第5話 円本の時代に
「大正末期から昭和初頭へかけて出版界に流行したものは何といっても左翼ものと大部な予約ものだった」。これは書誌学者の岡野他家夫が『日本出版文化史』(原書房、1981)で示した見立て。調べてみると、その当時、いまではちょっと信じられないほど多種多様な全集の類が刊行されていた痕跡が目に入る。例えば『世界聖典全集』(全30巻、世界聖典全集刊行会・世界文庫刊行会、刊行開始1920)とか『世界名作大観』(全50巻、国民文庫刊行会、同1925)、あるいは『トルストイ全集』(トルストイ全集刊行会、同1926)のように個人全集で61巻という規模のものもあった。他にどんなものがあったのか、気になる向きは『改造社のメディア戦略』(双文社出版、2013)の巻末をご覧あれ。改造社研究会が蒐集した大正末期から昭和10年代にかけての360種ほどの「全集内容見本」リストが掲載されていて、文学を中心に哲学思想、経済、科学、美術など、各種の全集類が陸続と企画・刊行されていた様子を垣間見ることができる。
日本の近代出版史を振り返るとき、逸せない話題のひとつに「円本」ブームがある。きっかけとなったのは、改造社の『現代日本文學全集』だった。関東大震災の甚大な被害と経済不況のなか、経営危機に瀕していた改造社の社主・山本実彦は、起死回生のアイデアを打ち出す。1926(大正15)年10月に、全37巻+別巻という『現代日本文學全集』の予約募集を新聞で発表したのだ。なにより目を惹くのはその価格。「市価十円のものが一円で買えるというので、出版界はひっくり返るように驚いた」(山本実彦「改造社小史」、『出版人の遺文 改造社 山本実彦』栗田書店、1968)。一巻一円という値付けから「一円本」とか「円本」と呼ばれることになるこの企画、実に25万の予約者を集めたという(前掲書)。これもまたいまではちょっと想像のつかない数字だ。いくら廉価とはいえ、全巻購読予約の文学全集にそれだけの人が殺到したというのだから。ちなみに当時の日本の人口は6,074万人ほどであり、大雑把にいって現在の半分ほどだった。
その広告を見ると、いまならスポーツ新聞の一面見出しのような大きな字で「現代日本文學全集」(ただし「現代」は角書き風に小さい)と見える。次いで大きいのは「豫約募集」と、丸で囲った「壹円」の表記だ。「善い本を安く讀ませる!この標語の下に我社は出版界の大革命を断行し、特権階級の藝術を全民衆の前に解放した」という強い調子で始まる広告本文は、「明治大正の文豪の一人残らずの代表作を集め得た其事が現代第一の驚異だ。そして一冊1,200枚以上の名作が唯の一圓で讀めることが現日本最大の驚異だ」という自画自賛で終わる。
改造社の『現代日本文學全集』は、大好評を受けて第二次予約も受け付け、さらに巻を増やして最終的には全62巻+別巻1の大きな全集になる。この思い掛けない大成功を他社が黙って見過ごすはずもない。1927年には新潮社から『世界文學全集』(第一期全38巻、第二期全19巻)が、平凡社から『現代大衆文學全集』(全60巻)、春秋社から『世界大思想全集』(第一期全54巻の予定が最終的に全124巻、第二期全28巻の予定が全29巻)という具合に、一巻一円の廉価全集が相次いで刊行され、円本ブームが巻き起こった。各社はこぞって新聞広告を打ち、宣伝部隊が幟を掲げて街頭へ繰り出し、作家による文芸講演会や宣伝の映画上映会を開いたりもしたという。雑誌などでは、このまま本が安くなっていけば、やがてただで配り出すんじゃなかろうかと揶揄するものもあった。
このとき、岩波書店はどうしていたのか。世間では、岩波もきっとなにかやるに違いないと噂されていたようだ。予想のとおりと言うべきか、雑誌『文庫』第一号(岩波書店、1951)に掲載の「岩波文庫略史1」に当時の様子を伝える話が載っている。社主の岩波茂雄は、当初、大方の出版人と同じく改造社の試みは失敗に終わると高をくくっていたらしい。だが、蓋を開けてみれば、先ほど述べたように大のつく当たりも当たり。出版各社がこぞって全集を刊行するに及んで、岩波書店でも円本の計画を立てたという。ただ、計画を揉むうちに他社から似たようなものが出てしまう、ということを繰り返すうち、ついには円本計画を断念する。代わりに誕生したのが岩波文庫というわけである。その名残は初回配本の「讀書子に寄す」に見える。
「近來流行の大量出版物を見るに、或は唯廣告と宣傳とに力を專らにして、その内容に至つては杜撰到底眞面目なる人々の渇望を滿足し得ることなく、或は豫約の手段によつて讀者を制限するとともに讀者を繫縛し、徒らに學藝解放の美名を僭するに過ぎないのがつねである。」
と、なかなか辛辣な調子で、どこにも「円本」とは書かれていないものの、「大量出版物」の版元を批判している。これが課題の所在を示した文だとすれば、岩波書店の解決案はこう述べられる。
「この秋にあたつて岩波書店は自己の責務の愈重大なるを思ひ、從來の方針の徹底を期するため既に十數年以前より志して來た計畫を慎重審議この際斷然實行することにした。」
円本計画を諦めた経緯を知った目で読むと、またちょっと違う味わいがある。そんなことはないだろうか。
(やまもと たかみつ・文筆家、ゲーム作家)
[『図書』2025年7月号より]