第21話 目録から始まる
私がはじめて自分で買った岩波文庫は、ヘロドトスの『歴史』(全3冊、松平千秋訳、青405‒1~3、1971-1972)で、それは高校生のときだった。物覚えの悪い私がなぜそんなことを覚えているかというと、別の記憶と結びついているからだと思う。
高校で世界史の先生が、「夏休みの読書ガイド」というプリントを配ったことがある。それだけのことなら、やがてどこかに紛れこませて終わったに違いない。私はその先生の授業の仕方や話しぶりが好きで、こういう大人になれたらいいなと感じていた。そんな先生のお勧めということであればこそ、載っている本を探して読む気になったのだろう。高階秀爾や塩野七生の名前を知ったのもその読書ガイドだった。岩波文庫のヘロドトス『歴史』もそこに並んでいた一冊である。
当時住んでいた田舎の小さな町の本屋には、岩波文庫を並べた一角があった。自転車で乗りつけて、ブックリストを片手に棚を眺める。岩波文庫がまとまった辺りを眺めるうちに、ヘロドトスの『歴史』を見つけた。「あ、これだ」とパラフィン紙に包まれた本を手にとり買って帰った。いまも手許にあるその本の奥付を見ると、上巻は1987年4月20日第19刷とある。私が手にした年だ。このとき買った『歴史』は、当時読み通せなかった。いまにして思えば、ヘロドトスが記述する古代世界についていくにはあまりにも知識が足りず、また自分で面白がるための素養もなかったからかもしれない。通読したのは後のこと。
本文は通読できなかったけれど、ここから岩波文庫を芋づる式に辿って集め読むというつきあいが始まったという点では、とても大きな出合いだった。それというのも『歴史』の巻末には、岩波文庫の既刊在庫目録と最新刊のページがあって、これが次の本を手にするきっかけになった。
といっても、同書巻末の既刊在庫目録は1ページで、「歴史・地理」という『歴史』も含むその方面の本が25点、それと「自然科学」が12点、書名と著者、訳者の名前だけを列記したシンプルなものだ。見ると「魏志倭人伝」や「ルネサンス」「宗教改革」といった世界史で見知った言葉や、シュリーマン、コロンブス、ナポレオンなどの名前が出ている。その頃、とりわけ歴史の教科書に載っているあれこれの記述は、元を辿るとどういう文書が根拠になっているのだろうという関心を持っていた。例えば、「ヘロドトスは「歴史の父」と呼ばれる」というけれど、言い出したのは誰なのかといった素朴な疑問である。これについては『歴史』上巻の「はしがき」1行目に「本書は、ローマのキケロによって「歴史の父」と称されたヘロドトス(前484ごろ-430以後)の著作「歴史」の全訳である」と訳者が書いてくれている。この一文に触れて今度は「キケロはどの本のどこでそう書いたのだろう」と探しに行くわけである。
当時は数学や自然科学に強い興味をもってあれこれ読んでいたこともあり、その既刊在庫目録の「自然科学」コーナーに並ぶヒポクラテス、ポアンカレ、ニュートン、コペルニクス、ガリレオ・ガリレイ、ヴェーゲナー、ファラデー、ダーウィン、ベルナール、デーデキント、ポール・ド・クライフといった名前にすっかり目を惹かれた。「こんなに原典の翻訳があるなんて聞いてないよ!」と興奮して、次に本屋に行ったら見てみようと楽しみにしたものだった。いまならすぐにネットで検索するところだが、幸か不幸か1987年の夏にはそうした情報環境はまだなかった。だから手にした本の巻末にちょっと載っている目録はとても貴重な情報源だったし、必要なら自分でノートなどにそうした書誌をまとめたりしていた。
ほどなく『岩波文庫 解説目録』という目録があることを知る。岩波文庫と同じ体裁で、かつてはよく本屋の文庫コーナーに紐で吊るしてあるのを見かけた。探している本があると、この目録を調べて棚を見たり、なければ注文したりするという具合に使う。また、在庫があればもらえることもある。この目録には、発行時に在庫のある書目が載っている。最近の解説目録なら、青、黄、緑、白、赤、別冊、ワイド版岩波文庫という大きな分類で配列されており、それぞれの部分は著者別番号順に並ぶ。
私はたちまちこの小さな目録の虜になった。なにしろ、まだ見たことのない古典名著がずらりと並んでいるばかりか、それぞれどんな本なのかを教えてくれる簡にして要を得た説明がついている。それに、この何百ページかの目録には、ポケットに入れて持ち運べるポータブル書棚のような気分もある。実際、目録に載る本が全部並んだ棚を見たことはなく、そういう意味では想像の中にある理想の本棚の岩波文庫版という風情でもある。もっとも、目録だけではそれぞれの本の中を読めるわけではないのだから、あくまで気分に過ぎない。しかし、それでも「ここに全部ある」という目録ならではの感覚が肝心だと思っている。「待てよ、在庫書目だけが載っているということは、品切れ書目もあるわけだよね」と気がつくのはもう少し後のことだった。
(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)
[『図書』2026年3月号より]




