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3.11を心に刻んで

古川日出男〈3.11を心に刻んで〉

私は多くの詩を暗記しています。ただ、作者の名前が分からないのです。ですが、それはどうでもいいことです。九世紀の詩を読み返して、その詩を作った誰か分からない人と同じ気持ちになれば、それでいいのです。
(J. L. ボルヘス『語るボルヘス──書物・不死性・時間ほか』 木村榮一訳、岩波文庫)

*  *


  この後、文章は「その時、私の中に九世紀の名も知れない詩人が生きています」と続いている。この、生きる、とはどういうことなのか? ボルヘスの、1978年にブエノスアイレスの大学で行なわれた連続講演を収めたのが引用元の書籍『語るボルヘス』なのだが、この日の主題は「不死性」である。個人は、不死でありうる/不死となりうるのか? すなわち、死を超えて生きる、という可能性を持ちうるのか? こうした、もしかしたら「悲しみを回避する/乗り越える」ために知りたいと願ってしまう類いの問いに、ボルヘスは、この知的な文豪ならではのスタンスで迫る。それ以外の形では、迫らない。だから、本人は。

  私は(個人の)不死性など望んでいない。

 と書きつけている。死なない、ということを求めていない、ということだ。が、不死が存在しない、とは断じない。不死とは何か? ここで説かれる不死は、けっして霊魂や “あの世” ではない。不死とは、他人の中に生きつづけることだ、と定義されている。
 そして結論部で、ボルヘスは「われわれ一人ひとりは(中略)これまでに死んでいったすべての人間なのです」と言う。
 なぜならば、われわれという他人の内部に(とは、心に、と言い換えられるが)彼らが残っているからだ。
 そのように残すならば、人は不死になる。そして、そうした不死のあり方を、ボルヘスは認めるし、肯定している。
 そうなのだ。死後の世界が存在しようとしまいと、霊がいようといまいと、私たちは自らの内側に無数の死者を抱えている。それは、抱えられているのだ、ということだ。生かしつづけることが可能となっている、ということだ。そして、未来の生者たちも、きっと抱える。私を。私たちを


(ふるかわ ひでお・作家)

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