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岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS

第10回(最終回) 透明に輝く一日・宝石の冠と茨の冠/言葉が降りてくる場所〈岡﨑乾二郎 TOPICA PICTUS〉

25  透明に輝く一日・宝石の冠と茨の冠

ラファエロ
(左)《カウパーの小聖母子The Small Cowper Madonna》
 1505年頃,ワシントン・ナショナル・ギャラリー
(右)《ヴェールを被る婦人の肖像 La Velata》
 1516年頃,パラティーナ美術館,フィレンツェ

 味覚にたとえれば、没個性というのは味がしないということと同じではない。あるいは口当たりがやさしいというけれど、この形容の意味するところは案外むずかしい。沢山の具を煮込んだスープはやがて一つに溶け合うだろうが、できたのは奇怪な味だったりもする。煮込んで得られた最良のスープと蒸留されたブランデーのもつ澄明な深みは性質がちがう。蒸留という意味でいえば、もっともむずかしいのは空気や水の味だろうか。空気や水に個性は感じられるだろうか?

 

1

 レオナルド・ダ・ダヴィンチ(1452-1519)が1519年に67歳で没した次の年、ラファエロ(1483-1520)は37歳の若さでこの世を去る。ミケランジェロ(1475-1564)はダヴィンチより23歳年下でラファエロよりも8つ年上だったが、この二人が相次いで世を去ってから、40年以上もミケランジェロは制作活動を続けたのだ(ラファエロはシスティナ礼拝堂天井画は見ることができたが、メディチ家礼拝堂霊廟などを見る前にこの世を去っているし、もちろんシスティナの《最後の審判》も見ていない)。
 ラファエロはダ・ヴィンチやミケランジェロの影響を受け継いだ、ルネサンスを代表する三番目の画家として知られているから、この活動時期の実際は少し意外である。すなわちラファエロが制作活動をしたほとんどの期間、ダ・ヴィンチとミケランジェロという二人の巨匠も現存し同時に活動していたというわけだから。
 ラファエロの作品はこの二人と比べると凡庸に感じられるが、以上の実際の活動期間を知った上でラファエロの作品を見ると少し印象が変わる。二人の仕事に挟まれるとラファエロの作品はいつも若々しくフレッシュに見え、つまりダ・ヴィンチやミケランジェロの作品よりも新しく感じる。しかしながら後の美術の展開をみるとミケランジェロの影響のほうがはるかに大きかった。実際ラファエロが生存していたとき彼の人気はピークだったが、死後評価は衰える。再び、評価が高まるのは18世紀である。その間もラファエロ的な作家は飛び火的に現れたようにも見える。たとえばプッサン、アングル、コローにラファエロ的なるものが見出されないこともない。ここでラファエロ的とは一言で〈明晰さ〉である。〈明晰さ〉は古典主義の特徴ともいえようが、ここで〈明晰さ〉とは視覚を妨げる抵抗物が存在しない、つまり手応えがないという意味にも繋がる。当然そのような作品は存在感を欠き、希薄にも感じられる。
 ゆえにロベルト・ロンギのようにラファエロを嫌い、評価しない批評家も多かった。手応えのなさは凡庸という印象に帰結する、手応えとは歯応えと同じく視覚として消化しにくい抵抗感であり、なにかが残存する感覚でもある。作家の個性とはおおよそこの一般化しがたい残余、手応えを言う。すなわちラファエロの絵は誰が見てもわかりやすい中庸なもの、あらかじめ一般に消化されたところだけを作品に昇華させた作品に感じられるのである。その仕事は本人すら、なんの抵抗もなく苦労も感じず(表現する強い意志もなく)、すらすら仕上げたようにも見える。そのさりげない感じは〈スプレッツァトゥーラsprezzatura〉と呼ばれ、ラファエロの仕事ぶりを代表する言葉にもなった。(その意味でモーツァルトの仕事ぶりを彷彿とさせる)。こうしてラファエロ的とは個性が希薄であること、無特性に感じられることである。プッサンにもアングルにもコローにすら視覚に消化できない残存物、物質的手掛かりは感じられるから、ラファエロ以上のラファエロはいない。ラファエロという個性が希薄であるゆえにラファエロはラファエロ的なのだ。
 繰り返せば、この凡庸さ=没個性と、ラファエロの最大の魅力とされる〈明晰さ〉は関連している。もしラファエロの仕事がダ・ヴィンチ、ミケランジェロという巨匠二人が去った後に制作されていたならば、その仕事はただ通俗化、形骸化に感じられるかもしれない。が、同時期に活動する二人の強い個性に挟まれ、若きラファエロの仕事を見れば大きな魅力=個性に見えただろう。ダ・ヴィンチ、ミケランジェロさらに同時期の多くの個性的なルネサンスの画家たちがゴツゴツ個性を衝突させ競合していた時代の中にあれば、ラファエロの仕事の中庸さ=洗練された無特性さは際立って新鮮に見えたに違いない。
 37歳で世を去ったラファエロは短い活動期間にもかかわらず、数多くの仕事を残した。ラファエロ的という形容や印象に反して、そこにある表現の幅の広さは著しく広い。人物像に限っても、フィレンツェでの活動時期に描かれた清澄な青の空気の気配に溶け込んでいるような理想化された聖母子像と、主にローマでの活動時期に描かれた、暗い背景に極めて写実的な性格描写がなされた人物像は、色調にしても描写方向においても大きく性格が異なっている。としても、どちらも絵画以上のものを目指そうとする執拗さは希薄である。絵画として求められうるものだけを制作すれば足るとする潔さ。が決して諦め、というほど大層なものではない。ただ絵画を通して何かを探究しようとする理想など、とっくにどこかに揮発させてしまったという様子である。

 

2

ラファエロ
(左)《システィーナの聖母Sistine Madonna》
 1512年頃,アルテ・マイスター絵画館,ドレスデン
(右)《キリストの変容 Transfiguration》
 1516-1520年頃,バチカン美術館

 しかしながら(ここからは別の稿にすべきかもしれないが)、実はラファエロはどうにも捉えにくい、が傑作と呼ばれている絵画を少なくとも2枚残している。どちらもラファエロの代表作とされているけれど、どう見ても以上のような意味でラファエロ的ではない。といっても何かへの執拗な拘り=探究が感じられるわけでもない。あえていえば、むしろこのラファエロ的手応えのなさが、そのまま不可解さに進化したような気味の悪さが(煮込みすぎたスープの味のように)滲み出している。その二枚とは《システィーナの聖母》(c. 1512)と《キリストの変容》(c. 1516-1520)である。
 名高い《システィーナの聖母》は一見、凡庸な聖母子像である。下部のキッチュそのもののような、手前の手すりに凭れる暇そうな二人の天使と、上部の開いた緑のカーテンがつくりだす構図が、聖母子とそれを囲む人物たちのクリシェ感と相まって通俗性を強調しているように見える。がこの第一印象は人物たちを取り巻く背景に目をやると、たちまち不安に変化する。この背景は充満する雲であり、カーテンの下部を見ればこの雲はカーテンの背後にあるのではなくカーテンの周囲を塗り込め、さらに手前に侵出し、聖母子を囲む聖バルバラ(画面右)と教皇シクストゥス二世(画面左)の足元はもはや、雲に取り囲まれ埋まりはじめている。不気味である。よく見ると、その雲のあらゆる場所に無数の顔が描きこまれ(それは天使というより亡霊、まるで心霊写真のようだ)、その顔は何かを必死に求めているようにも見える。
 《キリストの変容》が描かれたのは、ミケランジェロの《最後の審判》が描かれる20年も前である。この巨大な油彩画はふたつの変容の場面を上下に分けて描いている。まず強い印象を与えるのは画面下部である。描かれているのは、悪魔にとりつかれ精神が変容した(発作に襲われたようにも見える)少年、彼を取り巻く人々は喧々諤々、対応を協議するが、何もできず困惑と怯えが拡がっている、そんな場面である。一方、その上部では山上でのイエスの変容が描かれているが、輝く光を背景に宙に浮かんでいるイエスの姿も表情もむしろ空々しい、イエスは変容しているのか? そう見えるとしたら、その身振りが下部の悪魔に取り憑かれ変容した少年に対応して見えるからだろう。どちらも取り巻く人々の困惑と混乱に変わりはない。変容を引き起こしたのが精霊であれ悪魔であれ画家ラファエロの態度に変わりはない。それらの変容を区別することなく、白々とそして空々しく描いている。これを一つの画面として受け入れている空気が何よりもおぞましい。この何も判断せず、分別しない空気そのもののようにラファエロは画家としてきわめて気味が悪い。

© Kenjiro Okazaki
(透明に輝く一日/Niccolini-Cowper/フィンケ チェ ヴィータ チェ スペランツァ
 2016-2020,アクリル,カンヴァス,19.5×16.2×3cm
(2枚組|set of 2)(左:Left)
 宝石の冠と茨の冠/Margarita Luti/スプレッツァトゥーラ
 2016-2020,アクリル、カンヴァス,19.5×16.2×3cm
(2枚組|set of 2)(右:Right)

※ ラファエロ(1483-1520) 盛期ルネサンス期イタリアの画家。バチカン宮殿の壁画《アテナイの学堂》、《システィーナの聖母》、また建築としてはサン・ピエトロ大聖堂などが著名。

※ ラファエロと活動時期として近いのは第四のルネサンスの巨匠、北方ドイツのアルブレヒト・デューラー(1471-1528)である。ラファエロとデューラーは不気味さについての感受性を共有していたが、デューラーはそれを積極的に対象化し、精緻に理論化することができた。地理的距たりがそれを可能にしたといえるだろうか。

 

26  Scriptorium/A Winged Man or Angel/言葉が降りてくる場所

鈴木春信《五常「信」(紫式部)》
1767年,ボストン美術館
《伝道者ルカ(トリーア,聖マキシミン修道院,福音書古写本より)Evangelist Lukas. Evangeliar aus St. Maximin》
1000年頃,ベルリン州立図書館
《伝道者マタイ(アダ派福音書より) Evangelist Matthäus (Ada Gospel Book)》
790年頃,トリール市立図書館,ドイツ

 将棋は第一手からはじまる。文章にもはじまりの一字があり言葉がある。はじめる前に目の前にあるのは白紙だ。白紙を意識してマジマジと眺めはじめると、その可能性に慄き、うっとりもする。その先に進むのはもはや困難である。そこに何か書き加えることは反動的にすら思えてくる。いやこう書いて本当かしら?とも思う。
 物事を観察するためには、まず心を白紙にしろ、などとも言われるから原稿用紙や画布を白紙にしたまま、世界に心を開き呆けているのは正しい態度とはいえないか? 決してサボっているわけではない、がサボっているとみなされる。慌てて書きはじめるが、なにか可能性を捨ててルーティンの専制に組み伏せられるような挫折感がある、ような気もする。気がすると書いたのは、実際に自分が書く(描く)ときは白紙を意識することなどないからだ。すぐに書きはじめるし描きはじめる。すぐ、というのは意識もせずにという意味である。であるから、はじまりは意識したときにはすでに書かれている。白紙などそもそも存在するとは認めない。だから意識さえされない。というのは言い分として狡い。ほとんど半分、嘘である。
 その意味で『可能性の文学』を書いた織田作之助は本人自ら言うように嘘つきだった。この嘘は文章を書いたり、絵を描いたりする真実を結構、言い当ててもいる。ピカソは「芸術は嘘である、ぼくらに与えられている真実というものを理解させるための嘘である」といったけれど、織田が文学は嘘であるといった嘘はもっとチャランポランの気配のある、口から出まかせ、という意味での嘘である。正確にいえば、出るのにまかせてはいるけれど、まだ嘘とも本当ともいえない。という、そこに出てしまった疑いようのない事実を真実にするのが文学である、と織田作之助は考えた。
 織田は映画『王将』のモデルともなった棋士の坂田三吉のファンだった。坂田がある対局の第一手で△9四歩と左の端の歩を突く。定跡を無視した、およそまともではない「阿呆な将棋」に思える。当然のように坂田はこの勝負を落とす。が次の対局でも同じ手を繰り返す。負けても自信満々であった。定跡でない以上は定跡を超える可能性がある。うまく続けて打てば対局者が予測できない展開もあろう。坂田自身がその可能性を生かし損ねて「阿呆な将棋」に終わったにせよ、可能性の追求として織田はこの一手を絶賛する。「その変化の可能性は一つの偶然が一人の人間の人生を変えてしまう可能性のように、無限大である」。
 「キャッキャッ」というのはただの擬音か、一つの言葉なのか? おそらく女学生たちが戯れる、その様子から拾ったのだろう、この語を織田は次のようにうそぶく=解釈する。

荒涼たる沙漠の夜を一人で過さねばならなかった、一人寂しく寝て、空を仰いでいると、星が流れた。青年は郷愁と孤独に堪えかねて、思わず一つの言葉を叫んだ、それが「キャッキャッ」というのである、(中略)「キャッキャッ」という言葉は実に人間生活の万能語であって、人間が生れる時の「オギャアッ」という言葉も人間が断末魔に発する「ギャッ」という言葉も、すべてみな「キャッキャッ」から出た言葉であって、一人寂しく寝るという気持が砂を噛む想いだといわれているのも、「キャッキャッ」という言葉がアラビヤ最初の言葉として発せられた時、たまたま沙漠に風が吹いてその青年の口に砂がはいったからだと、私は解釈している。

(『可能性の文学』)

 織田自身が「キャッキャッ」をもとに一つの新聞小説(『土曜夫人』)を書いているけれど、ようするに織田がいうのは、これはすべての言葉のはじまりであって、言葉のはじまりは白紙ではなかった、ということである。何もない砂漠の夜に、この声が発声される。出るにまかせて出た言葉である。実際のところ何語かもわからない。だからどう解読すべきか、それを解くコード、すなわち定跡も知れない。が言葉であることは確かである。これは別の言語があることを知らせ、その端緒となる言葉である、それを思わず発してしまう。「キャッキャッ」とはすなわち異言(グロソラリア)である。
 鈴木春信が描いているのは紫式部ではなく、その石山寺で源氏物語を書きはじめたという、紫式部のふりをしている女性である。だから目の前の紙は白紙のまま残されている。白紙を前にすっかり式部の気分になって、うっとりしている。やがて「キャッキャッ」と聖霊が降りてきて語り始めるのを待っているのか。知らないのか。

© Kenjiro Okazaki
Scriptorium/A Winged Man or Angel/言葉が降りてくる場所
2020,アクリル,カンヴァス,24.4×18×3cm

※ 鈴木春信(1725-1770) 江戸中期の浮世絵師。美人画を得意とした。錦絵と呼ばれる技法の完成に大きく貢献。代表作に《座敷八景》《風俗四季歌仙》など。

※ 織田作之助(1913-1947) 大阪生まれの小説家。代表作は『夫婦善哉』。評論『可能性の文学』では、私小説の伝統と決別したと言われる。

 

*本連載は今回で終了いたします。新稿を大幅に追加して書籍化し、岩波書店より刊行の予定です。


*本連載には、現在開催中の展覧会「TOPICA PICTUS」会場にて配布されているリーフレットに掲載された内容と重なるものがあります。

*とくに示したものをのぞき、著者自作以外の作品画像はパブリック・ドメインのデータを使用しています。

*「TOPICA PICTUS」の画集は、ナナロク社より発売されています。

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著者略歴

  1. 岡﨑 乾二郎

    造形作家。武蔵野美術大学客員教授。
    1955年東京生まれ。1981年の初個展「たてもののきもち」、1982年パリ・ビエンナーレ招聘以来、多くの国際展を含む展覧会に出品。主な個展として「ART TODAY 2002」(セゾン現代美術館、2002)、「特集展示 岡﨑乾二郎」(東京都現代美術館、2009〜2010)、「《かたちの発語》展)」(BankART Studio NYK、2014)、「視覚のカイソウ」(豊田市美術館、2019〜2020)。
    総合地域再創生プロジェクト「灰塚アースワーク・プロジェクト」、「なかつくに公園」(広島県庄原市)、「《ミルチス・マヂョル/Mirsys Majol/Planetary Commune》」(ガラス、セラミックタイルによる連続壁面、ハレザ池袋、豊島区)、「ヴェネツィア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター、2002)、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど。
    展覧会企画として「ET IN ARCADIA EGO ――墓は語るか」(武蔵野美術大学美術館・図書館、2013)、「抽象の力――現実(concrete)展開する、抽象芸術の系譜」展(豊田市美術館、2017)、「坂田一男 捲土重来」展(東京ステーションギャラリー、岡山県立美術館、2019~2020)など。
    灰塚アート・ステュディウム(ディレクター、1996〜2000 )、四谷アート・ステュディウム(ディレクター、2002〜2014)。主著に『抽象の力 近代芸術の解析』(亜紀書房、2018)、『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー、文藝春秋、2014)、『芸術の設計――見る/作ることのアプリケーション』(フィルムアート社、2007)。『ぽぱーぺ ぽぴぱっぷ』(絵本、谷川俊太郎との共著、クレヨンハウス、2004)。

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