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3.11を心に刻んで

山内志朗〈3.11を心に刻んで〉

わが主よ、讃えられかし
 我々の姉妹たる肉体の死ゆえに
 生きとし生けるもの、死を免るべからず
 罪のうちに死す者は幸せを受くる能わず
(アッシジのフランシスコ「太陽の歌」、別名「全被造物の賛歌」山内志朗訳)

*  *


 私はキリスト教徒ではない。だが、いつもフランシスコのことを考えてきた。彼が生きていた十三世紀の空気は失われても、思想は生きていると思って、キリスト教思想を追いかけてきた。洗礼を受けてこなかった。門の外で憧れてきた。
 よそ者、異邦人でしかない者がなぜそれにこだわってきたのだろうか。たぶん(自分のことながらそう書くしかない)何か近しいものを感じてきたからだろう。
 聖霊というものがあるならば、この空気の中にも流れていて、そして、フランシスコを含め、数多くの聖者達の中にあった何個かの酸素や炭素は私のところにも届いて、私の体の中に入り込んでいるのかもしれぬ。これこそ自然の聖体拝領だ、と私は心の中で喜ぶ。たわいない妄想だが。
 何も起こりはしない。太陽は、いつもと変わらぬ、同じ顔をしている。フランシスコは、何もなさの中で、太陽を仰ぎ見ながら、その光と熱の恵みの中で、「わが太陽、わが兄弟よ」という感覚を持つことができたと思う。それは見習うべきことだ。真夏の猛暑に喘ぐ都会の人々は、もはや空に向かって兄弟愛を歌うことはない。暑さを呪う。フランシスコだったら、東京の灼熱地獄の中でも、太陽に賛歌を歌わずにはいられない。
 私がフランシスコに(映画や音楽や絵画においてではなく)文字の上で出会ったとき、ここまでフランシスコの思想にこだわり続けるとは思ってもみなかった。
 田舎町アッシジが私を呼びよせた。その景色は、親しげに旅人を迎える。ウンブリアの田園は中世の雰囲気をそのまま残し、道端の祠は旅人をやさしく見送る。
 だが、フランシスコは、そういったのどかな田園に育ちながらも、十字架上のイエスを辿ろうとするのか、悲しく痛ましく泣き続ける。心の中にいつも嵐が吹いているがごとく。
 3.11の後、我々も泣き続けるべきなのか。フランシスコは、「私は皆の分も泣きました、皆さんはもう泣かなくてもよいのです」と答えるだろう。そんなことは、彼の書き残したもののどこにも書いてはいない。けれども、そんな風に語りかけてくるビジョンは、聖人フランシスコが、みんなのフランシスコなのだとすれば、奇妙なことではない。フランシスコは風のようにどこにでも吹き渡る。
 〈いま・ここ〉でフランシスコを感じることも、一つの至福直観かもしれない。それが誤解だとしても、テキストと思想を身と心にまといながら生き続けることは幸せなことだと私は思う。

(やまうち しろう・哲学研究者)

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