」と音楽の先生に相談しました。しかしその時の答えは、「指揮や作曲をやりたいのであれば、一般の大学で勉強してからでも遅くない」。不安定な音楽の道を諦めさせるための説得ではあったとは思いますが、たしかに、指揮や作曲を職業にする人が一般の大学出身である例は、数少ないものの当時からありました。それに、まったく独学の状態から実際に音楽大学を受験するとなると、準備も大変です。
 悩んでいたあるとき、担任の先生から「早稲田大学理工学部建築学科の推薦がきている」という話を聞きます。建築であれば芸術に直接つながり、センスも鍛えられるかもしれない──と、将来は音楽につなげることを意識して、この推薦をとることにしました。ちなみに決して成績はよくなく、推薦をもらえるギリギリの成績。小数第2位を四捨五入して下限ぴったりというすれすれ具合な上に、運よくほかの候補者がいなかったため、そのまま早稲田大学に行けることとなりました(余談ですが、このギリギリ具合だったために、担任の先生は募集条件を穴が開くまで読み返した上で、成績の計算を2回やり直してくださったそうです。担任の先生を困らせたくない場合は、やはり授業中の睡眠は仕方がない状況を除いてはお勧めしません)。

音楽三昧の大学時代、そして音響の研究室へ

 このような経緯で大学に入学したわけですから、当然、入学後は完全に音楽漬けの日々になります。所属していた学生オーケストラのレベルの高さ、本物の音楽に接することができる喜び、たくさんのプロ指揮者から学べる環境。すべてが新鮮で、毎日生き生きと過ごしていました。また、一般人も参加できる指揮講習会に参加し、指揮の勉強もはじめました。一方、専門の建築の方はというと、音楽ばかりやっていたため、当然ですが低空飛行にとどまりました。
 そうこうしているうちに、あっという間に大学4年になります。音楽で生きる生活を第一に考えていたので、就職する気はまったくありませんでした。しかも、世の中はまだ就職氷河期。だからといって、音楽家と名乗ったところで仕事があるわけでもありません。
 そんな折、友人に誘われ、東京大学の建築音響工学の研究室に見学に行きました。コンサートホールの音響設計も担当した実績のあるところで、充実した実験室を備えており、実験室内にホールの音響を再現して演奏することができるのです。
 だらだらと判断を先送りさせて人生を過ごすくらいならば、ここで研究することで逆に音楽家への道について考える時間がとれるだろう──大学院を目指す人間としては非常に失礼な理由ではありますが、ともかくこのような理由で進路を決めました。結果、何とか無事に試験に受かり、いま考えてみると長い大学院生活が始まります。
 そして博士前期課程。たとえ音楽家にはなれずとも、ついに、研究を通じて音には関わることができるようになりました。しかし当時は、このままでいいのかと自問自答する日々でもありました。このころ、研究室ではホール音響もあまり扱わなくなり、私は小学校の教室の配置が音響に与える効果について研究していました。もやもやしたまま時は過ぎ、2年間が飛ぶように過ぎていきます。このまま引き下がることもできず、とはいえ音楽家と名乗って独り立ちするきっかけもないのは学部時代と同様で、ずるずると博士後期課程に突入することになります。

博士進学、そして音大へ留学

 博士後期課程に進学して数か月。ここにきて、まったく研究に手がつかなくなってしまいました。やはり音楽をして生きたい。そのためには一度環境を変えるしかないと思ったのです。正直、ここまでに述べたように、自分を自分で誤魔化しながら生きていたところがありました。このまま流れに身を任せていれば、苦労はあっても、何とか生活はできる人生を歩めたでしょう。でも、一度きりの自分の人生がこのまま過ぎてしまったら、後で絶対に後悔するだろうと、このとき強く思ったのです。思い切るならこのタイミングが最後だ、と。
 そうなると、少なくとも、音楽の専門的な教育はしっかり受ける必要があると考えました。しかし、国内の音楽大学をこの歳で受験するのは厳しそうです。ならば海外に行くしかない。調べると、ドイツやオーストリアの国立音楽大学は学費もほとんどかかりません。そこで、伝手を頼ってオーストリアの音楽大学の指揮科の情報を仕入れ、インターネットで親にも内緒で願書を提出し、研究室の先生と親には留学したいとだけ告げて、思い切って受験しに行きました。
 もちろん、今までの専門とは全然違う海外の音楽大学の指揮科ですから、対策せずに受かることはまずありません。そのため、今までにお世話になった音楽の先生や、自分で新たにアプローチをした先生方に、ソルフェージュ(音楽の基礎訓練)やピアノなどのレッスンをしてもらい、気持ちを切り替えて臨みました。幼少期にはじまり、中学・高校、そして大学時代と、音楽を詰め込んだ経験がこのときに大きな糧となりました。結果は合格。まさに蓄積に勝るものなし、です。特に幼少期に受けていた音楽教育は、かけがえのない力になっていました。

写真1
受験のため、ウィーンからザルツブルクへ向かう車内で思わず撮った写真。通り雨の後で、ザルツブルク方面にきれいな虹がかかった。この虹を見たとき、なぜか受かる気がしたとともに、自分は音楽に導かれているのかもしれない、という不思議な気持ちになった。

 こうして私は、音響工学の博士後期課程を休学し、25歳にして初めて、音楽の専門大学に所属することになりました。私にとっての音楽は、いよいよ趣味ではなく、目標へと明確に切り替わったのです。
 指揮科の授業は、全学年(といっても合計7名前後)のグループで行います。ひとりずつ、オーケストラをイメージしたピアノに向かって指揮をし、先生の指導を受け、数十分ごとに次の人に交代、という授業です。その他、個人レッスンとしては、スコア(オーケストラの譜面)リーディングやオペラの伴奏など、さまざまな授業を受けました。
 さて、先述のように、音楽大学への入学以前は、どうやって音楽に関わろうかと、ずっと考え続けながら歩んできました。そしてついに、音楽を学ぶことだけに集中できる日々がやってきたわけです。しかし、いざそうなると今度は逆に、音楽家としての訓練をしながらも建築音響学の研究のことが頭の片隅にあり続け、新たな研究のヒントも浮かんできたのです。
 私が通っていたモーツァルテウム大学には、主に2つの建物がありました。1つは1914年に建てられた旧校舎、もう1つは2006年に建てられた新校舎です。主に旧校舎では声楽科、新校舎ではほかの科のレッスンが行われていました。
 これは偶然ではなく、音響的な理由があるのではないか、と私は思いました。つまり、旧校舎と新校舎の練習室の音響特性が大きく異なるから、使い分けられているのではないだろうか、と。旧校舎はとても響く音環境である一方、新校舎では響きがある程度抑えられています。そのため、声楽は旧校舎の方が、ほかの楽器は新校舎の方が練習しやすい、ということではないだろうか──。
 この考えはあくまで仮説です。しかし、音楽がメインの生活をしていると、こうしたことを研究してみたいという気持ちが逆に出てきたのです。私はどういうわけか、何かひとつだけに没頭することに向いていないようです。

研究生活に戻る

 私が学んだ大学院では、博士後期課程の休学は3年までしか認められていません。そのため私は、3年間の留学後に、再び研究室に戻ることを決断します。正直なところ、音楽漬けの環境にもっといたいと思ったことも事実です。しかし、与えられた制約があるときはその中でもがいた方がよい結果が出る、という勘もあり、研究室に戻りました。
 久しぶりに研究室に戻った時の風景は忘れられません。前に所属していた時より、ずっと新鮮に周りが見えました。そして、ちょうど研究室に音楽練習室の共同研究が持ち込まれたこともあり、このめぐり合わせに感謝して、研究にとりかかりました。そこから3年ほどかけ、音楽練習室の設計に関する博士論文を書き上げます。この中で私は、弦楽器や管楽器の奏者に比べ、声楽家はより長い残響時間の練習室を好むことを、評価実験結果から定量的に示しました。紆余曲折はありましたが、ずっと傍にあった音楽と研究が、ようやくひとつにつながったのです。

写真2
研究室の実験室内での主観評価実験(2011年、東京大学生産技術研究所)。左側が筆者。プロ奏者にご協力いただき、練習室に関するさまざまな実験を行った。

音楽家としての独り立ち

 さて、海外の音楽大学に通ったことで、自分の経歴にも、音楽の専門的な勉強をしたことが書けるようになりました。すると周りの見方も変わり、音楽を学んだ若手指揮者として声を掛けていただけるようになりました。そこで、仕事が入り、お金を少し貰えるようになった時点で、独り暮らしをはじめ、実家を出ました。ここで暮らしていけないようであれば、自分は音楽の仕事には向いていないと割り切ることで、甘い自分に活を入れるとともに、退路をしっかり断ちたいと思ったのです。
 この時期はちょうど、留学から戻ってきて、研究生活を再開した時期でもあります。このころは気力・体力が充実しており、学会へ提出する原稿の締切前や博士論文の執筆中は、研究室に寝泊まりしながら音楽の仕事の準備も行い、研究室から直接、練習指導やリハーサルに行くこともしばしばありました。目標が定まるとエネルギーが出るもので、このとき音楽と研究を両立し、やりきったことは、いま仕事をしていく上でも大きな自信となっています。

指揮者、作曲家というしごと

 指揮者や作曲家は、基本的にフリーランスとして仕事を受けます。いただいた依頼に対し、自分の力を発揮する、ということの繰り返しで信用を得ていくのです。決まったオーケストラのポストを持たない私であれば、指揮に関しては公演ごと、作曲であればプロジェクトごとに依頼を受けることになります。
 作曲では、実演奏するためのオーケストラ作品を書くこともありますが、コンピューター上でソフトウェアシンセサイザーという音源を用いて、演奏者に頼らずに作品を完成させることも多く、今のところ関わったアニメやCMの音楽はすべてこの手法で作曲しています。
 一方、指揮者はひとりでは決して完結しない仕事です。数十人、あるいは100人を超える人たちがひとつの音楽を奏でられるように、リハーサルを通じて音楽の交通整理を行い、全体が同じ音楽性を持つように導いていきます。そのためには、リハーサルが始まるまでに、スコアを読み解き、作曲の背景やその他のあらゆる知識から、曲の魅力を最大限表現できるようなアイデアを持たなくてはなりません。公演日が休日であることが多いので、カレンダー上の平日と休日が逆の生活となります。公演のない平日は、リハーサルや、それがないときはアイデアを練るための勉強時間にあてます。
 私が音楽を作る際に強く意識しているのは、どんなことであれ、他のさまざまな分野とつながっている、ということです。当たり前ですが、どんなことでも人が行うことには人が関わっています。さらにいえば、自然法則に従っています。どのような分野であっても、自然界の中で人が見出し、人と人がつながる以上は、他分野との共通項が存在するはずです。日々接しているさまざまな事柄について考えることは、それはそのまま人間の感情について考えることにもなり、ゆくゆくは音楽にも活きるはずです。──もし自分がストレートに音楽大学にしか行っていなければ、このような思考には至らなかったでしょう。

そして再び今へ

 この経歴ですので、「どうして音楽の道に進んだのですか」と質問を受けることがしばしばあります。その過程は今までに記述した通りで、紆余曲折はあったものの、自分のやりたいことを考えながら、指揮者そして作曲家になるためにたどった道が、結果としてこのようなものになっただけです。
 しかしながら、私が博士号を取得した時点では、専門の研究でアカデミアの仕事に就けるという手ごたえはなく、世間的には難しいとされている音楽業界での仕事の方がずっと身近にあったというのもまた事実です。そして今でも、博士取得者の行き場がないというケースが多々あります。自分は最終的に「音楽家になる」という夢を持って進んできたので、仕事の選択に後悔はまったくありませんでしたが、研究をすることに長けた人間がアカデミアへの道を絶たれてしまう例が多いことは、非常に残念でなりません。
 ただし、過去に蓄積したどんな経験も、無駄になることはないと私は思います。どの分野もつながっているのですから。当初は実社会に関係ないと思われたような分野の研究活動でも、そのうちどこかで必要になるということもあるでしょう。また、博士号の英語表記はPh.D.、すなわち哲学博士です。この哲学という部分、つまり博士号を取得するまでに至った過程や考え方は、その後もどこかで必ず活きると私は確信しています。
 どんな道であれ、その人が歩んできた道のりは、必ずその先の道を照らしてくれるはずです。私はこれからも、自分が作ってきた哲学を纏って、日々よりよい音楽を作り出したいと思っています。

*          *

 最後に、これを書いている時点のことを少し述べましょう。ここのところ、コロナ禍においてオーケストラの活動が制限されており、奏者一人ひとりのスペースを普段より広くとって、小編成の楽曲を演奏することが多くなっています。こうした編成・配置のオーケストラでは、ホール音響の良し悪し、特にステージ上でのアンサンブルのしやすさ・しにくさが鮮明になります。よい音楽を演奏するために、ホールの音響特性がより重要になっているといえるでしょう。とりわけ多目的ホール(コンサートに限らず、演劇や講演会などさまざまな用途を想定して設計されたホール)は、音響の面で難しい問題を抱えてしまうこともあります。もしクラシック音楽を聴きに行かれる機会がありましたら、ぜひホールの響きと奏者との対話も楽しんでいただければと思います。


【なかじま・あきひろ】

1981年生まれ。早稲田大学理工学部、東京大学工学系研究科博士前期課程を経て同後期課程へ進学した後、2007年よりオーストリア共和国立ザルツブルク・モーツァルテウム大学指揮科に留学。2010年に帰国後、博士後期課程を修了し建築音響工学の分野で博士(工学)を取得。留学後は指揮者として、これまでに国内外にて数多くのオーケストラを指揮、また作曲家として、アニメやCMの楽曲提供も行っている。その他、メディアでの指揮や出演など、幅広い活動を行っている。

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