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アカデミアを離れてみたら

南極と被災地を通って農業へ〈アカデミアを離れてみたら〉

岩野祥子(伊賀ベジタブルファーム株式会社)

 意図せず、少し変わった道のりを歩いてきました。人生に積極的になれたのがここ数年のことなので、自分語りで自分の人生を表現すると「縁で」ということに尽きます。「あなたは神に選ばれた人だから」という親の言葉が大嫌いでした。なのに、わたしの口癖は「かみさまはやさしい」です。特定の宗教の神さまではなくて、抽象化した「かみさま」です。人生の分岐点における選択も、迷ったときの判断も、自分でしてきたというより、答えが降りてくるのを待ちました。待つ時間がとても長いときもあれば、すぐに決まることもありました。委ねているくせに、主体的でありたいと思いながら生きています。

南極で地球を感じる

 京都大学で地球物理学を学び、博士課程1年次を後期から休学し、南極観測隊(越冬隊)に参加しました(※1)。南極観測隊に参加するために大学や講座を選んだわけではなく、親に言われるままに京大に行き、特にやりたいこともないのでモラトリアムで修士課程に進み、そうこうするうちに「南極で越冬しないか?」という誘いを受け、行けるならぜひ行きたいと思ったのが、わたしが京大の博士課程へ進んだ理由です。
 好奇心が強いこと、身体がタフなこと、規則的な生活や集団生活ができること、あたりが観測隊に声をかけてもらった理由でしょうか(南極に行く人材が圧倒的に足りていないという理由も大きいです)。最終的には、請け負った観測のひとつでもあった超伝導重力計による南極昭和基地での10年間の重力観測データを解析し、博士論文にまとめました。大きな目的は、地球内部構造の解明です。理論的な地球モデルの是非を議論するうえで、中緯度地域の観測だけでは決定しづらいパラメータがあり、高緯度での観測データを用いることで、その当時では最も高精度の地球潮汐パラメータを決定し、また、極域での重力観測に関連した課題や知見を整理することができました。
 南極観測の担い手が少ないことは、関係者を常に悩ませていた問題であり、25歳という若さで越冬隊に参加させていただいた背景に、将来の南極観測を担う人材としての期待があることは感じてはいました。ただ、自分としては、研究者として生きていくうえでの能力不足と、アカデミアの空気になじめない感覚が如何ともしがたく、博士号取得後、モンベルというアウトドアメーカーに就職しました。
 モンベルでは、始めの半年間は直営店舗で販売員として働き、その後、新設されたばかりの東京広報部に異動しました。入社してようやく1年が経ったころ、2回目の南極越冬の話が舞い込み、急遽2度目の南極に行くことになりました。観測業務はほぼ変わらずですが、地学部門は野外観測が多く、2度目の南極の最大の任務は、野外観測チームのリーダーとして、野外観測を安全に導くことでした。
 学部時代、山岳サークルと体育会スキー競技部に所属していました。夏季休業期間中に、剱沢野営管理所(富山県)で野営場の管理や登山客への情報提供を行い、同居する山岳警備隊や診療所の医師の飯炊をした経験もあり、山岳遭難事故発生時の緊迫した空気感を知っています。平常時にも山岳救助の話を聞いていたので、野外活動におけるリスクマネジメントの意識が育っていました。2度目の越冬に声がかかったのは、それを買われてのことです。とはいえ南極の野外活動で隊員のいのちを守るという使命は重く、「全員が生きて日本に帰ること」を最低かつ最大の目標にして、リーダーの経験もスキルもないまま、ずいぶん背伸びをして過ごした1年半でした。
 南極で2度越冬したので、3年ほど南極で暮らしたことになります。3日に1日は野外にいるくらい、長い時間を南極の大自然の中で過ごしました。誰にも踏まれていない、柔らかい大地を踏み、長い年月をかけて氷河が削った光景を見ていたとき、「そうか、この景色は46億年かけてつくられたのか。それを今、わたしは見ることができているのだ」とはたと気づきました。女性の越冬が始まってのべ3回目の越冬隊に自分が参加できていること。誰よりも多く南極の野外に出られること。すべてが奇跡のように思えました。

写真1
氷河が削り取ってできた地形。かつてここは南極氷床に覆われていた。

 それまで当たり前に見知ってきた世界、暮らしてきた世界と、人間活動の影響を受けていない南極の大地、生のままの剥きだしの地球は、同じ星でありながらまったく異なる世界です。南極の露岩域を歩き回るうちに、自分の中の空間と時間のスケールが広がっていきました。「わたしはなんて素敵な星に生まれたんだろう。地球が好き」。そう思うようになりました。
 厳しい自然の中で「生き抜くこと」に焦点を当てながら過ごすとき、怖いというよりどこか守られた感覚がありました。極寒の地にいながらぬくもりを感じるのは不思議でした。野外行動を決める際には、気象データや海氷データなどを活用しつつも、自分の感性を大切にしました。自然をよく観察し、適度に恐れ、人間の側の理由で自然にあらがうような判断さえしなければ死ぬことはない。しばらく経つと、そう思えるようになりました。さまざまな出来事がありましたが、誰もいのちを落とすことなく2度目の越冬を終えることができました。迎えの砕氷艦しらせに乗り込み、もう自分の責任で誰かを死なせずにすむと思ったときの安堵感は今も忘れません。

3・11をきっかけに脱サラ就農

 2度目の越冬後、再びモンベルに戻り、数年穏やかに暮らした後、東日本大震災が起こりました。4月上旬、被災地に入り、発災以降被災地で活動を続けてきたカメラマンについて宮城県から岩手県の沿岸部を回り、各地の避難所で状況を聞かせてもらいました。家族や友人を失った人、特に行方不明者がいる人の苦しみは、話を聞いているだけで卒倒しそうになるほどでした。いのちの重さをあらためて感じ、どこにいても「生きることは当たり前ではない」のだと胸に刺さりました。
 モンベルでは南極での2回の越冬経験を生かして、極地用作業着「ポーラーダウンパーカ」の開発にも携わることができました。広報部にいたので、メディア対応、広報媒体の製作、CSR、イベント企画など、さまざまな業務を経験しました。「冒険塾」とか「スイスモデルを考える」など、新規のプロジェクトもいくつか担当させてもらいましたが、ゼロから創っていく仕事はどれもかなりおもしろかったです。
 けれども、東日本大震災の被災地とモンベル本社のある大阪を3年ほど行ったり来たりする中で、自分の人生を生き切れていない想い、自分の能力や経験を生かし切れていない想い、自分がすべき仕事をできていない感覚が強まっていきました。

写真2
海からずいぶん離れた場所でも、こんな光景があちこちにあった。津波が山にせり上がり、行き場を失った水が集落ごと飲み込んだ。ここで暮らす人たちが津波の襲来を想像するのは難しかったろうと思う。

 自分から求めたわけでもないのに、なぜ2度も南極に呼ばれたのか。なぜその後、被災地に通うようになったのか。
 明確な答えは見つからないけれど、このまま安易に流されて生きていることは、これまでの自分に対しても、それまでわたしに注ぎ込まれた全てに対しても、未来の自分や未来の世界に対しても裏切りであると感じるようになり、モンベルを辞めました。
 南極と被災地で深く染み込んだのは、「生きる」というテーマと、いのちの感覚です。これからどう生きるか模索する中で、少なくとも自分でいのちをつないでいける技術を身につけたいと思い、農業の世界を覗きに行きました。ハウスで葉物野菜を有機栽培している農園で研修を受けながら、時折よその農家に行ったり、外から人が来て講義をしてくれるのを聴いたりしました。その中で出会ったのが現職の社長です。2つ年上の同窓生でした。
 彼も脱サラ就農組でした。伊賀の農家で研修後、独立。伊賀地域の有機農業推進の活動に参画し、理科勉強会を行うなどするうちにその協議会の中心的役割を担うようになり、自身の個人農場を法人化。また、地域の野菜をとりまとめて営業販売するべく、協議会の生産者らが出資して卸会社を立ち上げており、その経営も担っていました。
 ひとりではマネジメントしきれない状況になってきていたタイミングだったので、変わった経歴の人間がいると目に留まったようです。話してみると、目指したい未来がとても近かったので、一緒にやることにしました。

いのちの中でいのちを感じる

 生産部隊のマネジメントを期待されたのですが、農業も経営も初めてのこと。他のスタッフから農作業を学びながら中間管理職的な役割を担うという、不思議な形でのスタートでした。畑から学ぶことはたくさんありました。慣行農法、有機農法などがあることすら知らないまま、農業の世界に飛び込んだくらいなので、わたしが有機農業に携わるようになったのは結果論です。けれども、導かれてここに来た感じがあります。
 生物多様性が高い場所では、病気や感染症が拡大しにくいという研究があります(新型コロナウイルスが都会で蔓延するのは、都会に人口が集中しているためだけではないと思います)。農業の世界では、微生物の多様性について語られることがあります。1グラムの土の中には、約100~1000万の微生物がいるそうです。土壌微生物が多様な場所ほど、植物は病虫害の被害を受けにくく、健康においしく育ちます。
 農業に従事するようになり、いのちの感覚が身近で深いものになりました。それまでは食べることにまったく興味がなく、「コンビニのパンをかじりながら昼休みも仕事をしたい」人間でした。そんなわたしが、農業を始めて、食べることを好きになりました。土からおいしい野菜ができることは、何度経験しても感動します。毎日味が違うことにも驚きました。日照、水、風、気温、病虫害など、さまざまなもの(環境)が味に影響するのです。
 モノと認識してきた野菜を、いのちと思うようになりました。自分のいのちが、たくさんのいのちに支えられてきたことを感じました。かつて、生きる意味がわからず苦しんだ時期がありましたが、自分のいのちを実感でき、草や木や虫や動物と同等だと感じるようになると、今ここに生きていることだけで肯定される感じがして、ずいぶん解放されました。

写真3
手塩にかけて育てたミニトマト。毎日味が変わる。野菜を育てていると、毎日野菜に会いに行きたくなる。

自分事として生きる

 サラリーマン時代は、ケージの中で羽ばたいて喜んでいる鳥であったと思います。何かを創ったと言っても、経営者が決めた枠の中で活動していただけで、ビジネスをどう成立させていくかとか、社会の中で会社として果たすべきことは何かとか、未来に対してどういう行動をとっていくかということを、自分事として考えたことはありませんでした。当時、経営者が、「全部俺が決めて、お前らはアイデアも出さないし何も決めない!」と嘆いていましたが、今なら嘆きの意味がわかります。
 労働の負荷や休みの多寡、収入面で言えば、今の生活はサラリーマン時代に比べるとはるかに大変です。でも今の方が好きだし、できることなら戻りたくありません。どうしてか。
 今は、人生を主体的に生きている感じが強いからです。ハラハラしながらニコニコしています。大変だけどおもしろいのです。かつては、すごく表層で生きていました。見てくれが整っていればよくて、要領がよければ評価されると思っていました。ものごとの背景を見ようとはしませんでした。人にも興味がありませんでした。なるべく触らないように、なるべく話さないように、なるべく関わらないようにしていました。今は違います。自分をとりまく世界に興味を持つようになりました。自分の行動が未来につながると信じるようになりました。
 就農後、子どもを授かったこともあり、現在は畑作業は手が足りないときに手伝うくらいで、主に流通業務を担っています。自分の特性上、抽象的なことが苦手で、現場(リアル)を通してでないとものごとが理解できません。院生時代も、他の学生が人工衛星のデータを使って、宇宙に行かなくてもコンピュータさえあれば仕事をできたのに対して、わたしは活断層調査しかり、南極しかり、自分の足でデータを取りに行かないと研究ができませんでした。今も同じです。自分で野菜を作るとか、自分で地域の生産者の野菜を集めてきて地域内外の業者に販売するとか、そういう実務を通してはじめて、課題や不足への理解が進みます。ものすごく効率の悪い存在ですが、それがわたしという個性です。アカデミアを離れ、在野で生きている一番の理由はそこにあるのかもしれません。
 今わたしが具体的に取り組んでいるテーマは、「地域内の青果流通をスムーズにするためのしくみづくり」です。中小規模事業体が大資本に巻き込まれずに継続していけるようにすること(自営業者に生き残ってほしい。彼らのような自立する人たちの存在によって、社会の多様性が維持され、堅牢な社会を築ける)。地域内の物流を何とかすること。生産者がバラバラに作付計画を立てるのではなく、実需に基づく形で作付調整をすることで、さまざまな無駄や争いを避けること。農業へのテクノロジーの導入(農業者のITリテラシーの向上も含めて)。農産物情報のデジタル化とデータ共有。学び合いや研鑽により、生産技術や経営力を高めていくための場づくり。このあたりの実現を目指しています。

気づく・止まる・変わる

 わたしにとっては、南極に行ったことよりも、サラリーマンを辞めたことの方が、人生へのインパクトは大きかったです。サラリーマンはずいぶん守られた立場であり、戦後目指してきた豊かな暮らしを体現する存在だと思います。でも安定・安心なはずのその形に大きな不安を感じて、わたしはサラリーマンを辞めました。この不安は、時代の変化からきていたのかもしれません。
 自然の中にいると、自然がいかにコントロールできないものであるかということがわかります。一方で、戦後の社会が目指した文脈での「豊かさ」は、コントロールの上に成り立ちます。物事をコントロールできる状態が標準になると、わたしたちは、コントロールできないものがあることや、わたしたち自身がそうしたものによって生かされていることを、忘れたり、無視したりしがちです。しかし、コントロールできないものがあることを忘れ、コントロールすることに躍起になっていた間の人間活動が環境変動を引き起こしました。その影響は、気候変動、自然災害、感染症といった形で顕在化し、我々の生活に影響が及ぶ程度が激しくなってきています。自然と離れすぎてしまった、ということだと思います。自然との距離感を見直し、いのちの感覚を取り戻すことが大切です。都会の人たちにこそ、そういった機会や場所が提供されるべきかもしれません。
 わたしは都会側で生きてきましたが、南極や被災地でアウトオブコントロールな事象に出あって、このことに気づかされました。それまでの常識に疑問が生じると、「変わらないでいること」がむしろ恐ろしくなりました。自分から求めたわけではないのに、2度も南極に行ったこと、その後、被災地や農業を経験したことの意味は、潮流の変化をからだで感じなさい、気づきなさい、ということだったのだと思います。
 今、わたしは市井に生きていますが、わたしにとって大切なことは、自分のいのちを輝かして生きているかということです。わたしの人生がわたしを通して実現しようとしていることは何なのか。そのことにしっかり聞き耳を立て、自分のいのちを燃やしたいと思います。消費する側からつくる側への移行を意識的に進めています。未来に向けて、自分に果たせる役割を果たそうとしています。進み続けることが常にいいとは限りません。潮目では立ち止まることが大切です。じっと観察し、探究する。進むべき方向が見定まったら、新たなモノを創り、行動する。そんなあり方で、自分なりのやり方で、進んでいこうと思います。

※1 南極観測隊には夏隊と越冬隊がある。ともに11月に日本を出発し、12月末に南極に到着する。夏隊は約2カ月間、南極で活動し、2月に南極昭和基地を離れる。越冬隊は2月1日に前次隊と越冬を交代し、翌年1月までの1年間、昭和基地の住人となって南極観測業務に携わる。越冬隊員が日本に戻るのは出発の翌々年の3月である。


【いわの・さちこ】

1975年生まれ。京都大学大学院博士課程在学中に休学し、第42次日本南極地域観測隊に参加(2000年11月~2002年3月)。帰国したのち復学し博士号(理学)を取得後、㈱モンベルに就職。2006年より再び南極越冬隊に参加(第48次)。帰国後、モンベルに再就職し2015年まで勤める。奈良県宇陀市で農業研修を受けた後、伊賀ベジタブルファーム㈱に就職。現在は、農業および青果流通に携わっている。

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