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沼野恭子 戦時下の詩人[『図書』2024年5月号より]

戦時下の詩人

──スリヴィンスキー氏との対話

 ウクライナの詩人オスタップ・スリヴィンスキー作、ロバート キャンベル訳著『戦争語彙集』(岩波書店、二〇二三)は、原題をウクライナ語で《Словник війни》という。直訳すれば「戦争辞典」である。このタイトルから想像されるのは、〈戦車〉〈ミサイル〉〈爆撃〉〈戒厳令〉〈塹壕ざんごう〉などといった、今この瞬間にも地球上で続いている戦争に関連した「軍事的」な単語がその語釈とともに並べられている体裁の辞書であろう。

 ところが、目次を眺めればすぐに気づくとおり、本書には〈スモモの木〉〈キノコ〉〈星〉〈カナリア〉〈太陽〉など、むしろ牧歌的なイメージの単語が多く含まれている。これが「戦争辞典」とは、いったいどのような意図が込められているのだろう?

 そんな思いを抱いて、二〇二四年一月一九日、私は学士会館に向かった。スリヴィンスキー氏は国際交流基金の招聘しょうへいにより来日し、一月一三日から一月二一日まで日本に滞在していた。さまざまなメディアの取材に応じる忙しい日程のさなかに隙間を見つけて、キャンベル氏と岩波書店編集部が対談の機会を設けてくださったのである。

「語彙集」誕生の触媒

 二〇二二年二月二四日にロシア軍が突如としてウクライナに侵攻した直後、ウクライナ西部の都市リヴィウに住んでいた詩人は、いても立ってもいられずリヴィウ駅に出向いた。東部から戦禍を逃れて列車でやってくる人たちを迎え入れるボランティア活動をするためである。そして、温かい飲み物を渡しては彼らと言葉を交わすようになる。そのやりとりの中から、ひとりひとりの辛い経験、唯一無二の体験や気持ちを聞き取り、家に戻ってから証言として書き留めるようになる。

 しかし、証言を集めただけでは『戦争語彙集』は生まれなかっただろう。ここに触媒のようなものが作用したのである。それは、ポーランドのノーベル文学賞詩人チェスワフ・ミウォシュ(一九一一―二〇〇四)が第二次世界大戦下、ナチス・ドイツに占領されたワルシャワで綴った詩集だった(以下、引用部分はすべて対談時のスリヴィンスキー氏の英語による発言)

 ミウォシュは私にとってたいへん重要な詩人で、大事なインスピレーションの源です。私が、このドキュメンタリーの素材をどう整理したらいいか悩んだときも、彼が第二次世界大戦時に何をしていたかをもとに自分自身は何ができるか考えようと思いました。

 ミウォシュは戦時中、言葉の危うさを感じて『世界──純朴な詩篇』という詩集を書きました。言葉を定義しなおさなければならないと強く感じていたようです。再定義した単語の多くはミウォシュ自身の子供時代につながるもので、希望、信仰、愛といった概念を子供の視点でとらえ、純粋な意味、本来の意味を確かめようとしています。私の『戦争語彙集』はミウォシュの意図したこととは少し違います。私は他人の話を用いて、言葉がいかに意味を変化させたかということを示したいと思いました。つまり、言葉の本来の意味を取り戻す前に、まずは実際に私たちの言語に何が起きているのかを探らなければと思ったのです。

 『世界──純朴な詩篇』は、ワルシャワのゲットーに閉じこめられていたユダヤ人たちが絶望的な賭けに出て壮絶な武装蜂起をおこなった、一九四三年に書かれた。ミウォシュの家のバルコニーからゲットーが見えたというが、彼には蜂起したユダヤ人を助ける何のすべもなかった。詩集には、〈道〉〈木戸〉〈食堂〉といった平穏な生活を思わせる言葉がタイトルとして並んでおり、戦争やゲットー蜂起にあからさまに言及している作品はない。

 スリヴィンスキー氏は、同じような状況に置かれたみずからをミウォシュの姿に重ねあわせたのであろう。手法はミウォシュとは異なり、『戦争語彙集』はいわば「証言文学」の領域に位置する。人々の話の中からキーワードをひとつ取りだして見出し語とし、アルファベット順に並べ「辞典」と呼んだわけだが、短めのエピソードがまるで詩のように立ち現れてくる。チェコのある雑誌が『戦争語彙集』の一部を「詩ジャンル」に分類して掲載したというのも頷ける。そして、日本語タイトルが「辞典」より詩的に響く「語彙集」と訳されたのも、本書にいかにも相応しく感じられる。

意味の変容

 一般的に言葉は、長く使われているうちに新しい意味を獲得したり、意味するところが微妙にずれたりするものだ。しかし『戦争語彙集』は、戦争が始まると同時に意味の激変した言葉があることを伝えている。

 例えば、〈バスタブ〉という言葉は、本来の「入浴する場所」ではなくなり、命の助かる可能性がある、家の中で唯一の安全な場所という意味になり、〈キノコ〉とは、けっして牧歌的なものではなく、爆撃によって立ちのぼるキノコ雲(とそれを見つめる人々)のことを指すようになった。〈雷〉は、地下室に駆けおりるよう子供たちを促すために母親が考えた言葉遊びで、空襲警報の別名だ。〈きれいなもの〉という言葉は肯定的な含意を失い、逆に「危険」を意味するようになった。

 私が何よりも驚いたのは、多くの人が〈家〉という言葉をもはや「安全なわが家」としてではなく、「危険な場所」として認識していたことです。ロケット弾で攻撃されたら、建物全体が倒壊し、安全どころか、逆に瓦礫がれきの下敷きになってしまう可能性があるわけです。空襲警報が鳴ったら自宅から出るようにという指令に、たいへんな不安をかきたてられました。

 奇しくも二〇二二年五月に、ウクライナ出身で日本在住のアーティスト、レーナ・アフラーモワ氏の提案を受けて、私は仲間たちと東京外国語大学で「ドム・ディム・ドム(家・煙・家)」という展覧会を開催していた。遠いウクライナの人々に思いを馳せながら、破壊され人々を守る場所でなくなった〈家〉とは何なのかを問い直そうというコンセプトのもと、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア、日本出身のアーティストや写真家による作品を展示したのである。リヴィウと東京で、同じころに同じ発想を共有していたことになる。

 

 それほどまでに今、意味するもの(シニフィアン)と意味されるもの(シニフィエ)の関係がいびつに変化しているということだろう。ロシアでは、ウクライナへの侵略戦争を「戦争」と呼ぶことが禁じられ「特別軍事作戦」と言わなければならない。プロパガンダの言葉もまた、本来の意味から大きく乖離しているのだ。ただし『戦争語彙集』で示されている言葉は、現実の事物の変化にともなって意味が変化を被っているのに対し、プロパガンダの言葉は、そもそも現実の事物を指し示していないので、まったく異なる現象であることは言うまでもない。

芸術の存在意義

 日本語版『戦争語彙集』がユニークなのは、日本文学者のキャンベル氏が戦時下のウクライナにスリヴィンスキー氏や証言者たちを訪ねてまわり、その記録が本書の後半に収録され、前半の証言を補完したり発展させたりしているところである。

 その後半部で最も興味深い話題は、戦時下における芸術や文化の役割についてで、ふたりの証言者が正反対の見解を述べている。戦争勃発直後のショック状態か否かという時期の問題も絡んでくるかもしれないが、ひとり(文芸編集者)が「戦争が始まると文化活動は無価値なものになる」と話しているのに対し、もうひとり(人形劇場の芸術監督)は芸術に積極的な意味を認め、芸術は、自分は何者なのかという重要な問いに答えを与えてくれるものであり、同時に癒しの力も持っていると語る。

 まだ全貌は明らかになっていないが、ブチャでロシア軍による虐殺がおこなわれたとき、私はホロコーストの連想からドイツの哲学者テオドール・アドルノ(一九〇三―一九六九)の「アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である」という有名なフレーズを思い出さずにはいられなかった。スリヴィンスキー氏に「ブチャの後」について訊ねた。

 ポーランドの詩人タデウシュ・ルジェヴィチ(一九二一―二〇一四)がアドルノに対して良い答えをしていると思います。第二次世界大戦後にこう述べているのです。重要なのは詩を書くことができるかどうかではなく、どのような詩を書くことができるかだ、と。

 つまりルジェヴィチと同じく、スリヴィンスキー氏にとっても、芸術・文化がいついかなる場合においても存在可能であるばかりか必要不可欠だということは自明の理なのだろう。ルジェヴィチには「生き残り」(一九四七)という詩がある。「ぼくは二十四歳/殺戮の場に連れて行かれ/生き残った/(略)/ぼくは教師と師匠を捜した/ぼくにまなざしと耳と言葉を取り戻し/いまいちど物と概念に名前を与え/光と闇を分けてくれるように」(沼野充義訳)

 ふたたび「闇」の時代に突入してしまった現在、いったいいつになったら戦争が終わってすべてが元どおりになり、「言葉を取り戻す」ことができるのか見当もつかない。しかし、本書の見出し語として選ばれたキーワードの多くが、〈食べもの〉〈ココア〉〈マドレーヌ〉〈スイーツ〉〈パン生地〉といった命をつなぐものであり、死の対極にある〈愛〉であり、死を避けるための〈お祈り〉であることは、一条の希望の光のように思える。これらは極度の緊張と絶望を強いられた瞬間に、人々の命を「生」の側に引きとめた事物であり、死に対峙する強度を持つ言葉ではないだろうか。

 〈悦び〉を見出し語とする話からは、戦時にあっても日常を手放さずに生きていこうとする強い覚悟が察せられる。「大切な日々を引き渡すことはしません。地面に横たわって苦しむことも、一日たりともしません。彼らへの怒りをわたしの悦びに変えてみせます」。

(ぬまのきょうこ・ロシア文学研究者)


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