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アカデミアを離れてみたら

広告業界からアカデミアに戻ってきた話〈アカデミアを離れてみたら〉

岸 茂樹(農業・食品産業技術総合研究機構 農業情報研究センター)

 「転石苔むさず」ということわざがあります。このことわざは、本来は「職業や住所を転々とする人は成功しない」というネガティブな意味だったそうです。しかしご存じのとおり、現在では「行動し続ける人は時代に遅れることがない」というポジティブな意味で捉えられることが多いと思います。私は希望を込めて、後者の意味を推します。
 私もこれまで、職業や住所を転々としてきました。大学卒業後から数えると、引っ越し回数は8回に上っています。現在は研究機関に勤めていますが、一時は広告代理店に勤務したこともあります。民間企業に勤めた後に、再びアカデミアに戻ってきた研究者はまだまだ少ないと思います。今回はそんな私の経歴を紹介します。

もう研究は続けられない

 幼いころから昆虫が好きだった私は、昆虫の研究者になることが夢でした。高校生のときに、生物の先生から「おまえがやりたいような昆虫の研究ができるのは東大しかない」と言われたので、東京大学に進学します。卒業研究では宮城県金華山島のフン虫(哺乳類の糞を食べて生活するコガネムシ。食糞性コガネムシ類)を調べました。
 大学院は京都大学に進学しました。京都大学のリベラルな学風にあこがれがあったからです。自分の力で一人前の研究者になれるか、試してみたい気持ちもありました。研究材料はフン虫のまま変えませんでしたが、自らの興味と向き合ううち、研究テーマを群集の構造から個体の行動へと徐々にシフトさせていきました。
 そうして数年間試行錯誤しているうちに、いくつかおもしろい発見もでき、私はすっかり研究の魅力にとりつかれてしまいました。しかし、研究をまとめるまでに時間がかかったことや、「あいのり」というテレビ番組に出たこともあって、博士課程5年目にしてようやく博士号をいただくことができたのでした。
 博士号取得後に、滋賀県にある京都大学生態学研究センターというところに行きました。博士論文の執筆中に始めたマメゾウムシの実験を続けることにしました。私はますます研究に没頭しましたが、業績はまだまだ少なく、ほぼ無給で在籍を許可されているだけの立場でした。
 次第に、生活に不安を感じるようになりました。いい年をして親のすねをかじりつつも目に見える業績はなかなか上がらず、当然ながら公募も通りません。当時(2007~2008年)は、倍率が100倍を超える公募も普通でした。周囲の同世代の方々は輝かしい研究成果を出し、賞賛を浴びながら飛び立っていきます。私は焦り、追い詰められていきました。
 しばらくしたある日、体に異変が出ました。家に帰ると、部屋の中の色が失われてしまって、すべてがセピア色に見えたのです。とても驚きました。さすがにこれはおかしいと思い、早めに布団に入ったのですが、今度はまったく眠れません。そのまま1週間、眠れずに過ごしました。とても研究を進められる状態ではなかったので、その後、さらに1週間ほど休むことにしました。しばらくすると次第に眠れるようになり、視界も色づいて見えるようになりました。その後、なんとか研究に戻ることができましたが、この体験をきっかけにして、もうこのまま研究を続けるのは無理だ、と強く思うようになりました。
 そこで、研究職の公募にも応募し続ける一方、民間企業への就職活動も始めました。2008年のことです。大学の就職窓口に行って相談したところ、大学院生や博士号取得者向けの就職斡旋会社を紹介されたため、その会社に登録しました。

自分の武器

 企業への就職活動にあたり、まず、どのような会社に就職しようかと考えました。昆虫の研究を行ってきた経験を生かすとすれば、殺虫剤や農薬のメーカーなどが考えられます。しかし、そうした会社に入り、運よく研究職につけたとしても、自由な研究が許されるはずはなく、会社の利益に貢献するような研究を要求されるでしょう。そうしたとき、なまじ専門分野に近いほうが、理想と現実とのギャップに悩むことになるのではないかと思いました。愚痴をこぼしながら仕事をしたくはありません。それならばいっそのこと、自分の知らない分野に飛び込んでみよう。とはいえ、そろそろ30歳になろうというのに社会で通用するような資格もない、会社での勤務経験もない私に、できることはなんだろうか。ひとしきり悩みました。
 ふと、考えることそれ自体なら、売ることができるのではないかと思いました。研究に限らず、興味のあることについて広く情報を収集し、深く考えることは嫌いではありません。証拠と論理で問題を解決する科学の方法は、きっと企業でも必要とされるに違いない──。
 調べてみると、コンサルタントやマーケター(マーケティングの専門家)などの職業があることがわかりました。大学院で勉強してきた統計の知識も活かせそうでした。そこで、広告代理店やコンサルタント会社を受けることにしました。数社で面接を受けた結果、名古屋の実家から通える広告代理店に採用いただくことができました。

広告業界に飛び込む

 広告代理店では、希望通り「マーケティングコンサル局」という部署に配属されました。まず、広告代理店の仕事を簡単に説明しておきましょう。
 広告代理店は、テレビ局などの媒体社が売りたい広告の枠を、媒体社の代わりにお客さん(広告主)に売るのが仕事です。たとえばテレビCMなら、テレビ番組の合間に設けられた「広告枠」を、テレビ局が広告代理店を通じて広告主に売ることで、広告主のCMが流れます(詳細は省きます)。この仕組みは、ビルの看板でも新聞の広告欄でもほぼ同じです。
 さてここで、広告主がある商品を売りたいときに、どのような媒体に、どのような宣伝をするのが最も効果的でしょうか。このような疑問への答えを探るのが、広告代理店のマーケティング部署です。マーケティング担当者は、広告主から案件がくると、できるかぎり情報を集め、必要ならば市場調査も行います。そうした情報を元に、その商品の宣伝の企画全体をパッケージとして組み立てていきます。同じ部署の先輩からは「突飛な広告はいらない、商品が売れる広告を作れ」とよく言われました。
 大型の競合案件では、数社の広告代理店が、指定された期日に広告主のところへ赴き、プレゼン勝負をすることになります。広告主はそれぞれの企画内容をみて、最もよいと判断した代理店と契約を結ぶのです。企画の内容一つで数千万円の得失が決まるので、責任は重大です。契約を獲得できると、今度は予定した通りに企画を進めていかなければなりません。広告主からの注文や協力会社との条件交渉、媒体社との広告枠の相談など、時々刻々と変わる状況の中、常に難しい判断を迫られることになります。
 このような仕事が続くので、1週間で残業時間が50時間を超えることもざらでした。プレゼンが迫ってくると、徹夜も続きました。
 しかし一方で私は、気楽さも感じていました。会社では、社員が大きな成果を上げても、その成果は基本的に会社のものになります。他方、失敗をしても、法律や社則を守っている限り、最終的な責任は会社が取ることになります。つまり会社での仕事は自分のものではなく、会社のものなのです。
 会社で働き始めてから、自分と仕事を切り離し、仕事を客観的に捉えることができるようになりました。仕事の量は多かったのですが、その時々で自分にできることをやればいい、と考えるようになりました。

屋上でミツバチを飼う

 そんな中、勤務先の広告代理店で、養蜂を始めることになりました。ちょうど、銀座のビルの屋上で養蜂が始まり、人気を集めていたころです(銀座ミツバチプロジェクトとして、現在も続いています)。会社の役員の一人が、その人気に目をつけました。一方の私は、広告代理店にいながらも、昆虫にたずさわる仕事がしたいと思っていました。そこで役員と私の2人で、養蜂を仕事にできないかと相談し、企画書を作りました。「蜂蜜を収穫し、それを商品開発につなげるなど、養蜂をいろいろな活動に広げていくことで、最終的に広告代理店の顧客である広告主を開拓する」という内容です。こうして社内で画策した結果、会社のビルの屋上でミツバチを飼えることになりました。とはいえ養蜂については素人だったので、養蜂家の方の助けを借りながら、少しずつ技術を習得していきました。

インドのインキュベーション施設で起業家を前に講演。インドの起業家の熱量に圧倒されました。
会社の屋上で飼い始めたミツバチ。とても楽しい時間でした。

 私たちの活動は、名古屋のシンボルマーク(※1)から「マルハチプロジェクト」と名付けました。収穫できた蜂蜜を使って、地元の和菓子メーカーの両口屋是清さん、洋菓子メーカーのジョエル・ロブションさん、キルフェボンさんなどと商品開発を行いました。地元のNPO法人で市民の方向けにミツバチの講義を行ったりもしましたし、養蜂見学や出張講義の依頼も随時受け付けていました。ちょうどその頃に名古屋でCOP10が開催され、名古屋市のブースで説明をすることもできました。
 そうこうしているうちに、近所の方々とも交流が生まれてきました。「蝶の飛ぶまちプロジェクト」を進められていた竹中工務店さんや、長者町ハニカム計画の方々などです。こうした交流が、少しずつ広告の仕事にもつながっていきました。
 広告代理店は、人脈で仕事をしているようなところがあります。その名の通り「代理店」なので、会社自体は資金もあまりなく、また商品も生み出していません。広告主と媒体社など、会社と会社をつなげることで、初めて利益を得られる会社です。つまるところ、人と人をつなげる仕事です。そのため広告代理店で働く者にとって、人脈は大きな財産です。
 マルハチプロジェクトでできた人脈は、当然ながら社内ではユニークなものでした。あるとき社内のベテランの方から「おまえのようなやつが1人くらいいてもいい、それが広告屋のいいところだ」と言われたことがあります。広告業界に飛び込んで初めて、自分の居場所を見つけられたような気がしました。

広告業界2年目

 入社2年目になると、このマルハチプロジェクト以外の仕事でも、やりがいを感じ始めていました。任せられる仕事も増えましたし、私の仕事を評価してくださる広告主の方や協力会社の方も増えてきました。それとともに、会社にいて恥ずかしくないくらいには、売上を出せるようになってきました。
 しかし、広告業界に違和感を抱くこともありました。私のごく個人的な印象ですが、広告業界はお祭り好きな人が多く集まるところです。小学生のとき、いつもみんなを笑わせるようなおもしろい子がクラスに1人はいたと思いますが、広告業界はそのような人たちが集まってワイワイやっている印象があります。必定、飲み会も多く開かれます。飲み会のたびに皆を笑わせるネタを仕込んでいける人たちが多く、彼らのことを素直に尊敬しているのですが、それは私にはとても難しいことでした。そして正直にいえば、私は飲み会で滑り続けました。そんな状態でしたから、仕事の付き合いで行く飲み会はあまり気乗りがしませんでした。
 もう1つ、これは私が広告代理店で仕事をしていたころ(2009~2011年)の話ですが、統計解析の有用性が予想以上に理解されていませんでした。手元のデータを解析して上司に見せても「そんな分析結果なんて、お客さんにわかるわけないだろ」とよく言われたものです。社内のチーム会議で解析結果について丁寧に説明しても、「おまえの話はつまらん」と一蹴されることもありました。広告の仕事は人脈が重要だったと上に書きましたが、これは裏を返せば、データの裏付けや合理的な判断が軽視されやすいことを意味します。私が就職する前に思い描いていた目論見通りにはいかなかったわけです(もっとも、近年ではデータサイエンティストが脚光を浴びるようになってきましたから、広告業界も変わりつつあるのかもしれません)。

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広告代理店で花見をしたときの一枚。苦しいときほどユーモアを、と教えられました。

研究がしたい

 一方で私には、研究に後ろ髪を引かれる思いがずっとありました。かつての研究仲間が次々と成果を上げるのを見聞きすると、自分が置いてけぼりにされたような寂しさを感じましたし、同時に、研究をしていない自分自身に、いらだちや歯がゆさも感じていました。
 次第に、研究から離れたままの人生で本当にいいのか、考えるようになりました。そして、広告業界2年目の後半ごろから、アカデミアの公募に、またポツポツと応募するようになりました。
 そうした中、2011年3月11日に、あの東日本大震災が起きました。私はあの日、名古屋港の近くで、電力会社が広告主となっているテレビ番組のロケに付き添っていました。ぐらぐらとかなり揺れたものの、地震直後は同行した方々と「大したことはないだろう」と話していました。しかしその夕方、ロケを終了するころになると、原子力発電所の事故のニュースも入ってきて、電力会社の方々の表情が青ざめていったのを覚えています。
 みなさんは、震災後しばらく、CMがすべてACに切り替わったのを覚えているでしょうか。あのとき広告代理店の中では、放映を取り止めたCMの契約をどうするのか、大騒ぎになっていました。キャンペーンやイベントなども次々と中止になり、多くの仕事が飛んでしまいました。
 そして私は早く帰れるようになり、家でテレビを見ていました。流れているのは当然ながら津波の映像で、すべてのものが押し流され、破壊されていきます。私はその映像を見ながら、自分の命も生活もいつどうなるのかわからない、それならば後悔のないように、やりたいことをやっておくほうがいいのではないか、とぼんやりと思いました。
 研究の現場に戻れたら、やりたいことは大きく2つありました。1つは、広告代理店へ就職するときに中途半端なままにしてしまった、繁殖干渉(異なる生物種の間に生じる性的な相互作用)の研究をまとめることです。もう1つは、花と昆虫の関係を研究することです。
 後者は、例の養蜂がきっかけです。養蜂を始めた当初、ミツバチがどんな花から蜜を集めているのか知りたいと思いました。そこで近くの公園などで身近な花を見ているうちに、多様な昆虫と花が共存できるしくみについて、新しい研究のアイディアを思いつきました。

アカデミアに戻る

 そして2011年7月、運よく、東京大学のポスドクとして採用が決まりました。三宅島(伊豆諸島)の節足動物の調査がその仕事です。
 広告代理店の正社員という比較的安定した職から、任期付き研究員という不安定な職に移ることになりました。給料も、広告代理店では残業代を含めるとそれなりの額をいただいていましたから、減ることになりました。
 それでも研究の世界に戻ったのは、先述のように、やりたい研究があったからです。ただ、かつてのように「絶対に研究で成功しなければならない」と深刻には考えなくなっていました。むしろ、広告代理店での経験をへて、「またもしうまくいかなくなったら、企業かどこかで働けばいい」と気楽に考えられるようになりました。少なくとも、企業で働くことへの漠然とした不安はなくなりました。
 広告代理店に退職願を出し、机の引き出しに束になっていた代休届を提出して、1ヶ月の休みをいただきました。その1ヶ月間ほぼ毎晩、仕事でお世話になった方々が送別会を開いてくださいました。肝臓が心配になりましたが、広告業界らしいなと思いました。同時に、自分がやってきた仕事を認めてもらえたように感じてうれしかったです。ただここでもやはり、スピーチは滑っていました。
 東京大学の後も数ヶ所でポスドクを経験し、現在の職に至っています。現在は農研機構という研究所で、農作物の花粉を運ぶ昆虫の研究をしています。リンゴ、カキ、カボチャ、ニガウリなど、多くの農作物が昆虫に花粉を運んでもらうことで実をつけていますが、花粉を運ぶ昆虫のことはあまりよくわかっていません。現在、そうした農作物とその花粉を運ぶ昆虫の関係について、多くの研究者と共同で研究を進めています。
 振り返ると、広告代理店にいるときにやりたいと思った研究がいずれもできています。繁殖干渉の研究はいくつかの論文にまとめ、2018年には書籍として出版することができましたし、花と昆虫の研究もこうして続けることができています。幸運としか言いようがありません。

インドのインキュベーション施設で起業家を前に講演。インドの起業家の熱量に圧倒されました。
北海道で調査中のカボチャ畑。どのような昆虫が、どのくらい花粉を運んでいるのかを調べています。

茨の道、それでも

 ここまで書いてきましたが、こうしたキャリアパス(研究の専門分野とは無関係なところに就職し、またアカデミアに戻る)を、若い方に有力な選択肢として奨めようとは思いません。残念ながら現在でも、アカデミアを一度退けば、戻ってくるのはかなり難しいからです。近年のアカデミアでは、特に若い時の業績が大きくものをいう構造になっています。運よくアカデミアに戻ってこられても、茨の道と言わざるをえません。たとえば私は、戻ってきたときには学位取得後年数が規定を超えていたため、学振PD(※2)に応募できませんでした。一度できてしまった研究業績の差を跳ね返すのも至難の業です。私が現在の職に就けたのは、単に運がよかったからです。
 しかし一方で私は、広告代理店で働いた2年あまりをまったく後悔していません。世界がセピア色に見えたあのとき、もし研究にしがみついていたら、とっくにつぶれてしまっていたでしょう。私はあのころ、目が炯炯として、まさに『山月記』の李徴そのものであったと思います。広告代理店では、肩の力を抜いて生きることを学びました。それに、養蜂を通じて新しい研究への着想を得ることもできました。感謝しています。
 この原稿を書くにあたって周囲に聞いたところによると、私のほかにも民間企業からアカデミアに戻ってきた人はちらほらといるようです。民間企業でさまざまな技能や考え方を身につけた人が、研究者として多く戻ってこられるようになれば、アカデミアは今よりももっと、多様で豊かな場所になると信じています。

※1 漢字の「八」の周りを「〇」で囲んだ「まるはち」マーク。尾張徳川家の合印に由来し、名古屋市の市章にもなっている。

※2 「学振」とは、日本学術振興会特別研究員のこと。採用されると、研究費および研究奨励金(給与)が支給される。申請資格によって複数の区分があり、「学振PD」は博士の学位取得後5年未満(2021年2月現在。申請時の見込みを含む)の者が申請できる。


【きし・しげき】

1977年生まれ。農業・食品産業技術総合研究機構主任研究員。2007年、食糞性コガネムシ類の行動生態学の研究で学位取得(博士(農学)、京都大学)。2009~2011年に広告代理店、三晃社勤務。繁殖干渉、花と昆虫のネットワークなどの研究を経て2019年から現職。現在は農作物の送粉を担う昆虫の研究を行っている。趣味は写真、読書、キャンプ。

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