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アカデミアを離れてみたら

丸腰博士(理学)の島おこし──ジョブチェンジで人生逆転⁉〈アカデミアを離れてみたら〉

須澤佳子(対馬コノソレ)

 東京生まれ、東京育ち。発生生物学分野で学位を取得したものの、自然豊かな暮らしにあこがれて右往左往しているうちに、日本の最果ての島・対馬にたどり着きました。ロールプレイングゲームのような島暮らし10年目、ようやく拠点を構え、対馬の魅力を伝える商品開発に取り組んでいます。

世界が壊されるのが悔しくて

 幼いころから父の地元の長野県の山小屋に連れていかれていた私は、物心ついたときから、植物や周囲の自然に興味を持っていました。
 私が育ったのは東京都八王子市、「平成狸合戦ぽんぽこ」の舞台にも近い丘陵地帯です。ウサギやキジが走るほど、自然も豊かな場所でした。 
 小学生のころの私は、毎日のように友達や妹たちと山の中を走り回り、木や竹で秘密基地を作ったり、湧き水の沢すべりをしたりして遊んでいましたが、残念ながら宅地開発により、自然豊かな遊び場はきれいさっぱり消えてしまいました。お金にならないと判断された山が切り崩されてしまうという現実に、子どもながらに大きなショックを受けました。
 1987年、利根川進先生がノーベル賞を受賞されたとき、テレビに映った副賞のメダルの輝きが忘れられず、自分も科学者になってノーベル賞をとりたい、そして自然と世界を守りたい、と思うようになりました。そして漠然と、植物を使って環境を直す仕事がしたいと思うようになったのです。
 私の実家は裕福ではなかったので、自宅から通えて農学部のある東京大学理科Ⅱ類に入学し、奨学金をもらってアルバイトをしながら通いました。
 学部時代は、農学部の植物病理学研究室でイネいもち病のウィルスをテーマに卒論を書きましたが、対象がミクロに寄りすぎたのでしょうか、あれだけ好きだった植物への興味はうすれてしまいました。代わりに、当時流行りのバイオベンチャーと再生医療への興味が増して、大学院からは理学系研究科の動物学専攻に移り、アフリカツメガエルの受精卵の全能性について研究することになりました。
 なんとか学位はとれましたが、その頃にはすっかり、アカデミックに残る選択肢はなくなっていました。「自分で手を動かしてできた成果は、紙(論文)ではなく、モノにして、お客さんに楽しんでほしい」と思うようになったからです。

健康食品会社で、商品開発の修行を積む

 博士課程を修了するにあたって、一般企業への就職を考えたのですが、もともと研究職に興味がうすいため、一次面接すらなかなか通りません。しかし、就活戦線も終盤に差し掛かったころ、ようやく、全身に電撃が走るような企業に出会えました。
 佐賀県鳥栖市で、有機栽培から商品の製造・企画開発まで手掛ける健康食品の会社でした。「台風の中、麦畑が心配で車を走らせた」という先輩社員の体験談が印象に残っています。自然に向き合い挑戦し続ける仕事に運命的なものを感じ、ご縁をいただいて入社。2007年のことで、この就職に際して初めて東京を離れました。
 この会社で、いままで興味のあった植物・健康(治療)・科学がすべてつながり、広告やパッケージデザインまで考えることができました。商品開発部門にて4年間、たくさんのことを学ばせていただき、人生で初めて、尊敬できる人たち(上司や同僚)にも出会うことができました。
 全国の大手企業を相手に企画提案をしていく中で、ご当地のもの・そこにしかないもの・こだわりの産物の価値(特に、島や村のご当地産品の高い付加価値)を知りました。大手さんがこぞって「○○村の△△さんの作るキノコは入手できないか」とか、「○○島の素材を入れてライバル企業と差別化したい」などと言い出すので、面白くてたまりません。そこに、学術的な文献で根拠を見つけ、意味づけをして企画を作っていきます。クライアントからは「〇〇県縛り」でサプリメントを提案してくれ、という依頼もあり、熊本県や鹿児島県については企画が実現しましたが、「長崎県縛り」の依頼だけは、素材がなくて応えられませんでした。

素材の宝庫、対馬との出会い

 そんな中、2011年の1月に、大学時代のメーリングリストで「長崎のとある島で、薬草担当を募集している」という話が回ってきました。ここで私は、初めて対馬の存在を知ったのです。「長崎県の島の健康食品素材を開発できたら面白いかもしれない」と思い、激務の息抜きもかねて偵察に行きました。
 対馬に滞在中、南部の宿坊と北部の自然農園でそれぞれ一泊しつつ、島中を案内していただきました。深く澄んだ海から急な崖がそびえたち、豊富な自然植生が残された森がある。大学時代に愛して通った西伊豆にそっくりな環境で、海が伊豆よりきれい。なにより、ほとんど世間に知られておらず、まだ何も始まっていない感じがあり、私でも何かできるのではないかと期待が高まりました。
 自然農園での暮らしは、「百姓」の言葉にあるとおり、海のことも山のこともしながら、家畜を育て野菜を作り蜂蜜をとる、というものでした。自然とともにある暮らし。とても、心惹かれました。会社を辞める気はなかったものの、対馬の職に応募してみました。

今じゃない、でも今しかない

 2011年3月10日、対馬の職の最終面接がありました。そしてその翌日、3・11(東日本大震災)が発生します。製造現場では、原料から包装資材まで、予想もしなかったようなものが東日本で作られていたことが浮き彫りになり、それらの調達ルートがひっくり返りました。稼働可能な工場が多いという意味でも、原料の安全性の面からも、世間の意識は一気に西日本に向かいます。「このままでは日本が終わってしまう」という危機感の中で、対馬から合格の知らせが届きました。対馬市の地域おこし協力隊(※1)の、任期3年の仕事です。
 当時は、奨学金を200万円まとめて返済した直後で、貯金もありませんでした。卒業時は1000万円に近かった奨学金の返済残高は、その返済で600万円くらいに減ったとはいえ、完済にはまだ遠い額です。完済後に結婚したいと思っていた彼がいたこともあり、対馬に行けば給料は3分の1近くに減るので非常に悩みました。
 しかし、幼いころからずっとやりたかった「自然をいかす仕事ができそうな田舎」への切符です。いつかと望んでいたけど今じゃない。でも、日本を救うには今しかない。西の果てにある対馬の可能性を活かしたくて、対馬への移住を決意しました。とても、とても悩んだ末の決断でした。
 仕事も大好きだったため、会社を辞めたくなくて号泣しました。上司からは、「この忙しい時に第一線を抜けるのであれば、絶対3年は帰ってくるな、やり遂げろ」と言ってもらい、送り出されました。

話が違う……からの奮闘

 ところが、いざ対馬に着任すると、配属された市役所の支所で薬草担当を提唱した部長はすでに異動しており、受け入れてくれた職員のみなさんも困惑気味で、放り出された私は、何をすればいいのか全くわからない状態。よくよく聞いてみると、薬草開発に使える予算も、加工場を作ったりするには全く足りず、年に200万円ほどしかないという惨状でした。
 手元にあるのは、車とパソコンのみ。私は、自分にできることを探してがむしゃらに動きはじめました。
 民間と行政の違いに苦しみながら、周りでなにか収穫があると聞けば見に行き、地元のお家にずうずうしく遊びに行き、おじちゃんおばちゃんからたくさんヒアリングをし、対馬の植物資源の状況や加工場、事業者の情報を調査し、昔の研究仲間から論文を取り寄せたりもして、私にできることを探しました。市役所職員の規定にはまらない動き方をする私を好奇の目で見る人も多かったのですが、当時の対馬市長の「自由に、思い通りにやりなさい」という言葉には本当に助けられました。協力隊員になってから、全国各地の地域おこしに携わる方々ともつながり、人生の師匠がたくさん増えました。
 対馬に足りないものと今ある資源を結びつけ、「捨てられかけていたブルーベリーの利活用」としてご当地アイス・ご当地サイダーを作ったり、在来そばの葉で青汁開発をスタートさせたりと、対馬を盛り上げるさまざまな商品づくりを始めました。
 先述のように、協力隊の任期は3年間です。任期後に自活できる仕組みを作らねばならなかったので、在任中から地元の若者と、地域おこし団体「對馬次世代協議会(通称:対馬コノソレ)」を設立、ご当地産品の原料の栽培から商品の製造・販売まで手がけ、任期を終える時期にはNPO法人化して独立しました。2017年には、通信販売の株式会社を分社化。いまは地元の若いお母さんたちをスタッフとして育てながら、これらの2法人を運営しています。また独立してからは、対馬のニホンミツバチのはちみつ団体の運営にも関わらせてもらっています。気がつけば、東京に健康食品素材をおろすつもりが、対馬に根を下ろすようになっていました。(付き合っていた彼には我慢してもらって、遠距離別居の結婚生活を継続中です。)
 健康食品業界は少し遠のいてしまいましたが、例えばそばの葉の青汁に含まれるルチンの効能はかなりのもので、機能性食品にもなりそうなほどですし、昨年導入したレトルト釜でつくる「海と山のおつまみ」や「ジビエ肉のパウチ」も大好評です。会社が軌道に乗るまでにはまだまだかかりそうですが、研究をかじりながらのモノづくりと、海に近い田舎暮らし、たまに都会に物販に行く生活は、これまで生きてきた中で一番、性に合っているかもしれません。なにより、少しでも地域社会の役に立てているという感覚は、なかなか都会では味わえません。
 研究室時代は迷ってばかりの私でしたが、ようやく見つけた今の生き方に、もう迷いはありません。地域の子どもたちを育て、対馬の自然環境を次の世代につなげるため、私たちの団体を、地元の人に頼られ愛される地場産業のかなめとなるよう成長させていきます。

インドのインキュベーション施設で起業家を前に講演。インドの起業家の熱量に圧倒されました。
「コノソレ・キッチン 海と山のおつまみ」シリーズ。対馬の海と山の食材をふんだんに使い、藻塩や対馬のはちみつで味付けをした無添加おつまみで、対馬の魅力が詰まっています。このシリーズが作り続けられるということは、対馬の海と山が豊かであり続けている証拠。つまりこのシリーズは、対馬の未来につながっています。 提供: 対馬観光物産協会。
インドのインキュベーション施設で起業家を前に講演。インドの起業家の熱量に圧倒されました。
2020 年 3 月に事務所を移転して、農林水産加工基地を作りました。これはそうざい加工室内の小型レトルト釜。対馬の未利用食材をなんでも美味しく加工できる、とっても頼もしい相棒です。

僻地への移住のすすめ

 アカデミアを離れての就職先は、研究職が多いかと思いますが、対馬のような僻地にも、専門知識を生かした活躍の場はたくさんあります。私が対馬で立ち上げた企画についていえば、そのすべてにおいて、会社員時代に身につけた商品開発の力のみならず、大学院時代に培った、データを読み解く力、実験を繰り返す忍耐力、研究仲間とのつながりが生きています。しかし、地域の仕事は報酬額が低いことが多く、奨学金を返せるだけの余裕が全くありません。(現に、私も私財のすべてを事業に投じています。コロナ禍でますます財政は厳しい状況ですが、周りの支えもあり、何とか乗り切れそうです。)
 旧日本育英会の奨学金返還免除職には教職などがありましたが、僻地での活躍を希望する人にも、奨学金の返還免除……とまではいきませんが、税金を控除したり資金援助をしてもらえたりするしくみがあったらいいのに、と切に思います。そんなしくみがあったら、高収入の都市部の企業や大学だけを就職先として選ぶのでなく、私のような生き方をする研究者も増えやすくなるのではないでしょうか。
 地域に研究経験者が根を下ろすのは素晴らしいことです。学問が届きにくいところにもアカデミックの芽が生まれ、地域の活力にもつながります。そもそも僻地にとって、人ひとり増えるということが、どれほどの力になることか。
 今は、ひとところの大学に所属しなくても、2拠点3拠点で研究が続けられる時代です。在野の研究者が増え、人手不足の僻地の力になり、各地域の自活力が高まり、ひいては日本自体が強くなっていくことを願ってやみません。

(2020年10月15日談、協力:鍵本紘樹)

 

 

※1 都市地域から過疎地域などに住民票を異動し、生活の拠点を移した者を、地方公共団体が「地域おこし協力隊員」として委嘱する制度。隊員は地域に居住し、さまざまな「地域協力活動」を行う。 隊員の活動経費などは、総務省からそれぞれの地方公共団体へ交付される。対馬市では「島おこし協働隊」 として制度化 され ている。

 


【すざわ・けいこ】

1978年東京生まれ。東京大学農学部卒業、東京大学大学院理学系研究科博士課程修了。博士(理学)。2007年、株式会社東洋新薬に入社、製造事業推進部配属。2011年に対馬市島おこし協働隊1期生(薬草担当)として着任。翌年、任意団体「對馬次世代協議会(通称:対馬コノソレ)」を設立し、2014年にこれを法人化。2017年には通販会社「株式会社コノソレnatural factory」を設立。現在、特定非営利活動法人對馬次世代協議会理事長、株式会社コノソレnatural factory代表取締役。対馬の地域素材を最大限に活用した商品づくりと島外への対馬PR、そして外貨獲得に向けて、地元の人材を育成中。

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