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【特別公開】民主主義の登場(紀元前6世紀前後)[眞淳平『人類の歴史を変えた8つのできごとⅡ』より]

眞淳平『人類の歴史を変えた8つのできごとⅡ

 5月に重版を再開した眞淳平さんの『人類の歴史を変えた8つのできごとI──言語・宗教・農耕・お金編』につづけて、その続編『人類の歴史を変えた8つのできごとII──民主主義・報道機関・産業革命・原子爆弾編』を重版しました。今回はその第Ⅴ章「民主主義の登場(紀元前6世紀前後)」の一部を、抜粋して掲載します。


中世から近代へ

 西ローマ帝国の終焉とともに、ヨーロッパにおける民主主義はほぼ消滅しました。

 中世ヨーロッパにおいて、ギリシャ時代に生み出された民主主義という思想は、天文学などの科学の知識とともに、すっかり忘れ去られてしまったのです。

 そこでは、国王を頂点とする何層もの身分階層が築かれ、下層階級の人々は、政治に参加する権利をまったく持てませんでした。

 そうした中でも、政治権力の担い手をめぐる動きが、少しずつではありますが見られるようになります。たとえば中世のイングランドでは、国王と貴族との間で、王権を制限するための綱引きが起こっています。そして1215年には、当時の国王であったジョンの失策により、フランスの領土を失ったりしたことから、貴族などの不満が爆発します。これによって彼は、王権を制限する「マグナ・カルタ」という憲章を認めざるを得なくなったのです。

 ただしこれは、国王と貴族の勢力争いを反映したものであり、民主革命を目指したものではありません。しかし、国王の権力であっても制限を受ける、という取り決めがこの時期にできたことには注目してもよいでしょう。

 またマグナ・カルタは、その前文が、現在のイギリス憲法(ちなみにイギリスでは、日本などと違い、単体の憲法はありません。イギリス憲法という場合、イギリスの国家としてのあり方を規定する、複数の重要な法律そのほかの総称、を指しています)の一部として残されています。その意味では、マグナ・カルタに代表される王権の監視と制限という伝統が、イギリスの民主主義に受け継がれている、といってもよいかもしれません。

 その後、近世になると、ヨーロッパ社会の動きは激しくなります。

 新たな社会思想が登場し、やがてそれに影響を受けた革命が発生していくのです。

 たとえばその初期の思想家としては、ジョン・ロックというイギリスの思想家がいます。

 彼は17世紀後半に活躍した人物で、「自然権」と呼ばれる、すべての人間が生まれながらに持っている基本的な生存権、が認められるべきことを主張しました。さらに政治における政府の正当性は、統治される人々の同意とそれにもとづく正当な統治があってこそ、認められる。もしそうでなければ人々は政府の交替を要求し、政府に抵抗することが許される、と述べています。人民による「抵抗権」を容認したのです。

 ロックのこの思想は、17世紀半ばにおこなわれたイギリスにおける一連の革命とそれによる立憲王制の確立を、理論的に裏づけるものとなりました。

 さらに、イギリスでの立憲王制と議会制民主主義の始まりは、フランスなど周辺国にも大きな影響を及ぼしていきます。そうした影響を受けた思想家のひとりに、18世紀前半に『ローマ人盛衰原因論』『法の精神』などの作品を著したモンテスキューがいます。

 彼は、イギリスの政治において、君主と議会、議会の中でも貴族院と庶民院の間で、相互抑制のメカニズムがあり、ひとり、あるいはひとつの集団が権力を独占できない制度がつくられている様子を見て、感銘を受けます。

 そこからモンテスキューは、法をつくり、それを執行し、それに違反するものを裁くという政府の3つの機能が、それぞれ別の機関に割り振られ、相互に牽制がおこなわれるという「権力分立」の考えを打ち立てたのです。この思想がのちに、立法、行政、司法の「三権分立」という、近代民主主義の大きな柱となる原理になっていきました。

 彼はまた、『法の精神』を執筆することで、為政者が自分に都合のよい法律をつくることを阻止しようともしています。そこでは、どの国も、その国の政治体制や国土の大きさ、質、気候、国民の生活形態、宗教、文化状況、あるいは経済状況といったさまざまな要素が、全体として「法の精神」を形成していること。国によって法律のあり方が異なるのは、その国によって法の精神が違うからであること。法の精神から見て、自国フランスなどヨーロッパの中規模国家にもっともふさわしいのは「専制体制」ではないこと。よりふさわしい体制を採用することで、為政者の権力乱用を阻止すべきこと、などが説かれたのです。

 ただしこのとき、民主制や貴族政といった「共和政体」は、公共のために私的利益を犠牲にできるような市民の高い徳性が不可欠になるため、(古代ギリシャのような)より小さな国家にこそふさわしく、フランスにはもはや純粋なかたちで導入することはできない、とも述べています。

 ジャン・ジャック・ルソーも、忘れてはならない思想家です。彼は、モンテスキューより20歳ほど若く、ジュネーブで生まれ、フランスを中心に活躍した人物で、社会のあるべき姿を考察した『人間不平等起源論』『社会契約論』、教育論や宗教論を記した『エミール』をはじめとする、多くの著作を発表しています。

 中でも『社会契約論』は、フランス革命の最中である1789年に発表された「人権宣言」にも大きな影響を与えた、といわれる作品です。人権宣言では、自由と平等、主権在民、言論の自由、三権分立といった、民主主義に不可欠な要素が謳われていますが、それらの考え方の基礎となったのが、『社会契約論』に書かれたルソーの思想だったのです。

 『社会契約論』によれば、共同体がその構成員すべての生命や財産を守り、しかも各構成員が自由でありつづけるためには、「社会契約」というものが解決策になる、といいます。このとき社会契約とは、為政者が国民に強要するものでも、国民が為政者と結ぶ契約でもありません。ある人が、自らの意思によってひとつの共同体の一員となったとき、契約が結ばれたことになる、というのです。

 そこでは、共同体の構成員全員が主権者となること。構成員とその権利が、共同体に全面的に「譲渡」されること。各構成員は、共同体の全体の意志(『社会契約論』ではこれを「一般意志」と呼んでいます)に従うこと、などが求められるといいます。

 こうした社会契約は、実際にどこかの国や地域で実施されていたものではありません。そうしたものにもとづいて社会をつくっていくことこそ、重要なことなのだ、とルソーは述べたのです。つまり人が、国王などに強制されてその国民となったりするのではなく、自発的に、自分の意思で共同体の一員となるような社会こそ目指すべき姿だ、と彼は説いたことになります。

 『社会契約論』ではさらに、政府は主権者(=国民)の僕(しもべ)であり、主権者が取り決めた法律を執行するのが政府なのだ、ともしています。

 ロックやモンテスキュー、ルソーなどの思想家たちは、この時期、人々に生存権や自由を保障する、あるべき社会の仕組みとはどのようなものか、を必死に考え、それを社会に向けて提案したのです。

 この前後から、新たな政治体制をめぐる思想や議論が、多数登場するようになりました。

 1789年7月14日。新たな政治体制を模索するそれまでの動きが、政治上の一大事件へと発展します。バスティーユ監獄への攻撃に端を発する「フランス革命」の勃発です。

 フランス革命は、またたく間にフランス全土に広がっていきます。

 ここから、フランス中を巻き込んだ戦いが始まり、多くの血が流されたのです。

 そこでは、のちの三権分立につながる権力の分立こそが望ましいとする人々と、人民主権という権力の一元化を主張する人々の間でも、激しい論戦が繰り広げられます。
 さらにフランスは、革命をきらう周辺諸国からの武力干渉にも直面しました。これによって、第Ⅷ章でも触れるように、多数の一般市民が戦争に加わらざるを得なくなったのです(213ページ参照)。

 こうした激動の時代を経て、フランスにおける民主主義は、社会の中に少しずつ根を下ろしていきます。そしてフランス革命から数十年の時間をかけて、周辺諸国にも、民主化に向けた動きが広がっていきました。

 王制や政権の打倒を目指した革命には、フランス革命以前にも、17世紀半ば以降のイギリスにおける「清教徒革命」「名誉革命」というできごとがあります。

 しかしフランス革命は、それ以上の巨大な影響を、周辺諸国と後世に及ぼしています。

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