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岡野八代 ✕ 三浦まり 『ケアの倫理』刊行記念&『さらば、男性政治』石橋湛山賞受賞記念対談

岡野八代 ✕ 三浦まり フェミニズムで政治を変える

2024年2月にジュンク堂書店池袋本店で開催されたトークイベントにて
2024年2月にジュンク堂書店池袋本店で開催されたトークイベントにて

岡野八代さんと三浦まりさんは、同い年で、ともに政治学者で、フェミニズムを研究しておられます。
1月に刊行された岡野さんの『ケアの倫理』は、岩波新書新赤版2001点目でした。
そして、三浦まりさんの『さらば、男性政治』は、石橋湛山賞・平塚らいてう賞を受賞、新書大賞2024の第9位に入りました。
記念すべきふたつの新書を中心に語っていただきます。

※2024年2月にジュンク堂書店池袋本店にて開催されたトークイベントを再構成したものです。

 政治学・フェミニズムとの出会い

司会 まずは、おふたりがなぜ政治学者を目指されたのか、そしておふたりの出会いについてお聞かせくださいますか?

岡野 高校生のころは文学に興味があって詩人になりたいと思っていましたが、母の影響で、「食べていける」職につくためにいろんな大学の法学部を受験して、たまたま受けた早稲田大学の政治経済学部に行くことになりました。もとからどこかひねくれた性格で、世の中の役に立つことはしたくないと思っていたので(笑)、政治学や経済学のなかでももっとも役に立たなさそうな政治思想を勉強することにしました。フェミニズムのフェの字も知らない10代の学生でした。
 大学院時代に北米に留学し、そこでフェミニズムと出会いました。90年代はアメリカでフェミニズム思想がとても盛り上がっていて、ジュディス・バトラーなど綺羅星のような女性の思想家が活躍していたんです。そこで影響を受けて、フェミニズムに目覚めました。格闘しながら研究を続けてきて、今は政治思想を選んでよかったと思っています。

三浦 私はもともと美術哲学、美学をやりたいと思っていましたが、同時に世界史も好きで、高校時代は20世紀の世界史を勉強しながら、どうして戦争が起きるのか知りたいと思っていました。近現代史を勉強するには「政治学」という学問をやったほうがよさそうだと知り、政治学科のある慶応義塾大学の法学部に入りました。そこで勉強するうちに、私が興味をもっているのは政治の荒波にもまれた「個人」の物語だと気づいて、「個人」のことを考えるには、足元の国内政治を見るべきなのかな、と思ったんです。社会学や経済学にも惹かれたけれど、結局ずっと日本政治を研究してきました。

司会 そんなおふたりの出会いのきっかけは?

三浦 八代ちゃんおぼえてる?

岡野 うん、ジェンダー法学会の研究会でまりちゃんの報告を聴いて、日本の政治学者にこんな方がいるんだ! と知ったのが2000年くらいかな。年も近くて柔和な方で、本当に嬉しかったですね。

 政治学者としてフェミニズムを研究する意義

岡野 政治思想は、「政治的なるものとは何か」を考える学問です。そこでは男性の思想家・研究者たちが性差を「自然」、つまり「政治的な取り決めではない」と何千年も繰り返して論じてきていました。学部時代に私もプラトンやアリストテレスを読んだし、「女は自然や獣に近い」などと書かれている本に何ら違和感をもつこともありませんでした。
 その後、フェミニズムを研究するなかで気づいたのは、「当たり前」で「自然」だと思わされていたことが、じつはもっとも権力的な効果で政治的だったということでした。政治学は、「権力」という人びとのマインドまで左右してしまうものの恐ろしさを掘り起こしてきたけれど、そこにフェミニズムの視点が加わることで、権力に対する敏感さが増すことに気づきました。

三浦 私が研究者になったのは、日本の企業で働くのは無理だと思ったから、ということもあります。日本の企業は女性にとっては働きにくそうでした。その「働きにくそう」ということが当時は自分でもはっきりわかっていなかったのですが、フェミニズムを通してその居心地の悪さが徐々に言語化されていきました。
 アメリカの大学院では最終的に比較福祉国家論にたどり着くのですが、日本の福祉国家の特殊性はジェンダーを見ないとわからないと感じ、そこからジェンダー研究に入っていきました。社会学や経済学にも興味がありつつ、それでも政治学に残ったのは、政治によって世の中はよくなるんだ、政治でしか変わらない、とずっと考えてきたからでした。日本の政治学業界は「中立的」であろうとし、結果的に保守的です。現状をどう変えていくかを論じようとすると、イデオロギー的だからダメだという風潮が強いのですが、英語圏の政治学ではそんなことはありません。「ジェンダーと政治」の分野はフェミニズムの「価値」にコミットした学問です。「民主主義」や「平等」など様々な「価値」がありますが、学問が社会の変革にコミットしようとしています。

司会 フェミニズムを通じて、政治または政治学を変えていくにはどうしたらいいでしょうか?

岡野 私たちはふたりとも岩波新書でケアについて書いていますが、女性たちが担ってきた/担わされてきたケアは、今の日本の政治学では「政治的ではないこと」として扱われています。ケアについては、「自然だ」とか「女性の方が生物的に向いている」とかと言われてきましたが、それはじつは中央の権力者が決めているんです。女性が自分で選んだのではなく、そう選択せざるを得ない状況に追い込まれているということです。けっして自己責任ではない。フェミニズムはそのことに気づかせてくれます。これをどう打破するか。
 もしかしたら女性たちは、自分たちが直面している子育てや給食費の問題が政治の問題だとは思っていないかもしれません。政治はもっと大きな利害を扱うものだと思われているかもしれないけれど、それは違う。「政治から遠い」と思われている人たちは、もっとも社会的地位が低く、その人たちがもっとも政治的な影響を受けている。そのことに気づけば、そこから革命が生まれると私は信じています。ヒーロー待望論ではなく、ひとりひとりが気づくしかない。私たちの研究は、それをどうやってみなさんに伝えるかがテーマだと思っています。

三浦 私は「民主主義とは何だろう」と常に考えています。だれも政治から排除されず、だれもが政治に参加するのが民主主義なのに、多くの女性たちがそこから排除されている。フェミニズムを通じてそれはおかしいと気づくことができます。「個人的なことは政治的である」というのはフェミニズムの重要なスローガンですが、身近な生活が政治的な決定から大きな影響を受けていることに気づくと、政治に自分がかかわらないと不利になるし、かかわる権利があるのだと理解することができます。
 フェミニズムを通して、「ハラスメント」や「女性に対する暴力」などといった概念がつくられて、社会がやっとそれに気づきはじめています。とくにこの10~20年で世界が大きく変わってきたのに対して、日本は2000年代からのバックラッシュで社会を停滞させてしまったと思います。法律を決める国会に女性が少ないことも大きな要因であり、どうすれば女性議員を増やしていけるかが課題です。
 ですが、さっき岡野さんが言ったように、女性たちは「自分は政治に関係ない」と思っているのです。これは日本の特殊性です。大学では留学生と日本の学生の両方を教えていますが、日本の学生にはまずは「自分たちは主権者なんだよ」「政治にかかわらないとこんなに損するよ」「自分には変える力があるんだよ」ということを一学期かけて示していかないといけないんです。これって本当は中学生までに教わっていないといけないことですよね。学生たちには、今の日本ではだれが排除されているのかに気づいてほしい。女性、障がい者、セクシュアルマイノリティー……そうした存在をすべて包摂する政治をつくることができる、だからつくろうよ、と伝えています。

 これからが「勝負」のとき

司会 三浦さんの『さらば、男性政治』にはまさにそのことが書かれていると思います。それではここでまず、岡野さんから『さらば、男性政治』についてのコメントをお願いいたします。

三浦まり『さらば、男性政治』(岩波新書、2023)
三浦まり『さらば、男性政治』(岩波新書、2023)

岡野 政治学者の政治や政治学についての名著はたくさんありますが、どこか雲の上の話だったり、首相の人となりを取材したジャーナリストの本と大差なかったりするものもけっこうあります。でも、三浦さんのこの本は違う! たとえば、この本の第2章では、何が日本の20年の停滞をもたらしたか、女性たちがどんなに割を食っているかを細かにデータで示しています。これを読むと、政治がどこにいちばん影響を与えているかがよくわかる。性別分業、女性たちの労働のあり方、家庭内責任の偏り…‥‥それらがこの20年の停滞をもたらしたことがわかります。「性別役割分業を前提とし、女性を非正規雇用として組み込むことで男性の安定雇用を保障するというシステムは、もはや崩壊しているといっていい」「ジェンダー化された共稼ぎ型への移行は日本社会の格差と貧困の深まりとともに進行しており、『総負け組社会』が訪れている」。怖い本なんです。これを読んで震え上がった人は、明日から政治に無関心ではいられない!
 政治がこの20年停滞した帰結としての「総負け組社会」のなかで、どうしてこんなに女性たちが苦しまないといけないのか。女性の意志ではなく、日本社会の構造の隅々まで政治が決めてきたことだとこの本は示しています。だからこそ第6章ではクオータ制の重要性を実証的に説いています。とにかく今の政治を変える、変えるためにはクオータ制を導入しないといけない。三浦さんの『世界』の連載は「『変わらない』を変える」という素晴らしいタイトルですが、まさにそういうことなんです。この一冊で、政治ってこういうことなんだとわかります。女性がつらい、男性もつらい。だったらみんなで変えていこうと、希望も示してくれます。解決方法があるんですよ。海外ではもう実現できているのに、日本で歯止めをかけているのはだれなのか。みんなでこの本を読んで考えましょう!

三浦 停滞を論じている第2章は、とくにバブル世代以上の男性読者に向けて書きました。バブル時代の記憶があると、20年停滞していてもそう悪くはなっていないのではないかと思われがちなんですが、データを示して「そんなことない!」と伝えたかった。社会をこんな状態にした責任はその世代以上の男性にあると気づいてほしいと思ったんです。
 刊行から1年が経ち、この本について講演に呼ばれることも増えましたが、中高年男性が熱心に聞いてくれるようになってきたなと思います。男性の経営者たちは、人手不足を解消するため女性の労働力を呼び込もうとしているのだけれど、居ついてくれない、なぜだ? 自分たちのやり方がまずかったのか? と思い始めている。それと、コロナ禍を経て、日本が衰退しているということが明白になった。このことに気づけたこと自体はよかったと思います。それに気づかないと前に進めませんから。地方の権力構造は、あと10年経って70代のボリューム層が意思決定から抜けていくと変わると思います。これからは、ものすごい変革期がやってくる。それがチャンスです。そこで男女平等な社会に切り替われるかが勝負だと思っています。

 「責任」と「ケアの倫理」

司会 続けて、『ケアの倫理』へと話を進めましょうか。

岡野八代『ケアの倫理 ――フェミニズムの政治思想』(岩波新書、2024)
岡野八代『ケアの倫理 ――フェミニズムの政治思想』(岩波新書、2024)

三浦 本当に「決定版」。これほどわかりやすく、誕生から現在にいたるまで「ケアの倫理」がどう批判され、どう鍛えられてきたのかを書いた本はないと思います。とくに私がよかったと思うのは、ケアの倫理を追いながらも最後は政治の話に引きつけているところ。「ケアの倫理」のなかに、「政治学のケアの倫理」があることを論じたのは岡野さんが書かれた本だからこそだと思います。そして最後に、責任と政治にピタッと焦点が合わされていきます。「慰安婦」問題に象徴されるように、責任を問わない日本社会にあらがって「責任」を問うてきたのが岡野さんだと思います。ケアの倫理に基づいた新しい責任論を岡野さんは論じていて、英米はともかく、日本ではかなりハードルの高いテーマに取り組んでいます。
 岡野さんは、もともとケアの倫理を研究していて、そこから「責任」に関心をもつようになったのですか? それとも逆?

岡野 「責任」が先です。政治思想は「正義論」がメインテーマです。プラトンの『国家』も副題が「正義について」です。政治思想は「正義を実現する国家とは?」と問うてきましたが、その議論が私にはフィットしなかった。不正義が蔓延するこの世界で、「正義を実現させた国家とはどんな国家か」と理想論を議論しているけれど、いやいや、目の前のこの不正義をどうするの? と……。「国家」という暴力装置が戦争を繰り返し、数えきれない 人たちを殺してきた。何でこんなことになっているの? だれか責任を取ってよ、と思うのだけれど、戦争になったらだれも責任を取らないわけですよね。政治学ではこんなに「正義」を論じているのに、「責任」論を研究している人がいないのはどうしてなのか。たとえば「慰安婦」については、哲学者や歴史学者は扱ってきたのに、国家を論じてきた政治学は真正面から取り組んでこなかった。
 それで、正義論を批判しているフェミニストたちの議論を読むと、まさにそこでは「責任論」が展開されていました。苦しみながら「私を不幸にしたのはだれだ」と問うている人を放置していていいのか。たとえ自らの行為が直接的に生みだした他者の不幸ではないとしても、その不幸に応答しなくていいのか。苦しんでいるひとを放置できるしくみこそ、不正義ではないか。「ケアの倫理」は、「正義の倫理」とは違う。フェミニズム責任論を勉強し始めて、徐々にキャロル・ギリガンなどに出会っていきました。

三浦 すごく納得できました。責任とは、だれかの問いかけに応答していくこと。さまざまな呼びかけに対して応答することが「責任」であると、「責任」の範囲を開いていっていると思いました。
 私は岩波現代全書『わたしたちの声を議会へ』で、私の考える政治のあり方というのは「コミュニケーション」だと書きました。権力を一時的に預かっている政治家と主権者との双方向のコミュニケーションの豊かさが政治の豊かさを決定する、と述べたのですが、このコミュニケーションというのが応答であり「責任」でもあります。

 社会は変えられる、という自信をもつために

三浦 そうやって責任の「開き方」を考えると、日本社会はどうでしょう。社会が今の政治家を許しているのは、なぜなんでしょう? 自己責任論が強いなかで、他者に対しても「自己責任」を果たすように要求するのに、政治家の不正義となると急に追及できなくなってしまうのはどうしてでしょう?

岡野 日本は自分のことは自分でする、人に迷惑をかけてはいけないという縛りがありますが、それは翻って、政治が人々の暮らしを支えているという実感があまりにもないということだと思います。私は生まれてこのかた、政治にいいことをしてもらったことがない、と感じるくらいです。

三浦 でもほら、道路やダムは誰がつくったのか、とかいう保守政治的な話はあるでしょう……。

岡野 政治と言えば道路やダムなどの大型公共事業ばかり。自分たちの生活と公共がまったく切り離されていて、ひとりひとりが大きな政治を変えていくという気持ちを持つことができない。誰にも迷惑をかけずに自助でやっていくことに必死で、政治への期待感があまりにも少ないですね……。

三浦 この本では、ケアで満たされていない社会こそが不正義であると告発して、だからこそケアで満たされる政治への転換を、と書かれています。その「不正義だよ」という告発をだれかが聞き届け、正さなければいけないし、正すことができれば、政治変革へのステップになると思うのだけれど、そこが日本社会では切れてしまっている。それをつなぎ直す必要性を、この本を読んであらためて感じました。

岡野 小さな成功体験の積み重ねがあまりにもない。でもそこを諦めずにいかにつないでいくか、ということが鍵なんですね。小さなことでも何かひとつ変えることができれば、それが社会を変えることにつながっていく、その自信をつける必要があります。

〈終〉

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