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アカデミアを離れてみたら

准教授からエンジニアへの転身〈アカデミアを離れてみたら〉

今 出 完(Lam Research Corporation)

 「大阪大学准教授」と言えば、どのようなイメージを持たれるでしょうか。生涯安定? 好きな研究をやって、あとは教授への昇進を待つばかり?
 私は、2018年2月に、それまで約20年(うち教員11年)過ごした大学を離れ、37歳で初めて外資系民間企業に転職しました。それなりのポジションでスカウトされたのだろうと思われるかもしれませんが、実は、コミュニケーションも満足にとれない、新たな分野の一エンジニアとして、自ら未知の世界に飛び出したのです。転職して2年半、アメリカに移住して約1年半経った今、改めて、なぜ私が准教授という大学のパーマネントポジションを捨てて、新しい世界に挑戦するに至ったのかを振り返ってみたいと思います。

人生を一変させた恩師との出会い

 大阪大学に入学した当初は、まさか自分が准教授まで大学に残るとは想像もしていませんでした。ただ就職がよさそうという理由のみで、入試では電気系の学科を選択し、将来は修士で卒業して電力会社で働きたい、と思っていたくらいです。
 しかし、学部4年生の研究室配属にあたって、私は学科内の電力系研究室と材料系研究室のうち、前者を選択しませんでした。電力系の研究室は複数あり、電力会社に就職したい学生の多くはそうした研究室を選択するのですが、それらの研究室での研究内容は主に、パソコンで電力系統のシミュレーションを実施する、というようなものだったからです。一方の私は、「電力会社に就職したい」という想いに変わりはなかったのですが、大学を卒業するまでに一度は、大きな実験装置がズラッと並んだいわゆる “実験系” の研究室で、深夜まで(朝まで?)実験するような経験をしてみたかったのです。そんな、いわば好奇心だけで、私は材料系の研究室を選択しました。この選択が、その後の人生を大きく変えることになろうとは、想像もしていませんでした。
 研究室で出会った助教授(今で言う准教授)の先生は、私がイメージしていた大学の助教授とは違い、まるで起業家だったのです。その方は、自身が研究してきた技術でベンチャーを設立していました。当然、私が与えられた研究テーマも、将来の実用化を期待されていたものでした。そして私自身、自分の研究を実用化することにやりがいを感じ始めました。
 修士課程に進むと、この研究を完成させたい、そして私の手で実用化を成し遂げたいという気持ちはより強くなり、博士課程に進学することにしました(起業を目指した研究でなければ、私はその時に電力会社に就職していたかもしれません)。その後も実用化への想いは強くなる一方で、博士修了後も研究室に残り、ポスドク、助教を経て、気づけば准教授になっていました。
 研究では、未来の省エネルギー世界を担う次世代半導体材料を扱っていましたが、基礎研究を突き詰めるだけではなく、国家プロジェクトの一部を担ったり、あるいは企業と組んだりして、チームとして社会実装を目指す、プロジェクト志向の研究開発をメインに手掛けていました。私はバレーボールをやっていたこともあり、チームスポーツが大好きで、チームで大きな目標に向かって進んでいく研究スタイルに魅力を感じていました。メンバーにも恵まれ、今考えても、いい環境で働くことができたと感謝しています。このまま大学に残り、実用化を目指し続けるのか、と思っていましたが、その後、転機は訪れました。

大学を離れる決断

 ポジションが変わるたびに、自ら研究する立場から、学生やポスドク研究員を教育・指導する立場へと変化していきました。教育と一口にいっても、その内容は研究だけでなく、進路や働き方などといった人間教育、さらには心の教育にまで及びます。就活シーズンが訪れるたびに、研究室の学生と、就職先の企業で何がしたいのか、何ができるのか、没頭できる内容か……といったことを繰り返し話し合いましたが、安定を求めて企業名で就職先を決めてしまうケースが多く、もどかしさを感じていました。
 博士課程への進学を勧めることも多々ありましたが、そのときにはいっそうの葛藤がありました。もし博士課程への進学を選択したら、それからずっと研究一筋で生き、大学に残って教授になるか、あるいはそれが叶わなければ、仕事がなくなる──そんな意見を持つ学生が大半だったのです。
 ちょうどポスドク問題真っ盛りの時期だったので、理解できないわけではありませんでしたが、博士に進学した人間には、まるで「一か八か」のような幅の狭い選択肢しか残されていない、と思われていると知らされました。学生には、「博士課程に進むことで、必ずしも就職の選択肢が狭まるわけではなく、逆にそこで学んだことは、民間企業でも必ず役に立つ」と幾度となく話しましたが、「大学を出たこともない先生にはわからない」と言われ、大きなショックを受けたことを今でも覚えています。
 しかしながら、当時の私には、それ以上の具体的なアドバイスができなかったのも事実です。この時私は、教育の難しさを痛感しながらも、教育が研究と同じくらいのやりがいに変わっていることに気づきました。本当に、学生たちの言う通りなのだろうか? 大学で長く研究してきて、民間企業で活躍することは不可能なのか。日に日に、その疑問は膨らんでいきました。
 アカデミアを目指す学生に、多様な働き方の可能性があることを身をもって伝えること──それが、長く大学で過ごしてきた自分にこそできる最大の教育ではないか。私はやがて、そう考えるようになりました。これまで大学でやってきたことをもとに、民間企業で力試しをしたい。民間で活躍できることを証明したい。そして、大学にその経験を還元したい。そんな気持ちが、どんどん強くなっていきました。自分の研究が実用化されるところを見届けたいという心残りはありましたが、それは後進に託し、私は大学を離れることを決心しました。

アメリカへの挑戦

 どうせ大学を離れるなら、基礎研究と正反対の生産現場で、かつ、日本ではなく、多様な国籍の研究者やエンジニアが集まる、アメリカの会社で勝負したいと考えました。
 転職サイトに登録すると、多数の国内企業からのオファーが入りましたが、海外の企業からのオファーは皆無でした。そこで私は、アメリカに本社のある企業の日本法人を経由して、アメリカへの転職を目指すことにしました。
 転職活動においては、企業を探すことと同時に、魅力ある人に出会えることもまた、楽しみの1つでした。研究室時代から上司には恵まれていましたが、尊敬できる人の元で自らを成長させたいという想いも強くあったのです。そして面接をする中で、ついに「この人だ」と思える人物に出会え、ラムリサーチの日本法人に転職しました。転職当初は渡米できる確約はありませんでしたが、アメリカへの長期出張の機会を与えてもらい、幸いにもアメリカのDirectorからスカウトされ、転職1年半後に、アメリカへの転籍が決まりました。

新しい環境にて

 私の会社では、主に半導体チップの製造に必要な半導体製造設備の開発・販売を行っています。私の仕事は、自社の半導体製造設備を使って、半導体の新しい製造方法を開発することです。優れた製造方法を自社の設備で実証できれば、設備を購入してもらえる可能性が大幅に上がるだけに、非常に重要な役割を担っています。
 一緒に仕事をしている仲間はほとんどが博士であり、最先端の生産技術の現場でバリバリと働いています。ここでは博士が仕事の選択肢を狭めるどころか、博士になって、ようやくエンジニアとしてスタートラインに立てる、という状況であることに、渡米して改めて驚きました。日本とは正反対です。また、国籍もさまざまで、中国、インドなどのアジア諸国やヨーロッパなど、世界各地から人材が集結しています。女性の管理職も多く、多様性に富んでいるところは、日本とは最も異なる点かと思います。「違い」を尊重する国ならではの環境でしょうか。

チームメンバーと。右から2番目が筆者、一番左が私を誘ってくれたDirector。アメリカだけでなく、スウェーデン、中国、インド、日本(私)と多国籍なチームです。

 このような環境の中で、私の新しい挑戦がスタートしました。さぁやってやるぞ、と意気込んでいましたが、さっそく困難にぶち当たります。中途採用の場合、自身の持っている知識・経験に沿って転職先を選ぶことが多いのですが、私の場合、それまで大学で研究してきた専門分野とは異なる分野に挑戦したので、その分野の知識、経験が圧倒的に不足していたのです。知識のみでは、博士の新入社員にも及びません。一から勉強しながらも、即戦力として結果を出すためにどうすればよいか、すぐに答えは見つかりませんでした。
 試行錯誤の末、それまで誰も手をつけていなかった解析上の問題に着目し、新しい解析手法を提案しました。当初は、上司から「時間の無駄だ」と言われましたが、根気強く続けた結果、その解析手法により、それまで知られていなかった新しい現象が明らかになり、自社の半導体製造設備の価値を高めることにつながりました。その手法を発展させるために、部門横断型のプロジェクトも立ち上がりました。「このことならあいつに聞け」と、ある意味居場所ができてきたように思います。その分野の知識・経験が不足しながらも、製品につながる着眼ができたのは、まさしく大学で、実用化を前提に研究してきた経験が生きた結果です(実は、この原稿を執筆している間に、私がメインで手掛けてきた製造法をお客さんが採用し、設備を購入いただけることが決まりました!)。

アメリカでの生活とワークフロムホーム

 渡米後わずか半年で、COVID-19のためステイホームとなりました。住んでいる場所は Black Lives Matter 運動から派生した暴動の渦中で、さらにオレゴン州では過去最大といわれる山火事の被害もあり、外に出られない日も多くありました。しかし、ワークフロムホーム(在宅勤務)が元から普及していることもあり、仕事への影響はほとんどなく、順調に生活できています。
 ワークフロムホームと同時に、当然子ども達の学校もオンライン授業になったので、妻と2人で3人の子どものオンライン授業をサポートしながら、仕事をしています。会社も、子どものオンライン授業の時間帯はミーティングを入れず、授業のサポートに入ることを、当然のことだと理解しています。子どもの誕生日などには「有給休暇をとりなさい」と促されるほどです。日本にいたころは、仕事と子育てに日々追われていたのが、今では、多くの時間を家族と楽しめるようになり、家族にとってもよい選択であったと確信しています。ワークフロムホームの今、仕事と家庭のどちらかを選択するのではなく、仕事と家庭双方がいい影響を与えあう生活スタイルを見つけられたと思います。

最後に

 私のように長くアカデミックで過ごし、外に出た時に見える景色──それは、外に出ずに想像できる景色ではありませんでした。 ただ、転職後2年半の経験で言えることは、アカデミックが長くても、民間企業でも必ず活躍できるチャンスがあるということです。
 まだまだ私の挑戦は続きますが、今、アカデミアを目指そう、もしくは、アカデミアから離れてみよう、と思いつつ悩んでいる学生や研究者の方々に伝えたいメッセージは、自信をもってその道を進んでほしい、ということです。パターン化されたキャリアの固定観念から一歩踏み出せば、いつでも未来を切り開ける方法があるはずです。ぜひ、新たな可能性を信じて挑戦してください。私の経験が、そのような方々の参考になれば、これほど嬉しいことはありません。

 

 


【いまで・まもる】

1980年生。2007年、大阪大学大学院博士課程を修了。ポスドク、助教を経て2016年、大阪大学大学院准教授に着任。次世代半導体材料の実用化を目指して、多くの国家プロジェクト、民間企業との共同研究に従事。2018年2月、ラムリサーチジャパンに転職。約半年にわたる海外研修を経て、2019年7月、ラムリサーチのアメリカ本社に転籍。3児の父。趣味は、スポーツ、ハイキング、工作、園芸など多岐にわたる。

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