伊東豊雄〈3.11を心に刻んで〉
フェリーは日に日に沈んでいた。海の下に隠れて見えなくなるのも、そう遠くなさそうだった。(中略)
フェリーが完全に沈んでしまう時のことを考えると、胸がうずいた。丘に登って、海の表面に何ものぞいていないと気づいた時、わたしはそこに何があったのか思い出すことができるだろうか。
(小川洋子『密やかな結晶』より)
2011年5月5日、私は「せんだいメディアテーク」の1階を埋めた人々と向き合っていた。人々は異常に昂った空気に包まれていた。その中の若い一人が「何かをしなくてはならない……でも何をしたらいいのかわからない」と言ったのを忘れることができない。
また同じ年の6月11日早朝、釜石復興の話し合いのために到着したばかりの我々一行に向かって、町のリーダー格の一人が「お前ら何しに来たんだ。俺達の町は俺達でつくるから」と言った一言も忘れることができない。
あれからまもなく10年の歳月が経とうとしている。小説の一節のように、あの時の記憶も我々の脳裡から次第に消え去ろうとしている。
この10年間に三陸の被災した町には防潮堤がつくられ、山を削った高台移転や削られた土を埋め立てた嵩上げが行われて復興が進んだかのように思われている。しかしこの間に何か大きなものが失われたような気がしてならない。俺達の町は俺達でつくられてはいない。住民としての彼らが考えていた町とはおよそかけ離れた町が実現しつつある。
逆らうことのできない大きな力によって彼らの心意気は消滅させられてしまったように感じられてならない。
私達も被災地に出かけていって復興のために出来ることはないかと模索したのだが、所詮私達が住民達のためにできたことは、小さな「みんなの家」をつくることだけだった。農業や漁業を通じて自然を敬い、自然と深く結ばれた暮らしをしてきた人々に対して、国や県は技術によって自然と対峙し、自然を克服できると考え、近代主義思想に基づく復興を押しつけてきた。
「みんなの家」はそうした復興に対する異議申し立てであり、俺達の町をと願う人々の想いを何とかして実現したいと願う、ささやかな試みであった。しかしいま、仮設住宅の解体とともに「みんなの家」も解体の危機に瀕している。表層的な安心安全神話に拠る復興とは裏腹に、住民達の心に拡がる空洞が埋まることはないに違いない。