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岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS

第0回 はじめに〈岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS〉

はじめに

 なにかを書き記そうとするとき、描こうとするとき、うまくできるか定かでないから不安も大きい、が一方で不確かながら(自信といえるほどのものではないが)頼れる予感のようなものがある。

 予感といっても必ずしもはっきりした輪郭があるわけではないのだが、なにがしか確からしさがあって、気持ちを高揚させる幸福感をともなう。これは好奇心というものを支えるひとつの性質でもあるだろう。この高揚がある以上、これから探究されるもの、作られるものはまったくの未知ともいえない気がする。いずれ、わかるはずだと感じている。だから予感である。あるいは単に自分が知らなかった、忘れていただけにすぎないようにも思える。

 行ったことはない未知の場所にどうしても行きたくなって出かけるのとも似ている。行くことを決心させるだけの確かさ、予感があるから行くのである。それはきっと誰かがすでに行っているだろう、いつか誰かが行くだろう場所である。その場所があることが確かとすれば、きっとそうなるだろう。100万年を超える長い時間を考えれば、きっと誰かが(何人も何回も)行っただろう場所。こうした場所を予感することは、その場所をきっと認識していたはずの先人たちの仲間になることをも意味する。
 予感は現在の不能感、つまり不安や孤立感を基盤にして発生するものだろうが、ゆえに、必ず、時を超えた可能性を含んでいる。ここまで大げさに書いたことを、簡単にいいなおせば、すなわち何かを創作するということは個人に帰属するものではない。それはその予感の指し示す場所に帰属するのだ。こうも言えるだろうか。制作を通して、個人は個人を超えて、個人というものの位置づけられた現在をも、超えて、この場所に属すことになる。それが予感の与える高揚である。できるかどうかわからないにしても。
 予感(という動機)から考えれば、作品を作ることも見ることも何かを再発見し、再把握するプロセスである点において大きく違うものではない。が、この二つの行為をただ同時に行っている、という言い方は正しくない。その二つは影響しあうにしても、決してうまくは同調しない。(ちゃんと経験したこともなく、それを語る資格もないが)ビリヤードをプレイするのとも似ているのではないか。すなわち絵画のテーブルを支配しているのは場所の予感である、として、そのテーブルを通して何かを見ること、そして作ることは、その与えられた場所の上で、たかだか一つの球を狙い澄まし、ひとつひとつ突いてみることにすぎない。けれど、その一突きで、テーブル上のすべてのボールがときに連動して動くだろう。予測不可能にも思える球の連動によって、球は最終的にポケットに落ちる。突いた本人もすごいとおもう。しかし、いずれ球がポケットに収まるだろうことは、この場所にとって、あらかじめ予期されていたのだし、また結末は盤面に散ったすべてのボールの反撥の連動によって、生み出される配置の動的変化で生み出されるのだから、それは盤面の球全員(!)で作り出した結果ともいえるだろう。いずれ、誰かがそれを起こすことは決まっていたことである。私だけでやったわけではない、十分予期されていた配置変化に加担しただけである。(アリストテレスのいったトポスとはこのビリヤード台のようなものだったのかもしれない)。
 ビリヤードの球の運動のイメージはさらに展開して、ポアンカレが盛んに述べた、いわゆる三体問題──相互に重力影響を与えるだけの質量をもつ3つ以上の恒星があるとき、それらの恒星の運動はほとんど計算不可能、予知不能になる──をも想いおこさせる。不安と高揚をもった予知が与えるのは、こうした恒星それぞれの予期できないが、ゆえに逆に個々の意志を超えた必然的な運動である。星座の隅に漂う、星くずであろうと、天空のおおいなる運動の一部をなしていることはきっと確かだろう。
 自分の気になっていた絵画、ときに彫刻作品について、なぜその作品が気になっていたかを書くというのは容易ではない。しかし、なぜこの絵を自分が描いたのか、と説明することはもっとむずかしい。当たり前だが、美術作品は目的論的に作られるものではないからだ。すなわちそこに一義的な因果関係は存在しない。とはいえ振り出しに戻れば、そこに何もないわけではない。予感がある。それを行為に至らせた何かの作用がきっと確かにある。その(何かの影響か)作用が働いて、何かをひとつ作り出す、すると、それが働きかけて、まったく別の問題が動きだす、それが動くことによって、また別の何かがわかる。複数の営みが働きあい絡み合って、全体が動いていく。三体問題のようなものだ。
 そんなわけで絵を描きながら、いままでひっかかっていた事柄(多くはさまざまな先行する作品)について気になっていたこと、気づいたことを書くということを始めた、答えを出すのではなく気づいたことを書いただけである。長い間、相談にのってくれている編集者に一読してもらったら、(制作した絵とテキストと参照された作品の関係は)「三位一体ですね」と大袈裟に形容してくれた。いやいや「さっぱり、完結する先がわからないから、むしろ三体問題でしょう」と答えて、ふと気づいた。そうか。三体問題こそ、実は三位一体の核心だったのかもしれない。

岡﨑乾二郎

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著者略歴

  1. 岡﨑 乾二郎

    造形作家。武蔵野美術大学客員教授。
    1955年東京生まれ。1981年の初個展「たてもののきもち」、1982年パリ・ビエンナーレ招聘以来、多くの国際展を含む展覧会に出品。主な個展として「ART TODAY 2002」(セゾン現代美術館、2002)、「特集展示 岡﨑乾二郎」(東京都現代美術館、2009〜2010)、「《かたちの発語》展)」(BankART Studio NYK、2014)、「視覚のカイソウ」(豊田市美術館、2019〜2020)。
    総合地域再創生プロジェクト「灰塚アースワーク・プロジェクト」、「なかつくに公園」(広島県庄原市)、「《ミルチス・マヂョル/Mirsys Majol/Planetary Commune》」(ガラス、セラミックタイルによる連続壁面、ハレザ池袋、豊島区)、「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター、2002)、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど。
    展覧会企画として「ET IN ARCADIA EGO ――墓は語るか」(武蔵野美術大学美術館・図書館、2013)、「抽象の力――現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」展(豊田市美術館、2017)、「坂田一男 捲土重来」展(東京ステーションギャラリー、岡山県立美術館、2019~2020)など。
    灰塚アート・ステュディウム(ディレクター、1996〜2000 )、四谷アート・ステュディウム(ディレクター、2002〜2014)。主著に『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房、2018)、『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー、文藝春秋、2014)、『芸術の設計――見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社、2007)。『ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ』(絵本、谷川俊太郎との共著、クレヨンハウス、2004)。

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