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澤田瞳子 森鷗外の転換点[図書 2022年6月号]

森鷗外の転換点
――『興津弥五右衛門の遺書』の改稿に見る大正元年
 
澤田瞳子
 
 大正元年(一九一二)九月十八日に脱稿し、翌月刊行の『中央公論』に掲載された「興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」(以下「興津」)は、しばしば森鷗外最初の歴史小説と説明される短編である。
 
 物語の舞台は江戸時代初期、正保四年(一六四七)。かつて茶事に用いる珍品を求めて来いと主・細川三斎(さんさい)から命じられた主人公・興津弥五右衛門は、君命を重んじるあまり、相役(あいやく)・横田を死に至らしめていた。それを咎めぬばかりか、横田家との間に遺恨が残らぬよう計らった三斎の恩に報いんと忠義を尽くし続けた主人公は、三斎亡き後、自らの職務を果たすべく奔走し、遂に十三回忌の訪れとともに切腹をする。
 
 興津の遺書の形式を取る本作を書き終えた後、鷗外は立て続けに「阿部一族」「佐橋甚五郎(さはしじんごろう)」と、江戸時代を舞台とする短編を発表。そして翌年六月にはこれら三作をまとめた歴史小説集『意地』を出版している事実は、確かに本作が作家・森鷗外の転換点に位置づけられる作品であることを物語っている。
 
 ところで斎藤茂吉以来多くの学者が定説としている如く、鷗外が本作を執筆した直接の動機は、明治天皇に殉じた陸軍大将・乃木希典(のぎまれすけ)夫妻の同年九月十三日の自害にある。この日は同年七月に亡くなった明治天皇の大葬が青山斎場で行われており、陸軍軍医総監であった鷗外は午後八時に宮城を出発した葬列に従って、青山へと赴いていた。帰宅したのは翌日の午前二時。その間に早くも乃木夫妻殉死の噂は人々の知るところとなっていたらしく、鷗外は日記に「途上乃木希典夫妻の死を説くものあり。予半信半疑す」と記している。
 
 学習院院長として裕仁親王(後の昭和天皇)の養育にも当たっていた乃木の殉死は、日本中の人々に多大な衝撃を与えたらしい。朝日新聞は早くも翌十四日の紙面に事件発見時の詳細に加え、夫妻の遺した遺書、東洋大学教授・境野黄洋(こうよう)の談話などを掲載し、十五日以降も評論家・三宅雪嶺(せつれい)を始め、様々な知識人の論評を相次いで紹介し続けた。生方(うぶかた)敏郎の『明治大正見聞史』には、乃木夫妻の事件の一報が入った際、朝日新聞社内で社長をはじめ編集記者・職工までがさまざま感想をこぼしたことを思わせる記事があり、丸善の社員だった文筆家・内田魯庵(ろあん)が日記に「大抵の人が乃木将軍で忙しい」と記していた様と一致する。
 
 鷗外と乃木希典との交誼の始まりは、明治二十年(一八八七)。ベルリン留学中の鷗外が、陸軍視察のためにドイツを訪れた乃木少将と対面した際に遡る。以降、同じ軍属であった二人は静かな交流を続け、明治四十五年(大正元年)の元旦にも、鷗外は乃木邸へ年賀の挨拶に出向いている。それだけに乃木夫妻の死が明らかとなるや、鷗外は翌十四日・十五日と立て続けに乃木邸を訪れ、十八日には青山斎場で行われた葬儀にも立ち会う。そして同日、書きあがったばかりの「興津」を中央公論社に渡しているのである。
 
 乃木の死から脱稿まで、たった五日。しかもその間、鷗外は日がな一日、机に向かっていたわけではなく、十五日は午後から乃木の納棺式に立ち会い、夜半になってようやく帰路についている。日記には逐一記しておらずとも、軍医としての務めも当然あったはずだ。
 
 「興津」の主人公たる弥五右衛門は三十数年前に犯した罪を背負って生き続け、主の法要の際にようやく死地を得た思いで切腹を果たす。この自害が新聞に掲載され、広く人々の知るところとなった乃木の遺書に記されていた、「明治十年之役ニ於テ軍旗ヲ失ヒ其後死処得度心掛候も其機を得ず」の一文と重ね合わされていることは、誰の目にも疑いはない。つまりここにおいて鷗外は頑なすぎるとも言える乃木の生きざまとその死を、自らの小説を通じて肯定しようと努めているわけだが、一方で再度、「興津」を読み返せば、本作は決して武士の意地や君臣の恩といった封建制度を無条件に肯定しているわけではない。
 
 たとえば主人公の相役・横田は「たとい主君が強(し)いて本木を手に入れたく思召(おぼしめ)されんとも、それを遂げさせ申す事、阿諛便佞(あゆべんねい)の所為(しょい)なるべしと申候」と主命に闇雲に従おうとする主人公を制している。結局、主人公は横田を討ち取り、三斎亡き後、主君に殉じてしまうわけだが、この短い作品の中で興津の行動が賛否両側面から描かれている事実は、近代人であり医者でもある鷗外が軍人・乃木の死を懸命に理解せんとする心の揺れそのものを物語っているかのようだ。
 
 それが証拠に「興津」は『中央公論』への発表の後、鷗外自身の手で大規模な改稿がなされ、単行本『意地』に収録されている。これら初稿・再稿を比較した際、わたしが真っ先に目を止めずにはいられぬのは、主人公の死に対する執着の違いだ。たとえば再稿の書き出しは、「某儀明(それがしぎみょう) (にち)年来の宿望(しゅくもう)相達(あいたっ)し候(そろ)て、妙解院殿御墓前(みょうげいんでんごぼぜん)に於(お)いて首尾よく切腹いたし候事と相成(あいなり)候。然(しか)れば子孫のため事の顛末(てんまつ)書き残し置き度(たく)、京都なる弟又次郎(またじろう)宅に於いて筆を取り候」と自らの切腹のあらましと遺書をしたためる理由を理性的に述べている。かたや初稿ではこれが、「某儀今年今月今日切腹して相果(あいはて)候事いかにも唐突の至にて、弥五右衛門奴老耄(ろうもう)したるか、乱心したるかと申候者も可有之(これあるべく)候えども、決して左様の事には無之(これなく)候」といきなり自害に対する言い訳から始まる。「耄碌でも乱心でもない」と書き置いているが、それ自身が書き手の――さもなくば語り手のただならぬ精神状態をますます際立たせており、再稿の落ち着いた起草ぶりと比べれば、その差は一目瞭然だ。
 
 また主人公の記した「遺書」の結びも大きく異なっており、再稿では「この遺書は倅才右衛門(せがれさいえもん)宛にいたし置(おき)候えば、子々孫々相伝(あいつたえ)、某が志を継ぎ、御当家に奉対(たいしたてまつり)、忠誠を可擢(ぬきんずべく)候」と書状の扱いに主意が置かれている。それに対して初稿では、「この遺書蠟燭の下にて認居(したためおり)候ところ、只今燃尽き候。最早新に燭火を点候にも不及(およばず)、窓の雪明りにて、皺腹掻切り候ほどの事は出来可申(もうすべく)候」と、間もなく自らが招き寄せる死への意欲を物語っているのだ。夜、まさに命を絶たんとするその筆致に、すでに辺りがとっぷりと暮れた九月十三日午後八時、号砲の音とともに明治天皇の遺体を乗せた轜車(じしゃ)が宮城を出発したのとほぼ同時刻に亡くなった乃木の姿が思い浮かぶのは、果たして私だけだろうか。――いや、そうではあるまい。何となれば鷗外は改稿の際、この部分を大きく改め、主人公の自害の場を夜の屋内から昼日中の野外に変更している。真っ暗な部屋でのたった一人の死と、船岡山(ふなおかやま)の麓の仮屋で介錯を従え、京都の老若男女に囲まれての死。その差の物語るものは大きい。
 
 本作品の改稿点は上記以外にも、初稿執筆時には用いなかった新資料を利用して逸話を書き加えたり、子孫についての細かな記述を追記したりと到るところに及んでいる。つまり鷗外は初稿を史実が不確かなまま執筆したとも言えるが、この姿勢は「阿部一族」以降の作品に見られる「歴史其儘」の姿勢を知るわれわれ読者には、不可思議とすら感じられる。ならばその差は何故、と考えれば、私はそこに乃木の死を鷗外が咀嚼し、理解する過程を思わずにはいられない。いわば初稿は本来描くべき「歴史」を離れて、たった今、鷗外が接したばかりの乃木の死の上に関心が置かれており、それゆえ再稿では自害の生々しさと動揺を捨象せねばならなかったのではあるまいか。
 
 わたし自身も親しい人の死に接し、それを作家として書き記さねばならぬ局面に立ったことがある。その時は一人の書き手として冷静に事実を受け止めたつもりであったが、半年、一年と日が過ぎてから振り返れば、その文章には小説家としての「私」よりも個人の「私」が強くにじみ出ていた。無論、浅学非才の身たるわたしは、森鷗外に遠く及びはしない。だが初稿版と再稿版、二つの「興津」の間に存在する大きな違いに、わたしは一人の人間としての鷗外の姿を思う。
 
 なるほど、「興津弥五右衛門の遺書」は歴史小説の形式を取っており、その後の鷗外の歴史小説の魁となった記念碑的作品だ。ただ単行本『意地』の自筆広告において、鷗外は「従来の意味に於ける歴史小説の行き方を全然破壊して、別に史実の新らしき取扱ひ方を創定したる最初の作なり」と述べている。そこに初稿版「興津」ではなく再稿版「興津」が収録されている事実は、初稿版が鷗外の考える「歴史小説」とは異なる作品だったことを物語るのではないか。そして更に小説家ゆえの筆の走りを許されるのであれば、初稿版「興津」があればこそ再稿版「興津」は――そしてその後の鷗外の歴史小説は存在し得るのでは、と想像する。
 
 現在、初稿版「興津」が収録されている書籍は少なく、『鷗外歴史文学集』や『鷗外全集』をひも解く必要がある。しかしタイトルは同じでもまったく趣きの異なる二作には、森鷗外という一人の作家の悲しみや怒りが――それを書かずにはいられなかった姿がたゆたっている。鷗外作品を読むとはすなわち鷗外その人と出会うことなのである。
 (さわだ とうこ・作家) 
 

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