第44話 全部もっている人
第43回で触れた山﨑安雄『永遠の事業 岩波文庫物語』(白鳳社、1962)は、岩波文庫にまつわるエピソードが満載のネタの宝庫のような本だ。


その本文もさることながら、巻末の附録がまた面白い。「創始者」「創刊年月日」という項目を筆頭に、「総発行点数」「総発行部数」「星(☆)の総数」「帯」「売行きベスト・テン」「売行きの悪い順位」「星(☆)数の多いベスト・ファイブ」「頁数の多いベスト・テン」「頁数の少ないベスト・テン」「現代表記(当用漢字・同音訓表適用)に改めたもの」「戦時中弾圧を受けたもの」「戦後復興順位」「星(☆)・頁数・定価の変遷」「判型」「活字」「用紙」「印刷」「製本」と、岩波文庫にまつわる各種のデータ(1962年当時)を6ページにわたって列挙した最後に「文庫を全部持っている人(ないしそれに準ずる人)」という項目がある。はじめて目にしたときには声が出た。
先にお伝えしておけば、「総発行点数」には2,810点と記されている。1962年は、創刊の1927年から35年目ぐらいの時期で、ごく単純に総発行点数を35で割ると、年に80点ずつ刊行している勘定だ。月に直すと6.66点で、なかなかのペースではなかろうか。
そして、これらを「全部持っている人」とは、いま述べた2810点、あるいはそれに近いだけの岩波文庫を持っているということだろうか。実に9名の名前が並べられている。
・杉浦明平(作家)*
・日高八郎(東大助教授)
・三輪福松(東大助教授)
・村川堅太郎(東大教授)*
・宮川三郎(経済倶楽部理事長)
・船津勝雄(「文庫を蒐めて十有三年」の筆者)
・太田慶一(陸軍伍長で支那事変に戦病死)
・上野淳一(朝日新聞東京本社員)
・平野直重(新潟県栃尾市栃尾郷病院内医師)
カッコ内の情報の詳しさや記述が人によってバラバラなのがちょっと面白い。杉浦明平(1913-2001)と村川堅太郎(1907-91)の2人は、岩波文庫に翻訳が入っている訳者でもある。以下、この連載では岩波文庫に著作や翻訳が入っている人物の名前には「*」を付すことにしよう。
ところで、いま挙げた9名のうち何人かについては、『岩波文庫物語』の本文でコレクションの様子が描かれている。人によっていつ頃の話なのかという時期はまちまちで、必ずしも同書刊行時の話ではないらしい。
例えば、船津勝雄については「昭和十四年五月ごろ「図書」(岩波書店)に載った、同氏の筆になる「岩波文庫を蒐めて十有三年」は感銘深いものであった」(同書、111頁)とあるから、1939年ころのことのようだ(この文章はあとで探して読むことにしよう)。あるいは出征先の中国で戦死した太田慶一(1912-38)の場合は戦時中の話である。
ついでながら、この太田慶一の遺稿集に入れられた日記にここでの話題に関する記述があるので触れておきたい。1937年4月12日の日記はこんなふうに書き出されている。
「岩波書店へゆくと妙なお客にあつた。赫ら顏の髯の濃い中年の紳士が岩波文庫を全部買ひたいのだがいくらになるかね、ときいてゐるのである。ところが岩波書店にはすぐその槪算を云ふことの出來るものが一人もないのであつた。」
(『太田慶一遺稿』太田慶一遺稿刊行会、1940、290頁)
これが誰なのかは分からないが、「岩波文庫を全部買いたいのだが」とは、人生でもなかなか口にする機会がないどころか、耳にすることもなさそうな台詞である。言われたほうも驚いたものだろうか。
他方で、『岩波文庫物語』の「買った文庫はみんな読んだ杉浦明平氏」という項には、「第二次大戦の末期、岩波文庫の収集が学生やサラリーマンの間に流行した」(119頁)という一文が見える。ネットの各種デジタルアーカイヴのおかげで、いまではそうした痕跡も少し追いやすくなっている。ここでも回を改めていくつかの例を眺めてみることにしよう。
ここでどさくさに紛れて言えば、私も岩波文庫を全部集め読もうとしている1人である。集め読もうとしているだけで、コンプリートは果たせていない。
■参考文献
★『太田慶一遺稿』(太田慶一遺稿刊行会、1940)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1052200〔要ログイン〕
(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)