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第5回 博愛はあなたを焼き尽くす──『幸福な王子』


イラスト 三好愛

5

 『幸福な王子』は、自己犠牲的な博愛を賛美したいのか、その無力さや虚しさを言い表したいのか、どちらもなのか、私にはそのあたりが子供の頃よくわからなくて(それはダイジェスト版の絵本を読んだからかもしれない)とにかく戸惑っていた。というより、自己犠牲的にぼろぼろになりながら人に優しくしようとする人間の話なんて読みたくないな、と思っていた。人が身を滅ぼしながら他者を救う話は、なぜかとてもグロテスクなものを読んでいる、という感覚になってしまう。それが私の内面のグロさの投影なのか、そこに描かれる人の矮小さのグロさなのかはわからないが。
 もちろん王子は像であり人間ではないのだし、「自己犠牲」と言ってしまっていいのか、それはわからないけれど。でも、それでも、自分をぼろぼろにしてまで人を救おうとすることを優しさだとか愛だと言う世界を私は憎まなければならない、と思う。絶対に違うと言わなければ、永遠に優しい人がすり減らされていくだけの世界になる。世界が良くなるように、みんなが幸せであるように願うなら、私は王子だって最後まで幸せでいるべきだと思うからだ。王子に共感したり王子のようになろうとする人がいたら心の底から反対したい。私はそういう意味でこの作品が怖かった。皮肉も多く詰まった作品だと思うが、それでもこれを「愛」と受け取る人も多いだろうと思うと、その事実に落ち込んでしまう。けれど今あらためて原作を読むと、これは罪滅ぼしの話なのかもしれない、と思ったのです。優しさでも愛でもなく、罪滅ぼしとしての献身なのかもしれないと。
 幸福な人間は、自分の幸福が何らかの犠牲の上にあることを知らない。幸福な王子が自分を犠牲にして助けた劇作家志望の若者も、ツバメが王子の目をくり抜いて運んできた宝石は「自分のファンが置いてくれたものだ」と信じて疑わず、自分の才能が呼び起こした結果だと思い込んでいる。王子は生前は宮廷に暮らす「王子」であり、塀の外で人々がどんな暮らしをしているか知ることなく、豊かに幸福に生きて死んだ。彼は彫像になってから塀の外で人々が貧しさに苦しんでいることを知り、それに胸を痛めている。ここにある悲しみは、単に多くの人が不幸だから、という理由で生まれたのではなくて、自分はそれを知らず幸福でいた、という罪の意識が関係しているように見えた。王子はだからこそ人々を救うし、そのために自分を犠牲にしてしまう。
 
 彫像になった王子にとって自分の飾りなど意味のないものであるのかもしれない。もう既に死んでしまっている人なのだから、たとえ魂は彫像に残っていても、生きている人と「自分を犠牲にする」ことの重さは違うのかもしれない。でも、彼は冬が近づき早く南国に行かなければならないツバメの時間を犠牲にし始めた。自分のためにどうか働いてほしいとツバメに頼んだ時、彼はツバメがどれくらい切羽詰まっているか、冬の寒さでどれほどあっけなくツバメが死んでしまうのか、理解できていたのだろうか。

「きみがやっとエジプトへいくことになってうれしいよ、小さなつばめさん」と、王子は言った。「きみはここに長くいすぎたようだね。でも、きみにはぼくの唇にキスしてほしい、ぼくはきみを愛しているんだから」
「ぼくがいくのはエジプトではありません」と、つばめは言った。「死の家へいくのです。死は眠りの兄弟ではありませんか?」

 宝石も金もすべて剥がして、もう与えるものが何も無くなった王子は、死を悟り別れを告げるツバメの状態にその直前まで気づくことができなかった。王子のやろうとしていることを理解し、その献身を「優しさ」だと理解し、王子のことを尊敬し、愛したツバメは、彼のために自分の命を捨てたが、そのことに取り返しがつかなくなってから気づいた王子の心臓はこのタイミングで真っ二つに割れている。彼はたとえ世界が良くなろうとも、そのためにツバメが死んでもいいとは思えないだろう。ツバメが自分の優しさに心打たれて、王子のように自分も優しくなりたいと思って命を投げ出したとしても、それをよしとはしないだろう。ツバメは、王子と同じことをしたつもりなのに。ここが、私がこの物語を読み直して好きだと思った唯一のところです。ツバメはきっとここで大きく王子が傷つくことさえ予想できていなかっただろうと思う。命を捨てることと、宝石や金を引き剥がすことは王子にとって全然違うことだが、でもそれをツバメは知らなかった。
 
 王子は、ツバメが生きている頃、自分の優しさに賛同し助けてくれる存在が現れて心から嬉しかっただろうと思う。でもどんな優しさにも犠牲が必要で、ツバメが何も犠牲にせずに自分の手助けをすることなどできない、ということを正しく理解してはいなかった。これくらいならツバメにとって大した問題ではないのではないかと思い、一日また一日とツバメが南に行こうとするのを引き止めた。きっと王子は、ツバメが死の危機に瀕したならきっぱり断ってくれると思ったのだろう。死ぬか生きるかである時は、ちゃんと生きる方を選んでくれると期待していたはずだ。でもツバメにとって王子は特別で、ツバメにとって王子の献身は「優しさ」で「愛」だった。王子が思っている以上に、ツバメにとって、王子は聖人で、付き従いたい存在だったのだろう。
 王子は優しいけれど、でも彼の中には罪滅ぼしのような意識がある。だから王子は自分の行いがツバメにとって絶対的な「善」に見えるとは想像できていなかったのではないか。王子にとってこれはあくまで自分の願いであり、自分を押し殺した選択ではなかった。そのことがきっと、ツバメには伝わっていない。ツバメにとってはやはりそれらは純粋な「優しい行い」で献身で自己犠牲だった。そして、救われた人たちは確かにいるのだ。
 
 ツバメは王子に憧れる形で、王子が見せる「博愛」や「善」をなぞるようにして、自分も他者を救いたいと思った。それは王子が認識しているものとはきっとずれていて、ツバメから見れば自分のしたことは王子がしたことと同じだった。でも、王子にとって、金や宝石を譲ることはもしかしたら「自己犠牲」ではなかったのかもしれない。むしろツバメが死んでしまって、やっと王子は本当の意味で、自分の大切なものを犠牲にしたのだと思うのです。
 ツバメからすれば王子の目をくり抜くことや金を剥がすことは痛ましいことであり、最初から王子のやっていることは「自己犠牲的な選択」に見えるだろう。だから他者を救おうとする彼に心を奪われた。けれど王子は生前の自分が何も知らなかったことを悔い、自分が「幸福な王子」として飾られることに、違和感を抱いてもいた。飾り立てられる喜びを最初から感じていない王子は、それらが引き剥がされ、他の人に役立ててもらえることこそ喜ばしく思ったはずだ。彼が彫像になった今、失いたくないものは金でも宝石でもなく友人(ツバメ)であり、それ以外はもはや何もなかったのかもしれない。彼はそんな友人を自分の願いのために犠牲にしてしまった。どんなにみすぼらしい姿になっても話すことができていた王子は、ツバメが死んだその時に、だからこそ心臓が割れてしまったのだ。
 
 ツバメが見た「自己を犠牲にしてでも人を救おうとする王子」というのは幻だし、この物語はその心の美しさを描いているのではないように思う。ツバメが賛美し、惹かれた王子の「自己犠牲」の幻が、勘違いではなく本当に実行されてしまったら、それは取り返しのつかない悲劇を生むことこそが描かれているんじゃないか。けれど、ツバメが幻を見てしまったことを私は否定したくなくて、人の優しさや博愛は、そうした幻によって支えられ、幻に突き動かされた誰かの行動が確かに他者を救うことはあるのだ。
 幻を見ることは人が集団で社会を作り、他者と支え合って生きる上で大切なことなのかもしれない。他人は他人だと全てを合理的に切り捨てていこうとするとき、息ができなくなるのはもしかしたら自分自身かも知れず、自らの不幸や悲しみさえも「これはしょうがないことなのだから受け入れるしかないのだ」と無抵抗になっていくことを止めてくれる力を持つように思う。理不尽なことは起きる、誰も物語の主役ではないし、全てが辻褄が合うことさえもない。努力は実らないこともある、裏切った人が報いを受けるとは限らない。そういう中で、それでも、他者に優しくすることこそが全てを良くするんだと信じたり、前を向いていればいいことはいつか起きると思い続けることは、何の根拠もなくても、立ち続ける力をくれることがあるだろう。そもそも現実に起きる悲しみや不幸自体、何の根拠もなかったりする。なんの根拠もなく理不尽に現れた悲しみに、自分だけが聞き分けよくいる必要なんてない。それに、「自分の人生はこの程度のものだ」と全てを受け入れる体勢になることは、生きるという「未知に向かっていく無根拠なエネルギー」を手放すことかもしれないなって私は思うのです。
 人は幻を見て、その幻を根拠に、本当は必ず報いがあるわけでもないけど人に優しくしたり、本当は世界を良くしても自分は苦しいままかもしれないが、世界を良くしたいと願ったりする。でも報いがなくても、幸せがそれでやってくることはなくても、そうやって間違わないようにまっすぐ立つことができるだけで、自分を嫌いになったり生きる希望を見失うことだけはなくなる。絶望や失望がすぐそばに転がっているような中で生きる限り、そうした幻が心を支えることもあるだろう。自分を犠牲にしてでも人を救おうとすることは美しいなぁと、ツバメが見た幻もまた、心が本当に苦しくて全ての人が自分より幸せそうに見えるとき、それでも誰かが助けてくれるかもとわずかな希望を見つけて、「助けて」って小さな声でも言う勇気をくれる、そんな幻として誰かの心の中にあるのかもしれない。それは決して間違っていなくて、そんなふうに幻はどこまでもきらめいている。でも、幻に囚われてはいけない。信じすぎて、本当に自分を犠牲にしようと思い立って行動したとき、ツバメにとっての王子のように、喜んでくれるはずと思っていた大切な人がそれで大きく傷つくようなこと、起こってしまうかもしれないのだ。
 
 博愛は美しいです、自分より他者をと願う姿勢もなかなかできないことだし優しさでもあるのかもしれない。でも、結局それは自分が走っていくために目印にする遠くにある一番星であって、自分の手で持つ松明の光ではないのです。あんな燦々と輝く星を手にしたら、あなたはただの一人の人なのだからその業火に耐えきれず死んでしまうかもしれないよ。でも、幻を見るなと言うことではない。走り続けるその人は確かに誰かを救うのだから。
 『幸福な王子』は、あなたは聖人じゃないんだと、優しさに憧れ、優しくありたいと願える人の隣で、しずかに告げてくれるそんな物語だと思う。あなたは聖人じゃないんだ、それだけは忘れないで。ツバメのように、死なないで。

(イラスト/三好 愛)


*なお、文中の引用は、オスカー・ワイルド、富士川義之訳『童話集 幸福な王子 他八篇』岩波書店、2020年)からのものです。

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著者略歴

  1. 最果タヒ

    詩人。1986年生まれ。中原中也賞・現代詩花椿賞などを受賞。主な詩集に『空が分裂する』『夜空はいつでも最高密度の青色だ』(2017年に映画化)、エッセイ集に『神様の友達の友達の友達はぼく』、小説に『パパララレレルル』などがある。その他著書多数。

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