web岩波 たねをまく

岩波書店のWEBマガジン「たねをまく」

MENU

3.11を心に刻んで

安原伸一朗

私たち自身の経験として考えるならば、『エレクトラ』の悲劇が示しているのは、死者たちが、不在や無へと還元されてもなおそこに姿を現す限りにおいてのみ、世界は人間的なものとなる、ということなのである。
(ピエール・パシェ「死者を語る、死者に語る」拙訳、『文学』2008年3-4月号)

*  *


 亡き人をあらためて身近に感じる瞬間。その一つは、亡き人を夢に見るときかもしれない。夢のなかでは、その人は、おなじみの表情や仕草とともに、いつもの口調でこちらに笑いかけたり、あるいはこちらを難詰したりする……。
 現代フランスの文筆家ピエール・パシェは、「死者を語る、死者に語る」と題された2007年の来日時の講演で、登場人物が死者を拠り所として振る舞うソポクレスの『エレクトラ』を題材にしながら、私たちが亡き人を夢に見ることの意味を問うた。
 もちろん私たちは、亡き人が現実には死者であって、もうどこにもいないことを理解し、意識している。
 けれども、たとえ夢に亡き人を登場させているのが自分自身であるとわかっているにしても、その人がほかならぬこの自分に向かって語りかけてくるのだと感じるならば、ことばは実のところ、生者ではなく死者の方から発せられるのかもしれないという考えを、すっかり退けてしまうこともまた難しい。
 そこでパシェは、ことばは、現前する人にこちらの意思を伝えるためにではなく――もしそうならば、私たちは身振りや表情などでかなりの意思疎通が図れるのだから、人間の言語は今よりはるかに貧弱なものとなっていただろう――、どうしても耳を傾けることのできない人に向かって語りかけるためにこそ生まれたのではないか、と論じる。そう、ことばとは、「死者たちと私たちを分け隔てる境界線を横切ろうとするテレフォニー〔電話技術〕」なのだ、と。
 死者は生身の人間としてはすでに存在しない以上、その境界線を完全に越えることは不可能なのだが、それでも、鎮魂や儀礼といった身振りの一歩手前に、そうした越境の試みとしての生々しいことばがなければ、つまり、死者を語り、死者に語ることがなければ、この世界からは歴史が消え、ひいては個々人の想いや記憶といった人間的なものが失われてしまうことになる。だから、ことばの流れは止むことがない。

(やすはら しんいちろう・フランス文学研究者)

バックナンバー

閉じる