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岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS

第7回 モスコポロス、荷物を落とす/音に泳ぐ(耳も口も)/水潯での叱咤〈岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS〉

16  The calf-bearer/モスコポロス、荷物を落とす

 
《モスコポロス(仔牛を担ぐ青年) Moschophoros(Calf-Bearer)》
紀元前560年頃,アクロポリス美術館,アテネ

 長い月日が経てば、堅く頑強な彫刻であっても破損し、ばらばらになったりもする。破壊され断片になっても、かならずしも彫刻はその魅力を完全に失うわけではない。ばらばらになったとき、むしろ彫刻は、なにがもっともその彫刻にとって大事であったか、彫刻の核にあったか、を顕わにさせることもある。
 《モスコポロス(仔牛を担ぐ青年)》は紀元前560年、今から3000年近く前に作られたアルカイックの時期のギリシャ彫刻である。もともと設置されていた神殿も崩壊し、当然この彫刻も破損しその両脚を失っている。けれど男が肩にのせた仔牛は無傷である。もともと別の存在であるはずの男はまだ肩に仔牛を担いでいる。いや、彫刻がまだ元の姿の全体を保っていたとき、男が肩に担いでいたように見えただろう仔牛は、彫刻が破損したことで、ますます男と一体となってその親密さを強めている。
 アルカイック期のギリシャ彫刻がそうなように、この彫刻像は強い正面性をもって造形されている。建築に配するにはそのほうが秩序が保たれ都合もよかっただろう。建築が壊れ、彫刻が建築から物理的に転げ落ちたとき、彫刻は壊れ、その正面性も失われ、360度すべてが等価、そして自由な岩石の塊となる。転げ落ちたとき、肩に担いだ仔牛だけは、もともと正面性の原則に則していなかったと顕わになる。(原則を守って)律儀に正面を向いている男に、肩に担がれた仔牛は(ルールなんか気にせず)なにか話しかけるように首を向けているからである。話しかけられた男はなにか幸せそうだ。アルカイック彫刻が、正面性の原則から離れて全方位の運動に進化するのは、この彫刻あたりからだとみなされている。仔牛と男の間に通じあった心の動きがその展開を可能にしたわけである。この心の繋がりは物理的に破壊できない。だからこの男に担がれた仔牛が犠牲になることはきっとなかっただろう。仔牛の心はもともと、自由に放たれていたのだから。

© Kenjiro Okazaki
The calf-bearer/モスコポロス、荷物を落とす
2020,アクリル,カンヴァス,20.2×16.4×3 cm

 

17  音に泳ぐ(耳も口も)/Peuples de La Mer

《牛跳びの図 Bull-leaping》
紀元前1500年頃,イラクリオン考古学博物館,クレタ島

 クレタ島のクノッソス宮殿は外部からの侵入に無防備だった。ゆえに滅ぼされたとも言われている。その一方でクノッソス宮殿は迷宮のようだったとも語られている。一見矛盾するように聞こえるけれど、この二つの記述は、宮殿の核に位置づけられた中庭と、それを取り囲むように宮殿の階層ごとに配置された回廊をたどって想像を巡らすと、同じ建築物の二つの側面を語っていたと了解できるような気がしてくる。
 宮殿はエーゲ海を臨んでそれを引き込み、またその空を仰いでそれを建物の余白のあらゆる場所に浸透させている。地中海の空と海を吸収するように宮殿は建設されているのだ。
 宮殿は、エーゲ海のすべてに向けて目を瞠き、耳をそばだてる感覚器官として、そして、その豊穣な空間を泳ぐ手であり足であるかのようである。クノッソス宮殿に配された壁画でなによりも特徴的なのは、その色彩、青である。セルリアンブルーといったほうが正確かどうか、空の青、水の青はこの青において区別されず融合している。
 水の中で海豚いるか とともに泳ぐことも、牛の背を飛び越え空を舞うことも、その壁画においては区別がつかない。空は海であり、海は空であり、海で泳げるなら空を自在に飛ぶこともできるだろうという期待もいだかせる。そもそも牛跳びの壁画には地面が描かれていないから、牛と人は青の空間の中を泳いでいるようにしか見えない。
 この海や空を満たしているのは大いなる羊水であって、この溶液のなかで海豚も牛も人も、その区分が発生する以前の姿に戻れるかのようである。クレタのクノッソスの迷宮をつくったのはダイダロスだと、ギリシャ神話は伝える。ダイダロスは牛の頭をもつミノタウロスを閉じ込めるためにこの迷宮をつくった。一方で自分たち自身もその宮殿に閉じ込められ、ダイダロスは脱出しようとしたイカロスに翼をつけたが、空に飛んだイカロスは太陽に近づきすぎて、翼を体に接着していた蝋を溶かしてしまい海に落下してしまう。空と海は、音や光を伝える媒体であって、それを感受する感覚において、対象としてははっきりと区別がつかない、それが迷宮の正体である。目や耳はいつも無防備なのだ。

© Kenjiro Okazaki
音に泳ぐ(耳も口も)/Peuples de La Mer
2020,アクリル,カンヴァス,18×24.1×3 cm

※ 「クノッソス宮殿」 ギリシャ・ミノア文明期の遺跡。ギリシャ神話には、ミノス王の時代、宮殿内の迷宮にすむ怪物ミノタウロスを退治せんとクレタ島にやってきたテーセウスが、王の娘アリアドネの「導きの糸」に助けられてみごと役目を果たすエピソードがある。

 

18  水潯での叱咤/Undine

アーサー・ラッカム《『ウンディーネ Undine』挿絵(15枚中14枚目)》
1909年刊行
フリードリヒ・フーケ『ウンディーネ Undine』1811年初版の表紙

 固有な輪郭、形態を持つものであれば、たとえ生物でなく物体であっても、それに固有な名を与え、固有な存在として扱うことが容易くできる。キャラクターではなくキャラといわれるのか、人の生活の中には、このように擬人化された事物があふれてさえいる。だから物体にも魂があるとみなすことは人の精神の性格として当然の働きである。
 けれど、輪郭をもたない物質にはこうした扱いは困難である。それにも名前を与え、それにも生命を感じることはできるけれど、それは固有というよりは一般的で全体的なものになってしまう。それは輪郭をもたず、つまり閉じた形態をもたないから終わりなく連続し、つまり、いかなる場所にも溶け込み、あるいは固有の場所にとどまらず流出していってしまう。名前はその全てを包摂する、より一般的なものにしかならない。いいかえれば固有の輪郭、形態はいつか崩壊し滅びるけれど、物質は姿を変化していっても、決して消滅することはない。だからそこに固有の生も、固有の魂も存在しないのだ。なぜなら、それは終わり、死をもたないから、その生はすべての生と連続してしまう。生が固有な輪郭、形態をもつということはそれが滅びる場所つまり死をもつということである。したがって物質には死はないが、物体、対象にはある。それは固有の名をつけて呼ぶことができる。
 水であったウンディーネは騎士のフルトブラントに呼びかけられることで、ウンディーネになった。ウンディーネは恋愛の対象となり、そしてウンディーネもフルトブラントに恋をしはじめる。ウンディーネはそのとき固有の輪郭と魂を持った。ウンディーネが魂も姿も失うことがあるとすれば、彼女に固有の魂、形態を与えた、その名前が覆され裏切られるときである。そしてドナウ川の上で愛するフルトブラントからいわば、おまえは人間もどきの忌々しい水にすぎない、と罵られたとき彼女の生は終わってしまう。おおいなる水に戻ったウンディーネ。が物語は終わらない。固有の生は終わっても愛は持続する。では水という物質が人を愛そうとするときどうするか。水は名を呼びかけて相手を愛の対象としたりはしない。ただ相手を包み込みその固有の生を終わらせる。そして同じ水として一体化するだけである。こうしてフルトブラントは水に飲み込まれる。

© Kenjiro Okazaki
水潯での叱咤/Undine
2020,アクリル,カンヴァス,16.6×20.6×3 cm

※ アーサー・ラッカム(1867-1939) イギリスの挿絵画家。とくにメルヘンやファンタジーの挿絵が有名で、『ガリヴァー旅行記』『不思議の国のアリス』などを手がけている。

※ 『ウンディーネ』 ドイツの作家フリードリヒ・フーケ(1777-1843)が1811年に発表した小説作品。水の精霊ウンディーネと、騎士フルトブラントの悲恋を描く。ゲーテにも賞賛され、広く読まれた。


*本連載には、現在開催中の展覧会「TOPICA PICTUS」会場にて配布されているリーフレットに掲載された内容と重なるものがあります。

*とくに示したものをのぞき、著者自作以外の作品画像はパブリック・ドメインのデータを使用しています。

*「TOPICA PICTUS」の画集は、ナナロク社より発売されています。

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著者略歴

  1. 岡﨑 乾二郎

    造形作家。武蔵野美術大学客員教授。
    1955年東京生まれ。1981年の初個展「たてもののきもち」、1982年パリ・ビエンナーレ招聘以来、多くの国際展を含む展覧会に出品。主な個展として「ART TODAY 2002」(セゾン現代美術館、2002)、「特集展示 岡﨑乾二郎」(東京都現代美術館、2009〜2010)、「《かたちの発語》展)」(BankART Studio NYK、2014)、「視覚のカイソウ」(豊田市美術館、2019〜2020)。
    総合地域再創生プロジェクト「灰塚アースワーク・プロジェクト」、「なかつくに公園」(広島県庄原市)、「《ミルチス・マヂョル/Mirsys Majol/Planetary Commune》」(ガラス、セラミックタイルによる連続壁面、ハレザ池袋、豊島区)、「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター、2002)、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど。
    展覧会企画として「ET IN ARCADIA EGO ――墓は語るか」(武蔵野美術大学美術館・図書館、2013)、「抽象の力――現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」展(豊田市美術館、2017)、「坂田一男 捲土重来」展(東京ステーションギャラリー、岡山県立美術館、2019~2020)など。
    灰塚アート・ステュディウム(ディレクター、1996〜2000 )、四谷アート・ステュディウム(ディレクター、2002〜2014)。主著に『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房、2018)、『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー、文藝春秋、2014)、『芸術の設計――見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社、2007)。『ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ』(絵本、谷川俊太郎との共著、クレヨンハウス、2004)。

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