三浦しをん 読者を裏切らないひと[『図書』2025年12月号より]
読者を裏切らないひと
子どものころ、私はリンドグレーンのとりこだった。自宅には「長くつ下のピッピ」シリーズと「やかまし村の子どもたち」シリーズがあり、最初は親に読み聞かせてもらっていたのだと思うが、小学校に上がるまえには、記憶とルビを頼りに自分で読んでいた。親がいつでも読み聞かせをしてくれるとはかぎらず、しかし私はいつでも自由にピッピたちに会いたかったので、鬼の一念(?)でひらがなを読めるようになったのだ。
町の図書館で、『さすらいの孤児ラスムス』も『やねの上のカールソン』も『名探偵カッレくん』も、とにかくリンドグレーン全集をあれこれ借りて、たぶん全部読んだ。あまりにも何度も借りてくるので、しまいには、親が少しずつ全集を買ってくれるようになったほどだ。
私の心をとらえたのは、もちろん、ピッピをはじめとする登場人物たちの生き生きとした様子や、かれらの楽しそうな暮らしぶりだった。しかし正直に言うと、それ以上に、食べものがおいしそうだったからだ。パンケーキ、ショウガ入りクッキー、黒ソーセージ、味つきパン、ザリガニ、サクランボ。食べたことがあるものも、ないものもあった。ショウガ入りクッキー⁉ どんな味? ザリガニを食べるの? 私も近所の沼でザリガニを釣ってきて飼ってるけど、たぶんこれとはちがうんだろうなあ……。
リンドグレーンの世界は、私にとってはじめての、きらきらした「外国」だった。かわいらしい壁紙の貼られた自分の部屋というものに、私は激しく憧れを抱いたが、残念ながら私が住んでいたのはおんぼろの木造平屋建てで、茶の間の壁は砂壁だった。壁紙、貼れない……。同じ地球上に、床でクッキーを作ったり、サクランボを売ってお小遣いを稼いだりしている子たちがいる! そう考えるだけで胸が躍ったし、スウェーデンに行ってみたいなあとわくわくした。
小学校に上がった私は、おいしく給食をたいらげていたが、ある日、ピンチを迎えた。小ぶりのウィンナーが2本、皿に載っていたのだが、冷たいし萎びているし、なんだかおいしくないと感じたのだ。しかし当時は、給食を完食しないと、昼休みに遊べないことになっていた。どうする……? 私は、「これは黒ソーセージなんだ」と自分に言い聞かせた。ウィンナーはちっとも黒くなく、むしろ白っぽかったが、無理やり「憧れの黒ソーセージ」なのだと思いこんで、口に入れた。最前までとちがって、ウィンナーはかすかにおいしく感じられた。現実に想像力で勝利した、はじめての経験であった。
私は友だちと原っぱで駆けまわったり、あいかわらず沼でザリガニを釣ったり、ブロック塀から飛びおりたりして毎日遊んだ。これはむろん、岩棚から飛びおりたピッピに倣ったのだ。いまだったら骨折しているところだが、そのときは、脚にしびびびと来る痺れを楽しみ、友だちと笑い転げていた。「いまごろ、ピッピたちも、やかまし村のみんなも、こんなふうに遊んでいるかな」と考えた。家に帰ると確認するように本を開き、「やっぱり楽しく遊んでる!」とうれしい気持ちになった。ピッピたちはいつでも、私と一緒にいてくれた。
私は、これらの本の作者がリンドグレーンだと知っていたが(本の表紙に「リンドグレーン作」と書いてある)、「作者」がなんなのか、まるでわかっていなかった。ピッピが、やかまし村のリーサが、つまり私と同じような年齢の子が、しゃべってくれているのだと思っていた。
今回、リンドグレーンの作品をあれこれ読み返し、彼女自身の肉声が聞こえるような日記や書簡集もはじめて読んだ。そして改めて感じたのは、どの作品も、どこかさびしいなということだった。子どものころも、うまく言葉にはできなかったが、たしかにさびしさを感じていた気がする。
たとえばピッピは、自由奔放なようでいて、夜はお猿のネルソン氏と馬しか家にいない。お隣に住むトミーとアンニカも、その事実に気づいていて、ピッピを案じることもある。『わたしたちの島で』は文句なしにおもしろく、マーリンに言い寄る男を撃退せんとする弟たちの奮闘を読むたびに爆笑してしまうのだが、母親がいないこの一家は、常にさびしさを自覚し、必死にお互いを支えあっているようにも見える。『はるかな国の兄弟』は、子どものころに読んで、あまりの悲しさに「もう二度と読みたくない」と思ったのだが、今回読み返してみて、やはりラストの余韻に胸が締めつけられる思いがした。そしてこの作品は、現実の戦争のメタファーとも読めるなと気がついた。
ということで、まずは『リンドグレーンの戦争日記 1939―1945』について考えてみたい。まだ作家になるまえの、30代のリンドグレーンがつけていた日記なのだが(終盤で作家デビューする)、これを読んで驚くのが、ほぼ新聞から得た情報をもとに、非常に公正かつ的確な現状分析を行っていることだ。北欧の人々にとって、ロシアの脅威がいかに大きいかということがわかり、現在のウクライナ戦争について、それに対するヨーロッパの反応/対応についても、より深く考える手がかりとなった。
しかしもちろん、リンドグレーンはかなり早い段階から、ナチスがユダヤ人にひどいことをしているのも察しており、大きな憤りを抱いている。ドイツとロシアの板挟みになり、食料もどんどん配給制になって、苦悩と平和への希求がつぶさに描かれる。ラーシュ(息子)は反抗期なのか、あまり家族と行動を共にしようとしないし、学業も芳しくない様子。カーリン(娘)は咳が止まらなかったり、離れ離れになるのを急に怖がるようになったりして(たぶん戦争も影響しているのだろう)、リンドグレーンを心配させる。そこにさらに、どうやら夫婦間にもなんらかの危機が生じたことがうかがわれ、日記としてかなり手に汗握る展開を見せる。
それでも、リンドグレーンはユーモアを忘れずに子どもたちを受け止め(たまに辛抱たまらず、ラーシュに「がみがみ」言うが)、戦争の推移を見つめ、苦しんでいるひとたちに思いを寄せつづける。あたたかい心を持った、理性と知性のひとだということが伝わってきて、「ああ、『ピッピ』や『はるかな国の兄弟』を書いたひとだ」と感激した。私のなかでほぼはじめて、リンドグレーンが「作者」として立ちあがってきたのだが、彼女の作品を夢中で読んだ幼かったころの私を、彼女自身、決して裏切ることがなかったのだ。
家族もいて、いますぐに死の危険にさらされているわけでもないが(スウェーデンは戦争中、中立の立場を守った)、しかし日記のそこかしこからも、さびしさの気配は漂っている。「幸せというものは、他の人から与えられるものではなく、その人自身の内から来るものでなくてはならないということ」。これは本当に真実で、だからこそ実現がむずかしい。愛されることで得る幸せは、ときに脆い。究極の幸福に到達するには、なんら見返りを求めず愛するほかないのだと思うが、実践できるひとはごく少数だろう。
リンドグレーンは実践した。『リンドグレーンと少女サラ 秘密の往復書簡』を読むと、それがわかる。
多くの読者から手紙をもらっていたリンドグレーンは、そのなかでなぜか、サラという女の子とだけ、長年にわたり、何度も手紙のやりとりをした。残っている手紙を読むと、サラがとても感受性が豊かで、かしこく、生きづらさを抱えていたひとだということがわかる。リンドグレーンはたぶん、サラを放っておけなかったのだろう。なにも見返りを求めず、サラを傷つけないよう慎重に、さりげなく励まし、導き、寄り添っている。
「学校を卒業したあとすぐに、もっとも身近な結婚に走ったとしたら、いやはや、いやはや、わたしなら、どうしてそんなもったいないことが出来るのかと、気が変になりそうです。サラには、ピルを飲みながら、どこかの小部屋で、恋人なんかと一緒にいないで、なんとかうまく学校を卒業して、そのあとちょっぴり世界や人を見て、少しは楽しんでほしいのです。ねっ、サラ!」。リンドグレーン自身は10代のころ、ラーシュを一人で生み、そのときの相手とは結婚を選ばず、仕事をしてきた。そういう経験から、すぐに人生のなにもかもを決めてしまうのではなく、「世界や人を見て、少しは楽しんでほしい」とサラに言っているのだろう。ここにもやはり、懐深く、心優しく、知性に満ちた人柄が感じられる。愛に傷つき、しかしひとを愛することをやめず、それゆえにずっとさびしさも抱えていたのだろうと推測されてならないのだ。愛しても報われないことのほうが多い。それでも愛しつづけるには、さびしさに耐える強靭な知性と理性の力が必要だ。
さびしさの気配と、現実の戦争を映したような展開、豊かな詩情を味わえるのが、『はるかな国の兄弟』だと思う。兄とともにたき火を眺めるクッキーは、こう思う。「時の始まりこのかた、世界じゅういたるところの荒地で燃された、あらゆるたき火のことを考え、それらがとっくに消えてしまったのを考えました。でも、ぼくのは、今、ここに、燃えているのです!」。
絶えることのないたき火は、リンドグレーンの作品を読んだすべてのひとの胸の内に、燃えつづけている。大人になったいま、この瞬間も!
リンドグレーン本人がどういうひとなのかを知らなかったころから、私はたしかに感じ取っていた。世の中には、見たことがないようなおいしいものがいっぱいある。だれしもが、楽しく幸せに、のどかに暮らしていいんだ。だけど、楽しく幸せだったとしても、そのひとの心のなかには、ぬぐいきれないさびしさがある。楽しく幸せじゃないひとも、おいしいものを食べられないひともいる。
リンドグレーンは説教くさくなく、それらをたしかに作品のなかにこめていた。では、どうすればいいのか。知りつづけ、考えつづけ、行動しつづけるほかないのだと、作品で、実人生で、示しつづけていた。
だからたき火は絶えることがない。これからもリンドグレーンの作品は読み継がれ、私たちは暗闇で燃えるたき火であたたまり、おいしいスープをその火で作って、みんなと分けあい、味わいあうことができるのだ。
私にはじめて、広く深い世界があることを教えてくれたのが、リンドグレーンの作品だ。リンドグレーンと訳者のみなさまに、心から感謝している。
(みうら しをん・作家)




