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『思想』9月号 政治と精神分析の未来

◇目次◇

ラディカル・デモクラシーと精神分析……………山本 圭
いかに哲学によって「精神分析と政治」を二重化するか――ヤニス・スタヴラカキス
『ラカニアン・レフト』へのコメント……………佐藤嘉幸
「すべてでない」地平における政治的審級について――ラカンの「女の享楽」概念の展開……………上尾真道
パロディとしての〈父〉の誘惑――欲望と「享楽の政治」を再考する……………清水知子
政治的話存在……………エリック・ローラン
精神分析の再発明――ジャック・ラカンと〈父の名〉の問い……………工藤顕太
精神医療におけるinstitutionとは何か,それをどのように治療できるのか?……………ピエール・ドゥリオン
 
◇思想の言葉◇
政治と精神分析――過去・現在・未来
ヤニス・スタヴラカキス(山本圭訳)
 

 政治的な精神分析――フロイト左派からラカン左派へ

 多くの人々がこの連関に驚くだろうが,精神分析は,その始まりからして政治的であった.もとより,精神分析は認識論的な意味において政治的である.なぜなら,科学,理論,そして系統立てて行われる反省(systematic reflection)といったものは,つねに政治的に構築されてきたからだ.トーマス・クーンの言い方を用いれば,精神分析はひとつの科学革命を引き起こしたと言ってもよいだろう.つまり,精神分析は人間の経験がどのように構成され,どのように機能するのかについてのまったく新しいパラダイムを生み出したということだ.アルチュセール的なジャーゴンでいえば,それは同時に,みずからの研究対象を設定することで,「認識論的切断」をもたらしたのである.その研究対象こそ「無意識」にほかならない.

 しかしまた,精神分析は,多くの他の―いっそう文字通りの―点においても政治的である.一方では,事実として精神分析は内輪的にみて(internally)政治的である.精神分析は,メンバーシップをめぐる様々な仲違い(内集団と外集団の,指導者と嫌われ者の,そのフロンティアとその絶え間ないずらしの,保守派と革新派の,内乱(無意味な争い)とその停戦といった様々な仲違い)によって,みずからのコミュニティ(もしくは複数のコミュニティ),つまりは精神分析のコミュニティを創設しているのだ.他方でまた,精神分析は外的にみても(externally)政治的である.精神分析は理論的,分析的,そして戦略的な供給源として政治的省察の領域にすぐさま取り入れられることとなり,社会的かつ政治的分析のための,さらには進歩的な戦略や社会改革にむけた,有力なツールになったのである.これはフロイトにおいてすでに明らかであった方向性であり,いわゆる「フロイト左派」(ライヒ,ローハイム,マルクーゼなど)の出現と創設によって,いっそうはっきりと示されたものである(ポール・A・ロビンソン『フロイト左派――ライヒ,ローハイム,マルクーゼ』平田武靖訳,せりか書房,一九七二年).

 浮き沈みはあるものの,この伝統はそのダイナミズムと魅力を失ったわけではない.もちろん,性の解放といったあまりに単純なスローガンは,社会的かつ政治的現象のいっそう込み入った説明によって取って代わられたし,「フロイト左派」から「ラカン左派」(ラクラウ,ジジェク,バディウなど)へと移行するなかで,そのボキャブラリーも変化してきた(ヤニス・スタヴラカキス『ラカニアン・レフト――ラカン派精神分析と政治理論』山本圭・松本卓也訳,岩波書店,二〇一七年).これまで,政治領域では,グローバルな資本主義体制がその様々な(性的,消費主義的,あるいはその他の)表現のなかに享楽を吸収してきたが,このボキャブラリーの変化は政治領域における戦略的な諸目標の変遷にあわせたものである.
 

 精神分析は進歩的か,反動的か?

 たとえば,概念的なレベルにおいて,無意識と政治的なもののあいだの類似した関係を見てみよう.おおまかに言って,無意識は力動的(dynamic)なものであり,それなしには曖昧で説明できないような,様々な厄介な現象にもとづき仮定されたものである.フロイトのおかげで,これら無意識の「形成物」が,夢,言い間違い,症状といったものであることを私たちは知っている.さて,これらすべてが共有するものこそ,同時にそれらの政治的な性格をはっきりと示している.すなわち,それらは程度の差はあれども,私たちの「通常の」意識的な心の機能を攪乱するのである.たいへん興味深いことに,まさしく「政治的なもの」も,攪乱するものとして定義することができる.つまりそれは,敵対性と結びついたものであり,ある特定の社会的-政治的領域の限界を記し,意味や力を新しく編成するという課題を提示するものなのだ.精神分析の臨床においても,同じような方向性が前提されているように思われる.つまり,臨床においても,私たちの精神的-社会的世界を象徴的かつ情動的に再組織化するために,無意識の形成物の痕跡が用いられているのである.

 いうまでもなく,無意識を単に進歩的でさらには革命的なものであると考えたり,あるいはもっぱら反革命的,反動的なものと理解することも難しい.無意識の過程は社会変革の可能性と不可能性のどちらの諸条件をも提供するのであり,それは変革の欲動のみならず,権力関係の長期にわたる結晶化にも織り込まれているのだ.このことは決定的に重要だろう.

 いずれにせよ,無意識の機能から政治的行為のための実践的な意義を引き出すという課題を,分析家や精神分析的な政治理論家にもとめて終わりにすることのないよう注意すべきである.つまり彼らを,社会変革をおこしたり,請け負ったりしうる特権的な前衛集団にするべきではない.この幻想を超えたところで,現実の政治は始まるのだ.いうまでもなく,ここでは分析家,理論家,社会運動および進歩的な市民らがみな,均等な持ち前(share)で貢献する必要がある.
 

 ポピュリスト・スキャンダル

 それでは,誰がこの変革の集合的なエージェント,「政治的主体」になることができるのだろうか?ポピュリズムについて,その悪い評判だけでなく―それはメディアの権威主義的な傾向とも関連しているのだが―,ラディカル・デモクラシーの視座から徹底的に議論しておく必要があるだろう.通常,ポピュリズムは,それまで排除されてきた特定の諸要求を打ち出すことができるような,潜在的な意味においてヘゲモニー的な,ある政治的かつ集合的主体の創造,出現,構築を意味している.この政治的主体が平等主義的な諸要求(それはラディカル・デモクラシーの視座と結びついたものだ)の伝達者となり,さらに人々の意志決定への参加が拡がるかぎりにおいて,ポピュリズムは政治的な主体性をもたらし,それによりラディカル・デモクラシーのアジェンダが既存の公的領域に真に影響を及ぼすようになる,そう言ってもいいだろう.

 もちろん,反民主主義的な方向に向かう欧州の極右ポピュリストのように,別のタイプのポピュリズムもある.平等主義的で民主主義を根源化するタイプのポピュリズムは,ときに,反ポピュリズム的で,エリート主義的で,あるいは権威主義的でさえあるプロジェクトに対抗しなければならない.いまや,この政治的敵対性の弁証法はあまりに複雑なものとなっており,あらかじめそれをコントロールしたり,事前に決めておくようなことはできない.いずれにせよ,ほとんどの場合,平等主義的で民主主義を根源化するタイプのポピュリズムがラディカル・デモクラシーを前進するための媒体となることができると言っておこう.そして,既得権益勢力からの上っ面だけの疑惑であるとか暴力的な敵意に遭わないとき,このポピュリズムは進歩的な仕方で制度的な営み(institutional life)に影響を与えることができる.実際,これこそが現代民主主義の再活性化への最良のチャンスになるかもしれないのだ.

 明らかなことに,デモクラシーはリベラリズムよりもかなり以前から存在したのであり,それをリベラリズムに還元すべきではない.デモクラシーは人民主権,人々の参加,そして意志決定と政治的敵対性(あらゆる社会,ラカン派のジャーゴンで言えば大文字の〈他者〉)に内在する分割を正統化しようとするある特定の方法と結びついたものにちがいない.それは,血統や家族,さらに知識や富が,誰かに統治する権利を与える正統な決定要因になるという「貴族的な」主張を超えていくものだ.さて,この特定のロジックはかなり平等主義的なものであり,寡頭的なシステム(これは諸権利と自由を社会エリートの小集団に限定するものである)とも完全に両立しうるリベラルな方向性と,必ずしも節合される必要はない.たとえば,ラテンアメリカにおける寡頭政リベラリズム(oligarchic liberalism)には,とても長い伝統があった.さらに一九世紀の欧州では,リベラリズムは通常,投票権を財産と一定の収入のある人々に制限していた.それ以降,チャーティスト(英国においてきわめて重要な運動であり,寡頭政リベラリズムに対抗した運動)によってデモクラシーの拡張と深化が始まったのである.そのような闘争によって,最終的に,自由主義的なものと民主主義的なものというまったく異なる二つの伝統の逆説的な節合が促進され,その結果として私たちはリベラル・デモクラシーを手にしたというわけだ(この点についてはC・B・マクファーソン,およびシャンタル・ムフの著作を参照されたい).

 いうまでもなく,この趨勢はのちに,反転し,結局は転倒させられてしまった.これこそ,多くの理論家が「ポスト・デモクラシー」,すなわち脱-民主化の過程として理論化しているものだ.リベラリズム,さらには新自由主義が推進力となり,それらはほとんど完全にリベラル・デモクラシーと同じように扱われるようになっている.民主化を導いた諸価値と平等との結びつきを失ったことで,そのシステムすべてがポスト・デモクラシー的な段階に突入し,そこではテクノクラシーにもとづく解決が優先され,公的な生活の多くの領域が,人々の参加や意志決定の届かないものになってしまった.このことは,リベラル・デモクラシーという混成物がもつ生産的ポテンシャルをショートさせてしまっている.この局面においてこそまさに,包摂的で平等主義的なポピュリズム的人民の主体が脚光を浴びるのだ.
 
Yannis Stavrakakis, “Politics and Psychoanalysis: Past, Present and Future”
Copyright 2018 by Yannis StavrakakisTranslated by permission of the author

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