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3.11を心に刻んで

佐伯一麦〈3.11を心に刻んで〉

他人の持つ特権をののしり、優位をおとしめようとする者はあっても、つつましく、自分自身の現状のうちに、いささかの充ち足りたものがあたえられていることをも、発掘しようと努力をする人は僅少である。
(野口冨士男『越ヶ谷日記』より)
*  *
9年前の大震災当時、津波の痕跡を、戦争末期の空襲に遭った焼跡になぞらえる声をある年代以上の方々から多く聞いた。震災後に往復書簡を交わすこととなり、この春に亡くなった古井由吉氏からも、「あれだけの広域にわたり、あれだけ徹底して破壊された。敗戦の年の空襲以来のことです」との言葉があった。それとともに、大空襲で東京の家を焼き払われ、疎開した岐阜県大垣でも空襲に遭った7歳の体験に触れて、「七三歳の私の内にも、戦災で家も土地も焼き払われた七歳の小児がいます」との述懐も届けられた。
 古井氏の叔父の世代にあたる野口冨士男氏は、丙種合格ながら海軍に召集され、栄養失調症となって復員して、何とか生き延びることができた、という思いを強く抱く。それは、震災直後、命があっただけでよかった、と感じた被災者たちの切実な思いにも通じるだろう。だが、復興の遅れは当時も同じで、戦災の記憶が遠のくにつれて、被害の程度や復興の度合いなどによる格差が生まれ、不平や不満が湧き出てきた。そうした現状に対して、野口氏は日記に先の言葉を綴った。
 野口氏が復員したとき、応召前に妻子と住んでいた家は無くなっていた。空襲によってではなく、空襲に備えて、交通の要所の民家を、類焼を防ぐためや避難の場を確保するために住人を立ち退かせ、軒並みに取り壊す、強制疎開によってである。後年になって、野口氏が、強制疎開の補償金は、再建するときの一坪分の建築費にも足りず、また旧軍人や官公吏に対しては高額な恩給を支給していたにもかかわらず、栄養失調で復員した身には退職金も医療厚生費も出なかったと振り返り、欲しいからいうのではなく、よこしたら政府に突っ返すためだ、と激しい口吻でエッセイに記していたのが忘れられない。
 相変わらず、厄災による死は後を絶たないが、厄災を生き延びた者にとっても、生き心地がつかず、生と死の境が淡くなることはある。私の周囲でも、心労で寿命を縮めてしまったと思われる死がいくつかある。戦後の世相への違和感を抱きつつも、「地を匍ってでもともかく生きつづけるつもりであった」と、野口氏は後年の短篇に書いていた。
 
(さえき かずみ・作家)

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