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3.11を心に刻んで

金山智子〈3.11を心に刻んで〉

わたし「バカじゃないの」って言ったの、そのディレクターに。バカじゃないのって。そんなこと聞く方がバカだと思うって。生でやらない理由がないから、生でやるんだよって言ったんだけど。

(映画『空に聞く』より、陸前高田市・阿部裕美さんの言葉)

*  *

 映画『空に聞く』の主人公、震災当時、陸前高田災害FMのパーソナリティだった阿部裕美さんが、大手放送局のディレクターに黙禱放送をなぜ毎回生放送でやるのか、録音でいいじゃないかと言われた時に返した言葉。
 私たちの社会には、記念日や記念行事、記念碑など、公共空間に国家的集合的記憶を想起させる装置がたくさん埋め込まれていて、メディアも記憶想起の仕組みの中で重要な役割を担っています。終戦記念日や広島・長崎の原爆の日、阪神淡路大震災や東日本大震災の追悼式や慰霊祭は、メディアイベントとして取り上げられ、忘れ得ない集合的記憶として私たちに問いかけてきます。
 「黙禱」という発声は、追悼というメディアイベントの一部であり、先のディレクターはわざわざ生の声で言う意味はないと思ったのかもしれません。しかし、黙禱は記憶ではなく、祈りです。村上和雄と棚次正和は、著書『人は何のために「祈る」のか』の中で、祈りとは生きる人の行為であり、いま、ここで、この状況を受け入れることでもあると述べています。映画の中で、阿部さんは、「確かに同じこと言うんだからそうなんだけど。でもその毎月毎月の月命日っていうのは、先月の11日と今月の11日では違うわけじゃない?それぞれの人の気持ちだって違うし、その1カ月の間にもしかしたらばご遺体が発見されて、ご家族のところへ戻った方があるかもしれないし」と語っています。黙禱を、生きている人がその時、その場所で、その境遇において祈ることとするならば、黙禱を呼びかける人もまた生の人であることが当然だと阿部さんは言うのです。これを理解できないメディアの問いかけに、被災者であり、陸前高田の人たちの声を伝える阿部さんが咄嗟の反応をした結果、「バカじゃないの」という言葉になったと感じます。
 今年1月17日、阪神淡路大震災から26年目を迎えた神戸は、コロナ禍で多くの追悼式や行事が縮小や中止となりました。1999年から毎年、新長田駅前広場で開催されてきた市民による追悼イベント「1.17KOBEに灯りをinながた」も縮小され、自宅でのリモート追悼となりました。それでも、夕方5時半頃から、新長田駅前を通る人たちは、ひとりひとり自然にそこで立ち止まり、軽く黙禱して、また歩き始めていたという光景があったそうです。
 メディアは記憶想起の装置としてだけでなく、生きる人たちの祈る行為を支える装置であるということに、メディアは気づくべきだと思うのです。

 
(かなやま ともこ メディア・コミュニケーション研究)

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