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岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS

第4回 アルベルトゥス・マグヌス/王莽がときのとちのき/今茲而往生〈岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS〉

7 アルベルトゥス・マグヌス

《太陽の輝き Splendor Solis》挿画より/1582年,大英図書館
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1

 かつて(人間の文明がはじまる前)、朝になると日が昇り夕になれば日が沈むという、一日が繰り返しおとずれること、あるいは春、夏、秋、冬の四季の巡りは繰り返すのだ、と信じることはかならずしも容易くなかったかもしれない。
 日課として散歩をするようになると、どんなに人間の世界がひどい状況にあっても、それとは無関係に、空気がどこまでも澄んで光が輝き、爽やかな風の吹く日がおとずれることに、朝にかならず日が昇り、夕に日が沈み一日が終わることに、四季が繰り返すことに驚きとともに世界への信頼のようなものを感じるようにもなる。
 けれど朝、近所の公園に散歩に出かけ、こんな風にも感じる。たとえば散歩しつつ少し足取りを緩め感覚を澄ませば、いかに世界が多様性に満ちているかは自ずから顕わになる。なるほど目的を持たず、感覚も方向を定めず、きままに足を散らし気も散らすから散歩というのだろう。どこかに行こうという目的を捨て去るのに庭や公園ほどふさわしい装置はない。人為によって作られた、ある意味、安全に閉じた自然の中ではぶらぶらと時を過ごすことができる。確かに、そこは多様性に満ちているが、世界を揺るがすことは何も起こらないようにも思える。そこにあるのは、ほんとうに自然の多様性といえるだろうか。
 わたしたちの行為とそれに伴う感覚が、何かの目的への絞り込みから解き放たれることによって、現れる世界の多様性はただ、われわれの感覚器官が受容できる能力の広がりを示しているだけかもしれない。理性の統制を解除したゆえに、感覚できる領域の広がりが現れたにすぎないかもしれない。つまり、この世界の多様性は、それを感受する感覚器官の能力、精神の側のキャパシティの多様性と限界を反映しているだけかもしれない。
 確かに世界は明るかったり暗かったり、熱かったり冷たかったり、乾いていたり湿っていたり、重かったり軽かったり、魅力的だったり侘しかったり、あるときは輝かしく、あるときは沈んで感じられるかもしれない。かように外界の様相はそれを感受する感覚器官の尺度、パラメータを反映している。だから外界の変化はわれわれの気分の変化にも直結する。昼になって日常に戻れば、こうも感じる。こんな世界は憂鬱である。
 いずれにせよ、われわれの気分そして思考が変化していくように、世界は決して同じ姿に留まることなく、常に変化し続けている。変化とは、いままで現れていた状態、様相とは異なる状態、様相が現れることともいえるだろうが、その変化には二つの側面がある。一つは、あるものが、いままでの姿とは異なったものに変容すること、もう一つは、いままで存在しなかったものが現れることである。
 けれど、これらの変化もわれわれの感覚器官が感受するのだとすれば、新しい姿が現れたように見えたとしても、それは、あらかじめわれわれに備わっていた感受する能力があったからである。いかに新しい様相に見えたとしても、その変化は、見る側がもともと持っていた、それを感受しうる(いままで発動せず自覚されなかった)潜在的能力が発現したにすぎないといえるだろう。少なくとも一つ目の変化についてはそういえよう。こうして新しく現れたように見える世界の様相、出来事は、われわれの感覚器官の潜在性において、すでに感受されていた世界として連続することにもなる。その世界の多様性は、われわれの感受できる能力のうちに、あらかじめ構造的に連続したものとして組み入れられていたものである。だからわれわれは自分たちの能力の広がり、多様性に安堵もし、その安定性を頼もしくも思うわけである。世界は多様性をもって連続していく、と。
 けれど、ゆえに人を本当に不安にする事柄は、人は決して本当に新しい出来事を感受することはできない。世界が(人間の能力を超えて)決定的に新しい事態に移行してしまっても、それを感受することはできない。いや、それはもう起こってしまっているかもしれない、という二つ目の出来事が起こっていることを認識できない可能性にある。日が落ちて、夜が更けていくとそう感じる。

2

 中世スコラ哲学を大成した、トマス・アクイナスには先生がいて、アルベルトゥス・マグヌスという。スコラ哲学は、古代ギリシャのアリストテレス哲学を復興しキリスト教神学と結びつけたと広くみなされている。古代ギリシャ哲学の流れを汲んで、アリストテレスも世界の多様性、生成変化をいかに認識、理解するかをその哲学の核心に置いた。事物の属性は事物に所属するのか、それを認識する側にあるのかは問題の入り口である。アリストテレスはそれを論理学として組み上げた。けれど論理学は、属性の分別構成を認識する側の論理に組み込み整合的に体系化してしまおうとするわけだから、事物の生成変化は、それを認識する論理としては体系化され整合化されるが、究極的には、その外は扱えない、認識できないという結論に達してしまうだろうとも思える。もちろん世界を認識するわれわれの推論、認識の誤謬を正すことはできよう。人が何かを知ろうとするその知がどのような仕組みになっているのか、アリストテレスほど明晰にその論理を構造として把握した人はきっといない。あの膨大な自然学は自然を弁別する論理学としても理解できるだろうし、ゆえにアリストテレスの論理は制作技術にも応用できる。今日のデジタル技術におけるアルゴリズムもアリストテレスからそれほど遠ざかっているわけではないだろう、というのは素人の感想にすぎないけれど、アリストテレスは大元の直観において、人の持つ能力には認識できないものが発生すること、存在することをどこかに前提としていた、そう思える。それがあることの直観が、人間の知を導く引力のように働いて人は知を作動させる。つまり知を可能にする。それを目掛けて、人は自分たちの持っている認識パズルのピースを組み合わせていくが、はじめからパズルが完成しているわけではない。パズルのピースとしては完成しているけれど、それがどう組み上がるのかは感覚では捉えることができない。ただ、それがきっとあることをあらかじめ人の知は察知している、だから知は働く。
 一方、そのパズルの完成した全体像が知られていたならば、つまりアリストテレスの論理学が整合性をもって完結しているならば、世界のすべての生成もあらかじめ論理的にすべて予測し把握し、了解もできることになるだろう。属性や形相や質量などのカテゴリーごとの概念のセットの組み合わせで生成しうる世界の可能な像は原理的にあらかじめ確定されていることにもなるだろう。そこに神は必要ないが、一方で逆説的に人間の自由もない。世界の広がりは空間、時間を含めて細部に至るまで、あらかじめ確定されているはずであるならば。が、アリストテレスは決してこのように考えたわけではない。人間は完全ではない以上、人間の論理も完全ではない。むしろその不完全な知の構造までをアリストテレスは考えようとした。なぜ、われわれはそれをいま、知ることができず、あとでそれが現れるのか。すべてが現れることがないのか。つまり知ることのないものがあるのか。そこにアリストテレス哲学の最大の可能性があった。世界の可能性は不完全性とつながっているのである。
 トマス・アクイナスはアリストテレス哲学とキリスト教神学を、普通の意味で統合したわけではないのだろう。アリストテレスの明晰な自然観察と論理を論証技術としてフルに使いながら、その明晰に組み上げた論理がほつれてしまうところ、つまりアリストテレスがあえて開けておいた可能性の空隙を示そうとした。そこに神の存在がのぞいている。あまりに話はできすぎているのだけれど、あれだけの著作を爆発的に生産しつづけていたトマス・アクイナスは五〇歳も間近になったあるとき、決定的な宗教的啓示を経験し、(そこで得た啓示に比べ)「自分が書いてきたものは藁くずみたいなものだ」といって、著作することをやめてしまったというのである。その数ヶ月後、アクイナスは世を去る。

3

 アクイナスが亡くなったあとも、その師だったアルベルトゥス・マグヌスは生きた。彼は長命だった。アクイナスも異端の謗りを受けたが、アルベルトゥスはアクイナスを弁護した。アルベルトゥスこそアクイナスたちに先立ってアリストテレス学を(その広範な自然学までも含めて)本格的に復興した人物だったと言われる。アルベルトゥスはアクイナスに劣らず偉大だった。が彼はアリストテレスとキリスト教神学の相反する思考回路を整合的に統合しようなどとはしなかった。アルベルトゥスはアリストテレス自然学を研究するにあたって関係する資料を徹底して集め、それらを比較検討し整理し注釈し、より重要なことはそれを実践的に実験し試した。すなわちその知識には技術技法が含まれている。ゆえにアルベルトゥスは魔法使いのように見なされることさえあり、中世における錬金術の基礎をつくった人物として知られている。
 錬金術で行われる操作の基本は、物質をその属性、たとえば冷/熱、乾/湿、重/軽、硬/柔、などなどに詳細に分類し、その属性を純化させ、あるいはそれを組み合わせ、他の物質と融合させたり、変容させようという試みにある。物質の定義はそれが持つ(与える)価値、つまり属性によって測られ、ゆえにアリストテレスの論理学さながら、その属性(形相も含む)の振り分けも組み合わせも論理的に可能と考える。が、ここで論理的であるのは世界の性質であろうか。われわれの精神の傾向であろうか。いずれにせよ属性がわれわれの精神が与える事物の性質であれば、それを結びつける論理が、その物質世界と精神を結びつける絆ともなっていることは確かだろう。世界が冷/熱、乾/湿、重/軽、硬/柔、という属性の尺度で感受されるのは、まず人間の悟性の働きであって、論理がこれに基礎づけられているのであれば(さらに、それが大きさや重さや広がりという、さらに抽象的な属性、尺度に結びつけられることに明らかであるが)、世界が論理的に見えるのは、われわれの能力に即して世界が観察されているということであり、また構成されているということを示しているからに他ならない。このように錬金術は科学的というよりは、まずその基礎は論理学にこそ近い。世界は論理的に構成されているはずだ、という思い込み。ゆえに、われわれ人間が(知覚において捉える)物質の属性を操作することは、その操作手続きを通して、人間の精神自体を操作する可能性にも直結すると、錬金術はその可能性が捉えられてきたのである。そしてこの点において、錬金術は人間が扱う、技術の論理的基盤に、現在も通じている。
 たとえば三原色は、光の波長を三種の色相属性で分類し、その組み合わせで全色相が構成されると考えることを基盤にしているけれど、この三つの色の属性(原色)は人間の視覚能力の性質であって、光そのものにそれがあるわけではない。人間の視覚は、赤=長波長、緑=中波長、青=短波長、の波長域のそれぞれ感応する三種の錐体細胞を持ち、全色彩は、その三つの感覚細胞から受けた刺激を合成して認識している。この人間の属性にもっともよく対応する顔料、色材をもとめ、その組み合わせで全色彩を表現しようとすることが、印刷術であり、また写真術でもある。その復元性はそれを判定する人間の視覚の構造にとっての真実にすぎない。一方でこの三原色が構成する構造から捉えられる全色彩は極めて論理的な構造として把握されている(たとえば、この論理的構造によって、青を超えた短い波長の色彩と、赤を超えた長い波長の色彩は光学的波長としては両極端に離れているはずなのに、紫として連続して捉えられてしまう=円環として色彩が完結し連続して把握されてしまう)。錬金術は科学的というより、論理が作り出す詐術にすぎないともいえるが、としても現在の人間が操る、多くの技術も相変わらず、この論理によって構成されている。

4

 宇宙のすべての物理的データを知ることができれば、宇宙の全運動を未来にいたるまで確定的に把握(予測)することができる、という考えがあり、それを主張した天文学者の名を用いて、ラプラスの魔と呼ばれている。この主張は論理的である。知りえるものをすべて知ることができるのであれば、知りえることをすべて知ることができると考えるのは当然であり自明の理(トートロジー)である。それが起こったとき、それを認識できるなら、それは知りえるものであり、それは当然、知っているものから論理的に導き出されるだろう。が世界に含まれるすべての知りえる要素と、それをも含む世界の全体は異なる。世界はかならずしもそれらによって構成されていない。錬金術がかならず失敗するのはこの点である。金はわれわれの知りうる金の性質、属性の総合ではない。それらを寄せ集め、うまく合成すれば、われわれの知覚に現れるものとしては、金と瓜二つの見分けのつかないものができるかもしれない。しかしそれは金そのものではない。
 物質の属性、現われを超えて、そのモノをそのモノとするのは賢者の石だけれども、錬金術は賢者の石を得ようとして、かならず失敗する。(端的に、金が金である、という同一性は一つの属性として引き出し数えることができないのである。)世界はわれわれの知りえるものを超えている。その世界は人間が認識できないゆえに不変にも感じられるが、ほんとうは(正確にいえば)そこで起こっている変化、変容をわれわれ人間が知覚できないだけである。世界はつねにわれわれの知っている世界とは異なり、つねに、われわれの知覚が決して把握できない変容をし続けている。世界はつねに(さっきまでの)世界ではない。
 アルベルトゥス・マグヌスは「錬金術で得られるのは金と瓜二つ(人の感覚から捉えれば)違いのない物質である。けれど、それは決して金そのものではない、あくまでも金と見分けのつかない物質にすぎない」と述べたという。ここでアルベルトゥスの語った言葉を、われわれの知識が到達しうる世界は完結していて、ある意味(知のみならず、技術として)確定されうるし、してもいるけれど、金が金であること(あるいは人が人であることも、宇宙が宇宙であることも)は決して人間の認識として確定することはできない、と言い替えて理解してもいいだろう。
 錬金術はこうして失敗する。その失敗が逆に、それは論理では到達できない存在の次元、世界があることを立証する。悪魔であっても、それを確定的に捉えることができない。かならず失敗すること。そこに神は存在し、それが世界を地面から立ち上げている。この立ち上がる世界に繰り返しは存在しない。
 繰り返し=完結性、それは人間の論理こそが必要とする大地の性質=構造的土台である。そこではすべてのものの複製が可能であり、技術的な不可能もない、が同時に(その論理の必然として)その世界はあらかじめ閉じていて自由はない。
錬金術の破綻(=破綻することを覚知するために実践されてさえきたといえるかどうか)は(神という存在を媒介としつつも)自由があることをわれわれに教える。いや正確にいえば、一方で反対に、神がすべてを決定していたとしても、人の論理はそれを決定として捉えることはできず、それを把握するためのエンドレスな繰り返しに陥ることなく、技術的試行、そして思考を持続することができるのである。その日々の営みはつねに予想外、論理を超えた事柄をかならず含んでいる。世界はつねに(さっきまでの)世界ではない。世界は決して繰り返さない。夜が果たして、いつも明けるものなのか(また朝になり日常に戻ることになるのか)。決して明けることのない充実した夜に留まり続けることもあるのだ。

 

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© Kenjiro Okazaki(10枚組,以下,左から右へ示す)
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1/10 あ. 有時の片々/The opinion of Hermes and other philosophers who say that in any metal there are several forms
2015-2020,アクリル,カンヴァス,18×16.3×3 cm

2/10 る.
紅樹林(ルージュ)に埋る/The everything that does not evaporate in the fire stone, and this they call ‘body’ and ‘substance’.
2015-2020,アクリル,カンヴァス,20.2×14.3×3 cm

3/10 べ.
ベエルヤダ、神が知る/The efficient cause and the production of metals in general
2015-2020,アクリル,カンヴァス,18×16.3×3 cm

4/10 る.
貴種流離/What evaporates in a fire (which impact to stones as various colors) are called spirit, soul, or ‘accidentals’.
2015-2020,アクリル,カンヴァス,20×16.3×3 cm

5/10 と.
刀耕火種/Whether one form of metal can be transmuted into another, as the alchemists say
2015-2020,アクリル,カンヴァス,20×16.5×3 cm

6/10 す.
翠華(すいか)水成/The essential form of metals
2015-2020,アクリル,カンヴァス,19.7×16.2×3 cm

7/10 ま.
雲母(マイカ)火成/The opinions of the ancients about the material of metals
2015-2020,アクリル,カンヴァス,19.2×16.5×3 cm

8/10 ぐ.
グーテンアーベンで始まる/The opinion of Callisthenes, who postulated only one form of metal
2015-2020,アクリル,カンヴァス,20×14.3×3 cm

9/10 ぬ.
ヌーメノンとフェノメノン/Why stone is not malleable and fusible like metals
2015-2020,アクリル,カンヴァス,18×16.7× 3cm

10/10 す.
水天彷彿/The place where metals are produced
2015-2020,アクリル,カンヴァス,20×14.3× 3cm

※ アルベルトゥス・マグヌス(1200頃-1280) ドイツの神学者。カトリック教会聖人。主としてケルンで活動、アリストテレスについての注釈書を多数書き、その該博な知識から「全科博士」と呼ばれたという。トマス・アクイナスの師としても有名。

※ 《太陽の輝き Splendor Solis》 史上もっとも美しいと言われる錬金術の書。22枚のフォリオに豪華な細密画を載せる。15世紀生まれのドイツの錬金術師で《黄金の羊毛》を記した、パラケルススの師とも言われるトリスモジン(Salomon Trismosin)が書いたという説もあるが、定かではない。それぞれの絵の内容については、こちらこちらのサイトに紹介がある。

※ ラプラス(1749-1827) フランスの数学者、天文学者。『天体力学』『確率の解析的理論』『確率についての哲学的試論』など。

 

8  The rolling hills and The clouds/王莽がときのとちのき

伝・閻立本《前漢・昭帝》
《歴代帝王図巻》、十三皇帝図より
ボストン美術館
エゴン・シーレ《四本の木 Four Trees》
1917年,オーストリア絵画館(ベルヴェデーレ宮殿),ウィーン

 〈おおまがどき〉とは、直接的には魔に遭うという意味だけれど、どのような経緯か、『三国志』で知られる王莽(おうもう)の名が語源としてそこに含まれると言われたりもする。王莽は高いゲタをはき、毛皮をまとい、要するに仰々しいいでたちで彼の姿は覆われ、そのざわざわ、ゴツゴツした触覚的印象のみが強く、王莽の本当の姿はよくわからなかった。
 王莽は正統な出自なしに禅譲で皇帝の地位につき、新という国家を立てたことでも知られる。正統な出自を欠くゆえにか、彼の行使した権謀術策の残酷さが語られてきた。が、一方で彼は農地の私有の厳しい制限、奴隷売買の禁止、さらに経済面では高利を抑え、さらに一つの貨幣制度に生産活動が吸収されることを回避させるために、複数の地域通貨的な通貨の併設を許し、それを奨励したりもした。ことごとくそれらの理想主義的な政策は失敗し、最終的にその新制度で変革を強いられた農民たち、地方の豪族たちが立ち上げた反乱軍(赤眉軍、緑林軍)によって、王莽は殺され、新は倒されてしまうのである。ようするに歴史的になぜ王莽のような人物がでてきたのか、よくわからない。だから極端にオモテとウラがある人物として描かれる。その王莽が出現した時が、〈おおまがどき〉である。 
 風景を空間として考えれば、そこに手で触ったり掴んだりできるような具体的な触感などないように思える。エゴン・シーレが《四本の木 Four Trees》で描いた、夕暮れ時の風景は、赤や緑、青の色彩で染められた布が折り畳まれたように襞(ひだ)が重なり、ざわざわと触覚的である。その押し寄せる、夕陽の襞に立ち向かうように、四本の栃(とち)の木が(もはや暗くなった緑の)大地から立ち上がり、橙赤色に染まっている。〈おおまがどき〉の風景である。

© Kenjiro Okazaki
The rolling hills and The clouds/王莽がときのとちのき
2020,アクリル、カンヴァス,20.8×16.4×3 cm

※ 王莽(おうもう、前45-23) 中国・前漢末期の政治家。「禅譲」によって帝位につき「新」を建国したが、一代で滅し、劉秀(後の光武帝)により後漢が立てられた。

※ 閻立本(えんりっぽん、?-673) 中国・初唐、太宗に仕えた宮廷画家。土木建築、服飾なども手がけたとされる。

※ 昭帝(前94-前74) 前漢第8代皇帝。父・武帝の死去により、幼少にて即位した。

※ エゴン・シーレ(1890-1918) オーストリアの画家。ウィーン初期表現主義のなかで、グスタフ・クリムトらと共に活躍した。

 

9  Bambino/今茲而往生/The Absence of The Visual Contact

ドナテッロの原型を用い工房により制作《聖母子 Madonna and Child》
15世紀以降(原型1450年),メトロポリタン美術館,ニューヨーク

 二本足で歩くこと、手を使うこと、言葉を話すことは、人が他の動物とちがうことの証明であると言われる。昆虫などと違って、哺乳類の身体の成長過程は連続していて、その過程に、姿形ばかりか身体の構造まで刷新される「変態」は起こらない。しかし人が人であるとする徴が以上であるとするなら、人の子として生まれてきた赤子は、ある時、立って歩きはじめ、言葉を話しはじめ、さらに手を使って器用に何かを作ったり書いたりしはじめる。
 それを「変態」とはいわないが、成長過程のなかで、人が人になる劇的な瞬間があるわけである。つまり先に書いた人が人であることの定義に従うならば、生まれたときから人の子は人であるわけではない。
 ところが、はじめから人として生まれてくる人の子がいる。その子たちは、生まれてすぐさま二本足で立ち、言葉を話し、手を使っていろいろな合図を示す。これだけで、その人が特別な人間である標として十分である。ゆえに宗教的人物、歴史的人物の伝記ではこうした逸話が好んで語られる。生まれたときから立ち、歩き、話すことのできる能力をもっている子は、反対に人間の外、人間社会の通念の外にその生のはじめから立ってしまうのである。
 はじめから言葉を話すとは、誰に教わることもなしに言葉を話すことを意味するけれど、人から教わることがないという意味で、いつまでも人の言葉を話すことのできない子も特別な能力をもつ標をもっていると見做されてきた。いずれその子たちは突然、能力を発揮するだろう。生まれる子供たちはいずれにせよ、みな、人間社会の外からやってくるのだ。そのなかで人間社会に一切、触れることなしに、それを必要とせず、はじめから人である標を示す子供たちがいる。
 よく知られているように釈迦は生まれたとき、いきなり両足で立って7歩歩き、右手で天を左手で大地を指さしこう叫んだという。「天上天下唯我独尊」。重要なのはつづく一節である「今茲而往生分已尽」、意訳すれば──いま、ここに生まれたのは、生まれたり死んだりの繰り返しをおしまいにするためだ──とでもなるだろうか。
 釈迦は、母親である摩耶夫人(まやぶにん)が花をとろうと手を伸ばしたとき、その脇から生まれたというが、ドナテッロの聖母子像はその逸話と通底する強い印象を与える造形である。ドナテッロのつくるイエスと聖母は言葉など必要としない、視線を交わす必要もない。そんなまだるっこしい交流はしていない。ひたすら互いの顔や体をひっぱりあい、脇やら腹やら体のすべてをぶつけ合い押しつけ合って、つまりジャレあっている。人間に限らず、動物ならばおおよそ信頼する相手と、ジャレあうことで、お互いの存在を確かめ合い、そして認め合う。信頼は、血の繋がりも、動物の種をも超えて、脇から生まれるのだ。(変態ならぬ)化生というのはこういうことかもしれない。

© Kenjiro Okazaki
Bambino/今茲而往生/The Absence of The Visual Contact
2020,アクリル、カンヴァス,19.8×16.4×3 cm

※ 「今茲而往生」 中国・唐の僧侶、玄奘(げんじょう)による『大唐西域記』に記された、釈迦の誕生偈の一部。

※ ドナテッロ(1386頃-1466) ブルネレスキなどとともに、初期ルネサンスを代表するイタリア・フィレンツェの彫刻家。代表作に、コジモ・デ・メディチの依頼により作られたとされるダヴィデ像など。


*本連載には、現在開催中の展覧会「TOPICA PICTUS」会場にて配布されているリーフレットに掲載された内容と重なるものがあります。

*とくに示したものをのぞき、著者自作以外の作品画像はパブリック・ドメインのデータを使用しています。

*「TOPICA PICTUS」の画集は、ナナロク社より発売されています。

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著者略歴

  1. 岡﨑 乾二郎

    造形作家。武蔵野美術大学客員教授。
    1955年東京生まれ。1981年の初個展「たてもののきもち」、1982年パリ・ビエンナーレ招聘以来、多くの国際展を含む展覧会に出品。主な個展として「ART TODAY 2002」(セゾン現代美術館、2002)、「特集展示 岡﨑乾二郎」(東京都現代美術館、2009〜2010)、「《かたちの発語》展)」(BankART Studio NYK、2014)、「視覚のカイソウ」(豊田市美術館、2019〜2020)。
    総合地域再創生プロジェクト「灰塚アースワーク・プロジェクト」、「なかつくに公園」(広島県庄原市)、「《ミルチス・マヂョル/Mirsys Majol/Planetary Commune》」(ガラス、セラミックタイルによる連続壁面、ハレザ池袋、豊島区)、「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター、2002)、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど。
    展覧会企画として「ET IN ARCADIA EGO ――墓は語るか」(武蔵野美術大学美術館・図書館、2013)、「抽象の力――現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」展(豊田市美術館、2017)、「坂田一男 捲土重来」展(東京ステーションギャラリー、岡山県立美術館、2019~2020)など。
    灰塚アート・ステュディウム(ディレクター、1996〜2000 )、四谷アート・ステュディウム(ディレクター、2002〜2014)。主著に『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房、2018)、『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー、文藝春秋、2014)、『芸術の設計――見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社、2007)。『ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ』(絵本、谷川俊太郎との共著、クレヨンハウス、2004)。

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