第45話 未刊の見極めは難しい
岩波文庫の長い歴史のなかには、さまざまな事情で未完に終わった書目もある。先にお伝えすれば、文句を言いたいわけではない。ささやかながら本の執筆や翻訳に携わる者としては、さまざまな事情によって企図が果たされないまま終わることがあっても不思議はないと思っている。なにしろ1冊の書物が世に送り出されるまでの過程には、実にさまざまな条件や事情が絡み合っているものだから。別の回で触れる検閲のように、時代ごとの政治や制度といった要因もその一つである。
他方で岩波文庫を全巻集め読もうと考えている身としては少々困ることもある(第7話も参照)。「悪魔の証明」と言えば大袈裟かもしれないけれど、ある本が存在していないこと、つまり「これは予告されたものの実際には刊行されていない(はず)」と特定するのは、いつでも簡単というわけではないのだ。いまならインターネットの各種書誌などを調べれば、ある程度様子を窺うこともできる。とはいえ、そうした書誌にも見落としや誤記が含まれる場合があるので油断はならない。
例えば、私は長い間、『宋名臣言行録』(全3冊、青〔番号なし〕、和田清校閲、河原正博訳註)の下巻を探していた。北宋時代の名臣らの言動を、日本でも朱子学でお馴染みの朱熹(1130-1200)と後の人たちが編んだ本である。岩波文庫では全3冊の予定で、上巻が1944年11月、中巻がその4年後の1948年10月に刊行されている。だが、いくら探しても下巻が見当たらない。うーむ、これは出たのか出なかったのか。
あとで『岩波文庫解説総目録』に「下 未刊」と記されているのを知り、「どうりで見つからないわけだ」と解決した。ついでながら、同書は現在、朱熹編『宋名臣言行録』(梅原郁編訳、ちくま学芸文庫シ37-1、筑摩書房、2015)で、原本5集全75巻のうち、朱熹が編纂したとみられるはじめの2集24巻を読むことができる 。
『岩波文庫解説総目録』は岩波書店による公式の目録であり、これを信じない手はない。ただし、次のようなケースもあるから、これまた油断がならない。
『マルクス=エンゲルス往復書簡』(全3冊、白〔番号なし〕、岡崎次郎訳、1951-1952)は、目録に「全3冊」と記されており、「未刊」という記載はない。また、その解説欄には「1844-83年にいたる1569通の厖大なマルクス=エンゲルスの往復書簡」と、収録された期間と書簡の数が明記されている。始まりの1844年とは、パリでフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)とカール・マルクス(1818-1883)が出会った年であり、終わりの1883年はマルクスが没した年である。つまり、二人は知り合ってから一方がこの世を去るときまで、40年近くにわたって手紙をやりとりしていたわけだった。
はて、それだけの書簡が文庫3冊に収まるものかしら、とは誰もが思い浮かべる疑問かもしれない。比較の材料としてご紹介すれば、大月書店から刊行された『マルクス=エンゲルス全集』(全49巻53冊、1959-1991)では、第27巻から第39巻の都合13巻を充てて、1842年から1895年までの書簡を収録している。始まりが1844年ではなく1842年からなのは、マルクスとエンゲルスの間だけでなく、彼らが第三者に送った書簡も含まれているため。また、マルクスの没後(1883年以降)も書簡があるのは、エンゲルスが没する1895年まで彼がマルクス以外の人に送ったものを収めているからだった。いずれにしてもこのくらいの分量はある。では、岩波文庫版はどうなっているのか。
これもまた『岩波文庫解説総目録』を見ると、第1冊(1951/04刊行)は1844年10月から1951年6月まで、途中を飛ばして最終巻の第3冊(1952/05刊行)には1853年1月から1856年6月までの書簡を収めていると記されている。ということは、それ以降、1856年7月から1883年までの分はどうなったのか。
そう思って『マルクス=エンゲルス往復書簡』を見てみると、全10冊の予定である旨が記されている。ということは、「全3冊」は「全10冊」であり、第1冊の「譯序」に、翻訳の原本は2千ページ以上で、「この文庫版ではこれを十分冊にして譯出する豫定である」(p. 3)と予告されている。そのつもりで帯や奥付を見ると、「全十冊」とあるので、これを踏まえるなら、『岩波文庫解説総目録』の解説には「四以下 未刊」と記すのが妥当かもしれない。
訳者の岡崎次郎(1904-1984?)については『資本論』について述べる際に改めて触れることにしよう。
*なお、『宋名臣語行録』の校閲者、和田清(1890-1963)は東洋史を専門とする人で、岩波文庫では『魏志倭人伝』を含む『中国正史日本伝』(全2冊)旧版の共編訳、那珂通世『支那通史』(全3冊)の翻訳がある。また、同書の訳註を担当した河原正博(1912-1993) も東洋史を専門とする。岩波文庫ではこの『宋名臣語行録』が唯一の仕事のようだ。
(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)




